神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

証言・授産施設職員(53歳)

■神様にお出会いする喜び



(1)聖書・教会との出会い



私が初めてキリストを信じたのは二十六歳の時でした。
それまでに中学の時に本屋で買った聖書を少しずつ読んでいました。
そして、この世界がいつまでも続くことはなく、世の終わりがあるのではないかと心のどこかで思っていました。
神は存在していて、もし、裁きがあるのなら、私が神の前に立たされたならば、私には裁かれる罪がある事は自分で分かっていました。
しかし、同時に逃れの道が聖書のキリストにあるのでは‥と漠然と思っていました。
その時は京都に住んでいたのですが、或る日、桂川の土手を自転車で散歩していた時、「日曜日は教会へ行こう」という教会の看板が目に入りました。
日曜日は遊ぶ日、好きな子を誘ってハイキングに行く日だと思っていました。
「日曜日は教会へ行く日」という言葉は意外で新鮮でした。
それまで、聖書の何箇所かが信じられていました。
例えば、「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる」と書いてあったのを見て、その通りだと思っていたのです。
人は生きるためには働かなければならないと思っていましたが、本当はこのように生かされているのではないか。
何か大きな存在によって、もしかしたら聖書の神によって‥と思い始めていました。
そんなわけで聖書を少しずつ信じていたので、土手で看板を見た時、思い切って教会へ行ってみようかと思ったのです。



(2)罪の赦し・十字架の意味



牧師先生の話は初めは良く分かりませんでした。
祈祷会の夜、輪になって床に座り、順番に祈りが始まりました。
自分の番になって、どう祈るのか分からなかったのですが、「天の父よ、御国に入れるよう導いて下さい」と祈りました。生まれて初めての祈りでした。
これが、「神様に従って行きます」「あなたを信じます」という決心になっていたのだと思います。
それからは、聖書を読む時に、今までとは違って、不思議によく意味が分かるようになりました。
けれども、「イエス・キリストが自分の罪の身代わりとなって十字架にかかって下さった。
それで自分の罪が赦されて、神の国に入れるようになった」という肝心な事が、頭では分かっても心では分かりませんでした。
それで自分が今、突然、死んだら天国に入れるか?と聞かれたら、やっぱり、「自分の罪が赦された」という確信がありませんでした。
けれども、或る日、一人で聖書の通信講座を学んでいる時に、ローマ人への手紙三章の御言葉、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」という言葉が、突然、全身で分かったのです。
清く正しく神の前に生きて、初めて神に赦されると今まで思っていましたが、「価なしに義と認められる」という事が分かったのです。
喜びが突然、腹の底から湧き上がってきました。
私は嬉しくて、嬉しくて、畳の上で飛び上がっていました。



(3)迫ってくる神の愛



御父が独り子イエス・キリストを十字架につけてまでも私の罪を赦して、滅びから救おうとされた。
その激しくも熱い父の愛を私はその時感じ、知る事が出来ました。
それまで神とは、私を裁くかも知れない、恐ろしい存在としか思えなかったのですが、人の親と同じ愛、いやそれ以上の愛で私を愛していてくれていたのだと知ったのです。
私が罪の中に滅びることを悲しんで下さった。
そして私を御自身の救いへと引き寄せて下さった。
私を子として迎え入れて下さった事を知ったのです。



(4)神様との新しい出会い



あれから、三十年になりますが、キリストと共に歩んだ生活は、初めの日に知ったこの真実と少しも変わりません。
それどころか、キリストの恵みと愛は更に増し加えて与えられて来ました。
仕事の都合で神戸に移り住んでから、あるきっかけで、この教会の牧師を知るようになりました。
その時、牧師は地域の救いのため毎日3時間も祈り続けていたのです。
この牧師はどんな礼拝をしているのか。
一度、教会を訪ねてみたいと思うようになりました。
初めてクライスト・チャーチ・神戸を訪れた時、礼拝の場所に入っただけで、胸に熱い平安と喜びが満ち溢れました。
神様の臨在がここにあると思いました。
椅子に座り、賛美の歌を聴く内になぜか涙が溢れました。
先生の語る聖書の言葉は真っ直ぐに心に入ってきました。
神様とこのように、直(じか)に会える教会は素晴らしいと思いました。
それから何度かこの教会の礼拝に集いましたが、いつも神様がそこにおられる、そのことが分かりました。
心に溢れてくる感謝と喜びがありました。
是非、この教会に集いたいと思い、今年の二月からクライスト・チャーチ・神戸に加えていただきました。

○○○

毎日の生活では、がっかりする事や、悔やむこと、どうしたらいいか分からない事が繰り返し起こります。
しかし教会の礼拝、聖書研究会に集うと聖霊様がまず私の心を満たして喜びと平和を下さいます。
問題に直面した時、自分一人背負い込んで、思い煩うのではなく、神様により頼む心を与えて下さって、「主よ、私を助けて下さい」とへりくだらせて下さいます。

○○○

ある日、職場で腹の立つ事があって、そのまま教会の礼拝に集ったのですが、礼拝の場におられる神様ご自身が私の心の内にまず、喜びと平安を与えて下さるのです。
そして、「人の怒りは神の義を実現しないからです」といった聖書の言葉を思い起こさせて下さり、私を怒らせた人の心を思い計る心を与えて下さるのです。
翌日は怒りそのものが消えています。
自分の考えていた解決方法はとらずに、問題が私の計らいによらないで、解決して行くのです。
まさに神様の御業としか言いようがないのです。
この様に、教会の礼拝には、自分を満たし、確かな助けを与えて下さる神様がおられるのです。
そして、賛美を心から歌うと、神様の御臨在がますます、心に迫ってきます。
理屈ではありません。神様がそこに居られるのです。
その尊さ、その感謝、それは何にも変えがたい私の喜びとなり、神様への賛美となりました。
主の御名を心からたたえます。




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