証言・大学生NSMR君
■汚れた霊からの自由と解放と恵み・・
復学したが、再び失敗
1年の休学が終わり、4月に入り、心新たに大学へ臨みました。最初の授業は英語で、少し遅れて教室へ入りました。前の席しか空いていなかったので、前に座っていると、後ろから男の子と女の子が噂話をしているのが聞こえてきました。それは僕の噂話でした。
「あの人、誰?」 「一体、何してる人なん?」
「あの人がN君?へえー」 「何なんやろうねえ」
話の内容は他愛もないこと、授業中ずっと話していましたが、その時は気になりませんでした。しかし家に帰って、一人でいると、噂されていたことが気になりだしました。「僕のこと、もう外大中で噂になってるかも・・・。どうしよう。また人から何言われるか、わからへん」
その日は、恐れと思い煩いで、夜も眠ることが出来ませんでした。
翌日、午前に専攻のスペイン語の授業があったのですが、出られませんでした。午後になって学校へ行き、民族学の授業に出ました。教室の中には何人かの同じ学科の学生がいて、授業が始まるやいなや、こそこそと噂話をしていました。 「あの人なんか、宗教・・やってるらしいよ。」
「何の宗教なん?こわいねえ~」話し声はすぐにやみましたが、授業後も、またそのことが気になって、悩んでいました。
家に帰ると、牧師先生から電話があり、「今日学校へいけたか?」と聞かれたので、昨日、今日あったことを話すと、「教会へ来なさい」と言われました。牧師先生と話をして、今とても思い悩んでいることを話すと、先生は聖書を出してきて、マタイ6章の25節以降の御言葉を読み、「思い悩んで寝られなかったら、神様に祈ってその思い煩いを取り去ってもらいなさい。また、大学へいけない日があったら、教会へ来なさい。仕事はいくらでもあるから」と言ってくれて、僕はとても安心しました。
また、「もっと、自分自身をほめたらなあかん。今まで頑張ってきたやないか。人一倍苦労して生きてきたやないか。それは生きる戦いやったんや。生きるために戦っていることは尊いことや。本当に、一つ一つを考えてみなさい。何年戦ってきた?小学校、中学校、高等学校、大学。長い年月、学校へ行くために戦ってきたやないか。
その自分を認め、ほめたらなあかん。それに神様は君を愛して、深い心で受け入れてくれているんやで」
そう言われて、「そうだな」と思いました。
それから、かなり奮闘しつつも、大学へ、行ったり行かなかったりの日が続きました。4月も終わりに近づき、今の現状を考えて、牧師先生に大学のことについて話をすると、「やっぱり、時期尚早やったかも分からんなあ。まだまだ恐れが取り除かれてない。人間に対する恐れを持ったまま、何日かは行けても、一年は行けんわなぁ。
信仰の自立、礼拝の自立、祈りの自立を目指して、しばらく特訓しようやないか。
礼拝と祈りの中で、主イエスが恐れや不安や罪責感を取り除いて、平和を与えてくれるのを何度も経検しようやないか。」
「行き詰まったんは事実やが、大学へ行こうと戦ってきたんやから、これは単なる敗北と違う。もう一年休学できるか、調べてきなさい」と言われ、僕もこのままではあかんと思ったので、家族と話し合い、後一年休学できることが分かったので、休学しました。それから、牧師先生と共に祈る訓練が始まりました。僕は次第に元気になってきました。
トラブルに遭うが、主の偉大なお考えに驚嘆する。
5月の前半,世界の伝道者、サムソン・ラジクマール師の伝導集会への準備もあって、毎日忙しく過ごしていました。伝導集会後、人馴れのためと、なまった体も鍛えていくといった目的で簡単な短時間のアルバイトを探しに職安へ行きました。
行ってみると、案外簡単に自分に適した仕事が見つかり、面接に行きました。面接もかなり手ごたえがあって、「これで大丈夫だろう」と、安心しました。結果を待つには、まだ暇がかかると言うことで、しばらく色々な所に出掛けてみたりして、外交的に暮らしていました。
ある日のこと、人から二時間に渡って暴言と暴行を受けるというアクシデントに見舞われ、心に傷を受けました。牧師先生に相談してみたところ、その罪を犯した人を聖書に書いているように、「赦すように心から祈りなさい」と言われたので、母と一緒に本当に心を込めて祈り始めました。その途端に、母が突然、ボロボロと涙を流し始めました。僕は訳が分からなかったので尋ねてみると、「その人のお母さんがその人のことで、がっくりと肩を落として悲しみに暮れている姿がありありと目に浮かんだ」と言ったのでした。僕はそれを聞いて、驚いたと同時に深く共感して、夜、二人でおいおいと泣いていました。
僕はただ、彼を心から赦して受け入れ、自分の受けた傷を癒してもらおうと、祈っていただけなのに、神様は母に幻を見せることにより、彼の家族をも救われようとなさっていることを知らされました。それを知った時、僕は、私達には到底思いつくことのできない人間の常識を超える神様のご計画に、ただただ平伏するばかりでした。なんとすばらしいお方なのでしょうか、僕たちの神様は!
主よ、心から賛美します!
気分は抑うつ的、家にこもりがちな生活
そうこうしている内に、アルバイトの通知が来ました。結果は不採用でした。何度か職安に通ってみたり、求人広告を見たりもしましたが、だんだん働こうとする意欲もそがれていきました。
6月に入り、1週目は、日曜礼拝に参加しましたが、2週目,3週目は休んでしまいました。今までにないことです! 毎日、心には思い煩いがあって、夜になると胸のあたりが、何かもやもやしていていました。寝つけず、夜明けまで窓の外を眺めたり、あまり頭を使わなくてもいいライト・エッセイの本なんかを読みながら、時間をつぶしていました。朝になると寝不足で、体が鉛のように重くなるのです。暴力事件の後遺症です。神様の方を向いていません。礼拝をしていません。ですから、状況は悪くなる一方でした。
日曜日の朝には、なかなか寝床から起き上がらない僕を見るに見かねて、母は「何してるの! 早く起きなさい! 礼拝に遅れるわよ!」と何度もベッド脇に来て、布団を引っぺがして、起こそうとします。最初の内は、「そうや! いかなあかん!」と思って起きようとするのですが、意に反して、体がなかなか動きません。
しまいには、僕もむきになって、「今日は教会には行きたくないんや!」と母に刃向かっていました。毎日、夜は寝つけず、気がつけば翌日、昼過ぎくらいまで寝ていると言う日が続きました。抑うつ的で、気分は優れず、何もしない日が続きました。頭の中には時折、vegetate(植物のように無為に過ごす)、zone out(何事にも専念しないで、ただぼうっとする)という英語が、ぐるぐると廻っていました。6月も第4週に入り、水曜の祈祷会に参加しました。その終わりに、牧師先生が、「次の日曜礼拝にはインナーヒーリング(心の癒し)をやりますので、皆さん楽しみにしておいて下さい。」とおっしゃいました。僕は、2度も続けて礼拝を欠席しているし、そのインナーヒーリングのこともとても興味深く聞いていたので、「次は是非、礼拝に出ないかんな!」と意気込んでいました。
インナーヒーリングを受けるが、満足した結果を得られず。
日曜日になって、インナーヒーリングのことをとても楽しみにしながら、礼拝に臨みました。礼拝も中盤に差しかかり、とうとう待っていたインナーヒーリングの祈りに入りました。僕は、心をワクワクさせながら、神様が臨んでくださって、僕の22年の間に受けてきた傷に触れて、癒してもらおうと心を開いて祈っていました。しかし中々思うようにいきません。周りの人は、主の愛の御手に触れてもらっているようで、ボロボロ泣いていました。僕は焦りを覚えました。
そのことを牧師婦人に話すと、「後で一緒に祈りましょう」と言うことになりました。昼食後、交わりの時間も終わって、事務室に移り、僕は牧師夫人とFさんに祈ってもらいました。1回目の祈りでは、残念ながら何も示されることはありませんでした。更に2回目の祈り、牧師婦人が抜けて、FさんとTさんの2人で、一生懸命祈ってもらいました。すると、かすかに、ちょうど2歳か3歳くらいの暗い部屋の片隅で一人淋しそうに遊んでいる自分が見えました。しかし、祈りが終わった後も、何か十分には癒されていない感じがして、しっくりと来ませんでした。そして、自分に対するある疑問が起こりました。「自分には、本当の意味での信仰があるのか?」
ようやく始めた個人礼拝
7月に入り、牧師先生は三日間、母校の神学校に行って、教会を空けると言うことを聞きました。その間、教会の留守番をする傍ら、前から言われていた「人を当てにしない礼拝」を本当にやってみようと、教会に行きました。初めの日は、牧師先生がやっていたのを見よう見まねでやっていて、とてもぎこちなく、心から礼拝することができませんでした。二日目は何となく祈りも板についてきたようでした。三日目に入って祈っている時、なかなか祈りにくかったのが、聖霊様の導きによって滑らかに、結構長く祈ることができ、喜んでいました。
予期しなかった霊的開放
そうこうして、金曜日になり、午前の聖書研究会に出席しました。この聖書研究会には、Kさんを筆頭とする家庭の主婦の方が何名か来られていました。聖書研究会が始まる前、ある一人の主婦の方が入って来られました。その方は小学生の息子さんを連れて来られていて、その子はアトピーで皮膚は赤くただれて、血が出ていました。僕と同ように学校に行けていませんでした。皆で、その子のため、癒しの祈りをしました。
僕も軽いですが、アトピーを患っていまして、その子の有様を見て、「こんなに小さな子がこんなにもひどいアトピーに苦しめられているとは、なんと非情なことか!」ととても可愛そうに思いました。そして「神様、あんまりです! どうかこの子のアトピーを癒してください」と、いつになく心を込めて、一心に祈り始めました。すると、驚くべきことが僕に起こったのです!
祈り始めてまもなく、目を閉じているのに、だんだんと明るくなってきました。
始めは「蛍光灯の光かな?」と思っていましたが、どんどんと光は増していきました。
しかしそれは黄色い光でした。決して澄んだ光ではなく、どこか濁っているものがありました。
そして、もっと驚くべきことに、今まで普通に意味のある日本語で祈っていたのですが、突然、意味不明の言葉の羅列に代わりました。しばらくして、体が震えだし、上半身が波を打ってうねり始めました。僕は何がなんだが分からなくて、止めることができませんでした。すると、とても不快な気持になりました。(後日、牧師先生は、あれは汚れた霊の働きだと言っておられました)
その後まもなく、牧師先生が僕の頭に手を置き、「汚れた霊」からの解放と清めを力強く祈ってくれました。牧師婦人も一緒でした。僕の中にいる汚れた霊はとても苦しんで、「やめろー、やめてくれーこいつはわしのもんやー、こいつから離れんぞー」と叫んでいました。
それから、信仰のあついKさんも大胆にも、祈りに加わっていました。「イエスの血潮! イエスの血潮! 主の勝利!主の勝利!」と十字架の力を告白していました。
3人の祈りの甲斐あって、僕を22年にわたって苦しめてきた、けがれた霊どもは、追放されました。僕は満ち溢れる平和と、つき抜けるような解放感とで、胸がいっぱいになりました。思わず仰向けのまま、両手を思いっきり上げ、「ハレルヤ!」と天を仰いで賛美しました。
後で、牧師先生が聖書の中から説明してくださったのですが、マルコ1章21節~26節のことが成就されたのです! ハレルヤ!
僕はその日、あまりに嬉しくて、家に帰るなりすぐに家族にそのことを話しました。翌日の朝、僕は教会へと行き、個人礼拝を守りました。祈りで僕は楽しくて、喜びに満たされました。汚れた霊が実在していることが分かりました。
すばらしい聖霊体験
翌日曜日、僕は普段どうり礼拝に出て、賛美をし、立って祈っていると、ちょうど礼拝の半ばで、ふと気分が重くなり、吐き気も催して、嗚咽を繰り返しました。とても立って祈り続けられるような状態ではありませんでした。それからまもなく、牧師婦人が僕のそばに来て、「吐き気を見ないで、ただイエス様だけを見上げて」と言って付き添って祈ってくれました。僕は言う通りにすると、しばらくして、ちょうど雲間から一筋の澄んだ光が差し込んでくるように、頭上からひとつの白く輝く光が差し込んで来ました。
その光は急激に大きな広がりを見せ、僕の全身を圧倒するほどになりました。意識はありましたが、僕の視界はまばゆいばかりの光で、真っ白でした。そしてその光に圧倒され、全身の力がぬけ、まともに座っていられませんでした。声こそは聞きませんでしたが、ちょうどパウロが眩いばかり光に圧倒されて、路上に倒された時のようにです。
「子よ、起きなさい」牧師先生の言葉に、僕は目を覚ましました。聖霊様がほんとに僕に臨んでくださったのです。マタイ12章28~29節・マルコ3章27節に、はっきりと書かれているように、主はまず強い人(悪霊ども)を縛り上げて、私の内に入ってきてくださったのです。僕はしばらく、適度な酒を飲んでほろ酔い気分になっているようでした。とても気持がよくて、いけないことですが、牧師先生の話を聞いていませんでした。それから今までの重苦しさ、不快感、思い煩いや恐れは、一体どこへ行ったのでしょう?どこを探しても見つかりません。すばらしいこと、実に驚くべき神の御業がなされました。
キリスト様が「悪魔の業を滅ぼすためにこそ来られた」と言う御言葉が本当であることが分かりました。
すばらしい恵み!主よ、感謝します!
本当に感謝です!個人礼拝を行うごとに清くされ、聖霊様の臨在を感じます。祈っている時にサタンの妨害を受けることもありますが、聖なる怒りをもって悪霊どもをけちらすことは爽快であり、一種の快感です。牧師先生や母、その他の人の導きがなければ祈れなかった自分でしたが、7月1日以降、自分ひとりで祈ることができるようになりました。
信仰の自立です。生活の自立も、もう目の前です。個人礼拝がもてるようになってから、万事が本当にうまく行っています。教会でも用いられ始めています。今、何をしても、主のみ心にかなうことをすれば、必ず恵みを受けます。
神様は、僕のような弱い、とりたてて才能も無い者を引き上げて、用いてくださるのですね。本当に神様は、慈愛に満ち、親切心に満ちた、やさしい方だと思います。
僕の性格を着実に変え、より明るく屈託のないものとされました。また日々の礼拝の中で僕に触れてくださり、賛美する喜び、祈る喜びをお与えになりました。時には幼子の心にも戻して、僕の幼い時に受けた傷をも癒してくださるのですね。
僕が最近、最も気に入っている賛美歌「神の子羊」
十字架が心に迫ってきて、涙があふれるほどの詩です。
罪なき一人子 父の御許より 離れてこの世に 生まれた子羊
ああ、神の子羊 聖なるキリスト 尊い血潮で 清めたまえ主よ
身代わりとなって 責めと恥を受け 命も捧げた 罪なき子羊
ああ、神の子羊 聖なるキリスト 尊い血潮で 清めたまえ主よ
闇の中にいた 私は救われ 神の子とされた 羊飼いの許
ああ、神の子羊 聖なるキリスト 私はあなたの 子羊とされた
ああ、神の子羊 聖なるキリスト 私はあなたの 子羊とされた
神様、日々の生活を祝して、豊かなものとしてくださって、本当にありがとうございます! これからも礼拝を守りますから、恵みを与え続けてください。