証言・母と娘TKIさん
■十字架は神の救いの力
私は昨年の12月16日、娘と一緒にポストに入っていたパンフレットのクリスマス・コンサート伝道集会へ行き、牧師のメッセージを聞き、感動のあまり、私も娘もむせび泣きました。
メッセージの中心はイエス・キリストが十字架にかかり、全人類の救いのために死んでくださったこと・・
そのイエスが3日目に全人類のために復活・・でした。
私たちが自分の罪を認めて罪を悔い改める。救い主イエス・キリストを信じ、受け入れる。・・そのことにより、全ての人が永遠の滅びから永遠の命の救いにあずからせて頂ける。神の子として下さるという驚くべきお話でした。
何という神の愛の大きさ、深さなのかと思えて、泣かずにはおられませんでした。
イエス・キリストの十字架によって、神は私たちがどんな罪深い者であろうと私たちを赦して下さる。私たちを愛して下さり、生かそうとされていることが、罪深い私にもひしひしと伝わって、胸に迫ってくるのです。
その日のアンケートに私たちは聖霊さまに満たされたことを記して帰りました。
また機会があれば、もう一度メッセージを聞きたいと思っておりました。
その後、まもなく教会からクリスマス礼拝のお招きをいただき、初めて教会へ行かせていただきました。
その時のメッセージにも大いに感動しました。
牧師のお祈りも迫力があり、光にあふれたものでした。
牧師の献身的な祈り、信徒に対する愛、それに牧師夫人の愛に満ちた祈り、賛美歌の御言葉など、とても泣かずにはおられませんでした。
その日「ウィア・ドロローサ」の資料をもらって帰りました。
イエス・キリストによる救いは具体的には、キリストの十字架と復活が大前提になっていることも知りました。
そこに何と言っても神の愛がありました。
私たちに必要なものはこれしかないと思いました。
十字架の言葉は滅んでいく者にとっては、愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。(Ⅰコリント1章18節)
十字架こそ私たちを罪から解放する唯一の神の力なのだという確信が持てました。
牧師のメッセージも常に「罪の赦し」と「イエス・キリストの命と愛」を軸として述べられました。
2000年のキリスト教の歴史もこの一点に尽きるといっても過言ではない。
子供から老人にいたるまで分かりやすく、すこぶる単純な事柄として、しかも奥の深いものでした。
イエス・キリストの復活によって、全ての人に新しい命が与えられているという事実。罪の奴隷となっていた人々が、キリストの十字架と言う代価を払って買い戻されたという事実・・
人知では、はかり知ることができない神のご計画。
すべての人間の罪をあがなうためのキリストの十字架と復活・・
これこそが人間を救う神の力であり、救われた人間にとって神の力であり、神の知恵だと悟らされ、感動し、大泣きに泣いたのです。
今、この証言を書いておりましても、ありがたくて涙が出るのをどうすることもできません。
イエス・キリストによる救いさえ知っておれば、それで十分です。
ただイエスの十字架のみが私たちを罪から解放する唯一の力なのだと確信が持てるのです。
キリストが十字架上で流された贖いの血は人間を過去・現在・未来のすべての罪から解放するのです。 サタンの支配するこの世で、すべての人は避けがたい災難によって圧倒され、打ちのめされているので、神の憐れみによって救い出されるのでなければ、それから免れ出ることができないのです。
神は私たち人間をそうした罪の奴隷状態から救い出そうとして、ひとり子イエス・キリストを十字架上に死なせ、贖いの犠牲とされたのです。
この罪からの全き自由こそキリスト教の救いの真髄であります。
聖書の勉強もしてはおりましたが、こんなに神を身近に感じたのは初めてです。クライスト・チャーチ神戸がいつもイエス・キリストと共に在りますように。
今回、教会の礼拝に招かれましたことは神の愛によるものだと思っております。牧師原田先生は人間存在の本質をテーマにメッセージをされており聞くたびに新しい感動と共に受け取っております。
15年に及ぶ狭心症の癒し
今年3月10日の聖書研究会において、牧師夫人と役員のFさんお二人がお祈りをして下さいました.娘も一緒にお祈りしてくれました。
もう15年ほど前から狭心症で、いつも外出するときには水を持っていきます。
いつ発作が起きるか分からないのです。
また朝6時ごろ、よく発作が起き、いつも水を飲み、血液を薄めて、事無きを得ていたのです。
私の父母が二人とも心筋梗塞で亡くなっております。
両親の遺伝子を伝達されている私はこの持病も諦めていた15年間でした。
ところが手を当ててお祈りしてもらっている内に、これは治るとはっきりと自覚できたのです。胸のところが、ぽかぽか熱くなってきて、3人の手から熱と光が出ているのを感じました。私は癒されたと確信したのです。
翌朝目がさめたとき、いつものように舌がざらざらしていない。
のどもカラカラになっていない。
15年前の健康を取り戻したと感じました。
神が私を憐れに思い、癒してくださったのです。
一瞬にして15年間のうっとうしい持病から解放されただけでなく、魂までも大きな優しさに包まれたようで、なんとも言えない安堵に包まれていました。神様、有難うございます。
このたび洗礼を受ける運びとなりましたが、私にはまだまだ祈る力が十分にございません。
どのような時にも霊に助けられて祈り願い求め、すべての聖なる者たちのために絶えず目を覚まして根気よく祈りつづけなさい。エフェソ6章18節
しかし愛する人たち、あなたがたはもっとも聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。ユダの手紙20節
祈りにおいても、また私を祈りに導く方は主イエス・キリストなのだと信じます。
祈りは、祈る者と聖霊の共同の祈りだということは、3人の手から出る熱と光によっても疑う余地なく分かりました。
このような聖霊の充満している教会に導かれたことを神に深く感謝します。