2019年3月7日木曜礼拝・10日曜礼拝:心の癒し聖会の証し
■エレミヤ17章
人の心は何にもまして、とらえがたく病んでいる。誰がそれを知り得ようか。
心を探り、そのはらわたを極めるのは主なる私である。・・
栄光の御座、いにしえの天、我らの聖所、イスラエルの希望である主よ。
あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。
あなたを離れ去る者は、地下に行く者として記される。
生ける水の源である主を捨てたからだ。
主よ、あなたが癒して下さるなら、私は癒されます。
あなたが救って下さるなら、私は救われます。
あなたをこそ、私はたたえます。
■ゼファニヤ3章
シオンよ、恐れるな。力なく手をたれるな。
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。
主はお前の故に喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前の故に喜びの歌をもって楽しまれる。
私は祭りを祝えず、苦しめられていた者を集める。
見よ、そのとき私は、お前を苦しめていた全ての者を滅ぼす。
私は足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていた全ての国で、彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。
その時、私はお前たちを連れ戻す。その時、私はお前たちを集める。
私がお前たちの目の前で、お前たちの繁栄を回復するとき、私は地上の全ての民の中で、お前たちに誉れを与え、名を挙げさせると主は言われる。
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■ONS主婦
私たちは神様に繋がっているのか、サタンに繋がっているのかどちらかである。
神様に繋がっている時には心に喜びがあり、平安があり、自由があり、希望がある。
反対に神につながっていないと、自分が望まなくても、それ自体でサンタの支配下に入れられる。
その状況は、本当に「自分を裁く牢獄」「人を裁く牢獄」「思い煩いと不安の牢獄」と言えるほどになると学びました。
○○○
エレミア17章:人の心は何にもまして、とらえがたく病んでいる。
心を探り、そのはらわたを究めるのは主なる私である
この御言葉により私のはらわた(無意識)に沈んでいるものは何なのかを祈っていると、[寂しさ・・ふるえるほどの寂しさ]という思いが示されました。
[えっどうして?なぜ?]と思っていると、幼き頃 反抗したり、叱られることが多かったこと。
「自分の存在を認めてほしい」とあがいて・・とる行動がますます回りの人を遠ざけているように思えたこと。
「自分は必要ない、可愛くない子どもなんだ」と自己否定していたことが思い出されました。
今、自分を裁き、責める私の心のあり様・・人に受け入れられたいという思いに通じていることが光に照らさて分かりました。
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牧師の按手を通して、父が私を愛した様に私はあなたを愛してきた。
この愛であなたを癒すと主イエス様がおっしゃって下さいました。
この言葉が今の私には本当に感謝です!ありがとうございます!
私は愛されていたのですね。この寂しさを取り除いて下さい。
「まず自分を愛するものになりたいのです」と祈りました。
すると、涙が溢れました。 (牧師注:これは彼女が神に愛され、自分で自分を愛した瞬間ではなかったのでしょうか? 私たちも何にもましてあなたを愛し、あなたをほめたたえます!)
■TMRさん 男性技術者
今日の礼拝のはじめに、牧師の癌、肺気腫に対する考えや、とらえ方、戦い方等の話があり、歴代誌7章に勇気を与えられた。
私の民がひざまずいて祈り私の名を求めて、悪の道を捨てて、立ち返るなら、私は耳を傾けて罪をゆるす。すごい 御言葉です!
キリストは喜びであり、自由であり、愛、平安の源です!
キリストを離れると、罪、死、呪いの道を歩む。
全ての人の経験であり、私の経験ですよね!
エレミヤ17章では
人の心は、とらえがたく病んでいる。誰が知り得ようか。
その腹を極めるのは私である。
この祈りの中で「腹わた」(無意識)の奥の奥の病んでいる私の母親の苦しみが示された。
戦中戦後の生きること自体が苦しみであった時代・・その中で父親から来る逃げ場のない悲しみ、悔しさ、苛立ちを「私があきらめ、我慢すればいいのや」と母が自分の心に言い聞かせ、人生を生きるとはそのようなもの、と覚悟してきた母の人生の戦いが私の心に御霊によって示されました。
その母の苦しみと諦めは、母親の胎の中いた胎児の私の抑圧となり続け、今日の自分自身の性質を作り出す、大きな影響を与えたと示されました。
今後、亡くなった母親の霊の慰めと自分自身の心の自由と癒しを求めて祈らねばならないと心に決めました。
■OHT主婦:木曜礼拝の癒し
今日の礼拝で思い煩ったりするのは単に自分の性質ではないことが、はっきりと分かった。神様に繋がっていると心が自由になる。心に平和がある。
そんな経験を何度もしてきた。しかし神様につながっていないと自分を責める。
思い煩う。その牢獄に入れられる。私は自分を責め、思い煩いの奴隷になる。
強い思い煩いに悩まされているとき、神様から離れている。
そしてそのまま悪魔と繋がっている自分を認識して、神様に立ち返る、つながり直す。
そのことを学んだ。
人間は皆、神様に繋がって平和を保つか、神様から離れて悪魔に結ばれて、自分を責め、思い煩いの牢獄に居続けるのか。
二つに一つの道しか無い事を今までよりハッキリと認識しました。
私の心(意識)とはらわた(無意識)極めて、癒す神様が、幼い頃からの私に啓示して下さった。
幼い頃から、私は姉妹の中で駄目な子!価値のない子!
姉と比べていつも自分を否定的、悲観的に思わされていた。
姉たちの目を気にしていたこと等が示されました。
その事によって今も尚、姉たちにだけではなく他の人に対しても自分は駄目な人間・・、と否定的、悲観的になってしまっている事が悟らされました。
この幼い頃からの体験が「自分を責め」「思い煩う」大きな根拠になっていることが、分かりました。幼い頃からの「はらわたの思い」をこれから十字架に釘付けて、取り除いていきます。
■OHT主婦:証しの続き。
先日の木曜礼拝で私の幼い頃からの『はらわたの思い』を神様が啓示して下さいました。
それは幼い頃から姉妹との関係の中で「私は駄目な子!」「価値のない子!」と言う否定的、悲観的な思いでした。
その『はらわたの思い』によって今も尚、自分を責める・・自分に確信がないので思い煩う・・不安になる・・という性質です。
幼い頃からの『はらわたの思い』が今、現在の私の心の痛みの根拠であった事を神様が示して下さったのです。
今日の日曜礼拝ではHRYさんとONSさんが私に「はらわたと心」の癒しのためにとりなしの祈りをしてくれましたが、私はまず神様が私に心の真実を教えて下さったことに感謝しました。
すると、お二人の祈りの中で、神様が教えて下さいました。「私には何も無い!」「私には何も出来ない!」「でも神様は私の存在そのものを愛して下さっている」と。
私は思いました。「何もなくても、何も出来なくても、神様に愛されている存在が私なのだ!!」と。
「神様はいつも私を見て下さっていたのだ」と、はっきりと分かりました。
神様、本当にありがとうございます!感謝しかありませんでした。
また、木曜礼拝からの恵みが日曜礼拝のこの恵みに引き継がれていることに気が付き、その神様の真実にまた感謝しました。
神様、ありがとうございます。
■HRYさん・役員
■3月3日・10日の礼拝の証し
キリストに結ばれていなければ、心は「悪魔の牢獄」「悪魔の奴隷」と言うキーワードが与えられました。
牧師の病気の問題で、私自身が牢獄に閉じ込められていることが、ハッキリと分かりました。
CT画像により癌と肺気腫が発見された時は全く他人事のようで現実感がありません。
本人の口から「このままだと今年中に私は死にます」「癌はステイジ4ぐらいか」と話すのを聞いても・・
あまり実感がありませんでした。
しかし、朝礼拝を始めようとすると不安と恐れが一気に襲い掛かり、「何故?どうして?」と、主の名を呼んで泣き叫び続けていました。
何をどう祈っていたのかさえ分からない・・・打ちひしがれている私に「子よ、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と御言葉(ガラテヤ5-1)が示されました。
そうだ、しっかりしなければ!私は奴隷の軛に繋がれたりしない!と思いながら、「私は主に結ばれて神の子です」「あなたの力の及ばないことは何一つありません!」「あなたが私の神、全知全能の神、永遠の、完全の神、変わらない、不変の絶対的な神」私は夫を助けねばならない。私は彼の同労者。
「どうしても癌と肺気腫を取り除いて下さい」と告白し続けても、蜘蛛の糸1本に繋がっているようなもの。しかしその弱い祈りを祈り続けた。
私一人の祈りは弱く力なかったが、3日のメッセージと教会が一つとなって牧師のために祈っている時、私は神の子としての力を得ました。その時、朝の一人の礼拝は牢獄の中の小さな、弱い祈りだった事に気が付きました。
「エレミヤ17章:主は私の命の源、主を離れ、主を捨てるものは地下に下る者とされる!」「何があっても私は神の子、キリストに結ばれて神の子!キリストによって命を得る者!祈る力も、求める力も、信じる力も!・・命と信心に関わる全てのことはキリストの内にある神の力によって、既に与えられている者!」
その所に立ち切って取り成し祈ることが出来るようにされました。
神の力、勢いが与えられ主が右の手で私を支えて下さっていることが分かり、10日には戦士として力が与えられ信仰に溢れて祈りました。感謝です。
■HRYさん・役員:心の癒し・按手の証し
私の心の片隅には何処かに、しなければならないことがあるのではないか。
それが出来ていないことがあるのではないかという漫然とした不安がいつもあった。
どこかでイライラし、せかせかし、どこかで焦っている。
それは実は「暴君」のような父親を怒らせないように、荒だったことを言わせないように、サキサキ気を遣い続ける「私」がいる。
いつの日からか、兄や弟にできないことをして、家の平和を守っている私の価値・・そうすることに私の存在価値を見出していたように思う。
牧師の按手を通して御霊によって、そのように気づかされた。
その「奴隷的な」恐れ・不安の束縛から、主に結ばれて自由にされた。
父の罪の赦しと自分の不安と恐れからの解放を祈り、更に主の愛に満たしを求めて、祈った。
気を遣うことが、親切、善意、思いやりから出るようにすべきだと思わされたから。
これも主イエスの心の癒し、解放の御業の一つである。
■NKMさん・主婦
今日の礼拝の始まり、私たちの日常は、神様に繋がっている時か、繋がっていない時か、どちらかだという事が、はっきりして印象的でした。 つながっていれば心はいい実を結び、繋がっていなければ心は悪くて苦しい実を結ぶ以外ないと。 按手の時は、悲観的・否定的な心の癒しを祈って頂きました。 はらわた(無意識)の癒しでは、亡くなった父・母の心の癒しを祈って頂きました。
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先週の礼拝の時、父・母の事を思い出した。夫のいない母と私と妹は徳島住まい・・という時期がありました。
父は家族から離れて一人京都で、新しい仕事を立ち上げようとしていた時で、大変だったと思います。母は、一人で子育てをしていたので、たくさんの不安や心細いことがあったのではないかと思います。
先週は、その時の、父・母の大変な状況、苦労の中で、母や父の辛さや不安、心細さなどの心の痛みを神様に取り除いて欲しいと思いました。夜、私なりにとりなし祈りました。
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それで、今日のはらわたの祈りのテーマとして私は牧師先生に、自分の事でなく、亡くなった父・母の心の癒し・祝福をお願いしました。それは先生の趣旨から、離れていたかも知れません。急に勝手に御願いしてすみませんでした。
父・母の心が癒されると、私の心の癒しにつながると思っていたのです。
■牧師のコメント
彼女の父母のそれぞれの孤独な労苦を思い、キリストにその慰め・癒し・平和を祈る。その愛はキリストに結ばれている時に与えられたキリストの愛です。
その慈しみと愛の祈りが亡くなった父母をいやすだけでなく彼女自身を癒すことは当然ではないでしょうか。
なぜなら、それはキリストの慈しみであり、愛だからです。
このように亡き父母を慈しみ直したのには、それに先立つキリストの啓示がありました。それは・・私は極めて自己中心的だった。自分のことしか考えていなかったという、嘆きです。
■牧師追記
彼女は何年か前、一年にわたって毎日曜礼拝で、私の導いている礼拝と全く関係なく、物心ついた頃から、小学校最終学年に至るまでの心の癒しをキリスト様から受け続けました。
病弱な妹が生まれたために、自分がかまってもらえなかった寂しさ、情けなさの一つ一つを、映像を持ってその時代の彼女を映し出し、キリストが幼い彼女を抱き、愛し、慰めてきたのです。
驚くべき癒しがキリストの主権的な愛の中で毎週毎週、一年ほど続きました。
彼女はその都度、有難くて、感謝にあふれて、涙を流し続けていたのを思い出しました。
私たちの主は、今日も私たちの心の痛み、束縛をいやして主と同じ心を創造するために力強く働いておられるのです。