神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

証言・主婦IBさん

■神様が私に一番したかったこと

 今から40年とちょっと前、先祖が紀州徳川家の家老という父親と、その地では、ちょっと名の知れた資産家の娘であった母親の間に、私が生まれました。
母親にとって、ワンマンな父親が勝手に決めた結婚相手に不満だったのかも知れません。また、それまでお手伝いさんのいるような家で自由奔放に暮らしていた生活が一変し、姑と一緒の暮らしが窮屈で耐えられなかったのかも知れません。母親は私が3歳になったばかりのころに、年下の貧乏学生と不倫し私を連れて離婚をしました。
 私にとってこの出来事は相当なショックであったらしく、この出来事直後のことは鮮明に覚えているのに、それ以前のことについては、全く思い出すことができません。私はそれ以後小学校に入学するまでの4年近くを祖父母や伯父、伯母の家を転々とする生活が始まりました。この間、母親が一緒にいたという記憶がないので、母親は別の場所で暮らしていたのかも知れません。
 周りの大人達は、私を不憫に思い、何くれとなく面倒を見てくれましたが、子供心に周りの大人たちの様子をうかがいながら、また、大人達に遠慮しながら、私は毎日暮らしておりました。
 ある日、当時、舗装もされていない砂利道で転んだ時です。私は、すりむいたひざを小さな手で押さえながら、「泣いたらあかん、泣いたらあかん。泣いて帰っても抱いて、よしよししてくれる人はおらへん」とぐっと歯をくいしばって、涙をこらえました。
また、小学校入学を機に、母親とその不倫相手を義理の父親として3人の暮らしが始まるのですが、その前に母親達は結婚式を挙げました。その予約をするために母親に連れられて行った式場の受付で、「おかあちゃん、あのね・・・」と母親に話しかけた私に、受付のおねえさんは、「おかあちゃんじゃないでしょ、おねえちゃんでしょ」と言いました。その言葉を否定するでもなく、「ちょと静かにしといて」と言った母親に、私は、突き放されたようなさみしさを感じました。
 このような環境の中で、寂しさを心の奥深くに閉じこめたまま私は、自分のことは自分でなんとかするという自立心の強い、また人に甘えることが非常に苦手な可愛げのない女の子に育って行きました。
 普通の結婚をしなかった両親は、世間の目を非常に気にしながら生活をしていました。特に義理の父となった人は、妻の父がその地の政財界に名の通った人でもあるということで、その名に泥を塗ってはいけないと、経済的にも見栄をはって生活していました。またこの人の孫である私を引き取って育てるわけですから、どこに出しても恥ずかしくないような子に育てなければとの思いが強くありました。そのため私は、鉄の箱に閉じ込められたような圧迫感の中で育ちました。
 特に学校の成績には厳しく、テストが返されると、間違った問題をわかるまで夜中の2時、3時になっても寝かせてもらえませんでした。そのうち「なぜこんな問題がわからないのか」と平手が飛んできて、顔を殴られ、翌日、顔が腫上がり学校に行けないこともしばしばありました。私は何度も家出することを考えましたが、家出しても自活する能力がないことは明白なので、すぐに諦めました。
 環境がそうさせたのか、神様がもともと備えてくださっていたのか、私は霊的な感受性が強いほうで、高校生の頃には神さまの存在をはっきりと認識していました。ある時、義理の父親から「神様はいると思うか」と聞かれたことがあり、私は「いると思う」と答えました。すると、「神様とはどんな存在か」と聞かれ、私は「生きとし生けるものを生かしている存在で、人間は自分の力で生きているのではなく、神様によって生かされていると思う」と答えました。
 大学受験が近づき、どの大学を受験するかと言うことになった時、この環境から1日でも早く逃れたいと思っていた私は、「絶対に家から通えない学校に行こう。そうすれば大手を振ってこの家から出て行ける」と考え、夜寝る前にベッドの上で、一生懸命自分が信じている神様に向かって、合格するよう願いを捧げていました。すると、受験する前に合格した夢を見、受験前日、ホテルで見ていたところが、試験問題に出るということが起こり、体育だけはいつも5、それ以外は成績は並だった私が見事に合格しました。
このように神様は、初めて6歳の時に語りかけてくださって以来、受験の時も、就職の時も、結婚の時も、夫の転勤の時も、とにかく人生の岐路になるような場面には必ず現れてくださって、夢や幻で見せてくださったり、心に語り掛けてくださったりしていたので、私はいつも誰かに守られていると言う感覚がありました。
 さて時が経ち、私は、神様から見せていただいた幻の人と結婚し、2人の男の子をもうけ幸せに暮らしていましたが、唯一の悩みの種が次男のアトピー性皮膚炎でした。
ストレスのないのんびりとした生活が続くと、神様の存在も霊的な感受性も、にぶくなるのでしょうか、どっぷりと肉的な判断につかっていた私は次男のために、人から良いと言われたありとあらゆる治療法を試し、そのために多大なお金も使いました。でも、次男のアトピーはいっこうに良くなりませんでした。
 義理の父親の糖尿病に効果があったという磁気治療を始めた所、一気に症状が悪化し、どうしようとほとほと疲れきっていた私に、お友達が神戸・家のキリスト教会のことを教えてくれました。サムソン・ラジクマール師の聖会に参加したあとで、聖書研究会をしているからと誘いを受けました。
 別のお友達からも「牧師先生のお話がすごく楽しくて、2時間なんてあっという間よ。いっぺんおいで」と誘われていました。彼女は1ヶ月前には、「教会に誘われてるけど、なんて言って断ろうか・・・」と私にメールをよこしていたのです。私は彼女をたった2、3週間で、ころっと変えてしまった教会と牧師の話に興味をひかれ、聖書研究会に参加することにしました。
 初めての牧師先生との会話の中で、私が「私は今まで何か大きな存在に、ずっと守られていたような気がします」といったところ、「その大きな存在がイエス・キリストであったと信じます」と言われたので、「なんで私を守ってくれていた存在とイエス・キリストが結びつくんだろう・・・」と疑問に思っていました。この疑問については、聖書研究会に参加していく中で、すぐに解けました。
その日、聖書の勉強をしたあとで、賛美の歌をうたい礼拝したのですが、賛美の歌を歌っていると、私の目からわけもわからず涙があふれ出て、同時に寂しいという感情が込み上げてきました。「ああ、私はいままでずっと寂しかったんだ。」と気づかされた瞬間でした。
 エフェソの信徒への手紙5章13節の「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明かにされるものはみな、光となるのです」とありますが、私が「もう済んでしまったことだから・・・」と忘れていた心の深いところについた傷が、聖霊様によって、明らかにされた感じでした。この時はただ、明かにされたというだけでした。
 その後、次男も教会に行くようになり、牧師の按手を受けるようになったのですが、アトピーの癒しは一向に進まず、ある日あまりのつらさに次男が「とにかく教会に行きたい」と言い出しました。その日はちょうど水曜日で祈祷会の日だったので、私は夜、次男を連れて教会に行きました。祈祷会に参加していた人達全員が、次男のためにとりなし祈ってくださいました。
 牧師が「母親の家系にまつわるいっさいの汚れた霊を、イエス・キリストの御名によって十字架に釘づけし・・・」という言葉を聞いたそのとたん、私のお腹の奥底から「う~、う~」といううめき声とともに、何かものすごく強い力で押さえつけられたような圧迫感を感じ、同時に涙があふれ出てきました。またまた聖霊様によって、暗闇に閉じ込められていた感情が明るみに出された瞬間でした。「この感情から開放されない限り、次男のために祈っても、神様に聞かれないのではないか」と思った私は、祈祷会が終った後でこのことを牧師先生に話すと「解放のミニストリーをしましょう」と言ってくださいました。
 牧師先生、治代さん、藤原さんの3人が集まってくださり、私は今までの生い立ちを聞いてもらったあとで、牧師の按手を受け、とりなしの祈りを皆にしてもらいました。
マタイによる福音書23章9節「地上のものを父と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」という御言葉に、声をあげて思いっきり泣きたかった時に、ぐっと歯をくいしばって我慢してきた感情も、寂しかった感情も、強い力で押さえつけられていた圧迫感も、天のお父様が、すーっと解き放ってくださった気がして、私は今まで泣けなかった分を取り戻すかのように、大声で30分も泣きつづけました。
 次男のアトピーの癒しを求めて教会に来た私でしたが、神様がまず私にしてあげたかったこと、それはこの私が過去に受けた心の傷を癒して下さることだったのです。
 私は神様のことがもっと知りたくなり、この春から神学校で勉強することになりました。最初は、牧師の卒業した大学の後輩ということで教会に紹介された私がですが、図書館で本をよみあさっていた牧師とは大違いで、私の大学進学の目的が両親からの逃避であったため、入学と同時に目的達成された私は入学後は思いっきり解放され、授業には出席せず、授業をさぼっては、バスケットボールのサークル活動に精を出したり、三宮や梅田に出歩いており、持てる情報網と要領の良さだけで卒業出来たようなものでした。でも今回勉強する神学校では、要領だけで終えることなく、しっかりと身につけたいと切に思っています。皆様、私の応援よろしくお願い致します。




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