証言・高校教員(51歳)HRDさん
■押し寄せる神の愛
(1)「人となられた生ける神」ですって?
聖書を読み始めて、最も分りにくかったことが二つあります。一つはイエス・キリストは完全な人であり、神であること言うこと。
「人となられた生ける神」であるという言葉です。
「この人を見よ」という賛美の歌がありますが、
この歌にある清さを感じながら、どこかで、違和感を感じていました。
「この人を見よ、この人を見よ、この人こそ、
人となられた生ける神なり」と歌うとき、
私はこんなことを言うから、キリスト教は広がっていかないのだ。
神が人となる。よくある話ではないか。
新興宗教と同じ論理ではないのか?と、思っていたのです。
○○○
もう一つは、神がその独り子を世に遣わし、
独り子の上に世の罪を背負わせ、
十字架で処断し、信じる者に罪の赦しを与えた。という救済論です。
罪を犯したのは人です。三位一体の神の子がその罪を担い、
天の父に裁かれた。人の罪を赦すために、
というのですから、分けが分かりません。
天の父も神なら、イエス・キリストも生ける神です
神が人の罪を背負い、神がそれを処断して、人が赦された・・・
これが事実なら、人の罪は神の責任だったのではないか。
罪を犯したのは確かに人なのだが、罪を犯すような人を創造した責任を
イエス・キリストは取ったのだろうか。・・・
考えれば、考えるほど、分けの分からない、話でした。
人の思いを遥かに超える神の愛・・
全く分かっていなかったからです。
しかし、私は聖書の神を信じようとしていました。
語られているその命以外に、私を新たに生かしなおす命が
あるように思えなかったのです。
私はある日、祈りました。
「神様、この二つが分かりません。これは枝葉の話ではありません。
キリストの救いの中心であり、このことが分からなければ、
一切が分からないのと同じです。
『自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。
その人にとってそれは愚かなことであり、理解できないのです。
霊によって初めて判断できるからです』(第一コリント2章14節)
と書いてありますから、あなたの言葉が本当なら、
私に分かるようにして下さい。そうすれば、私は信じるでしょう」
○○○
ある日の夕方、車を運転していて、賛美CDをかけていました。
すると、あの歌が聞こえてきました。
「この人を見よ、この人を見よ・・」私には古びた歌であり、
何の感動もない歌のはずでした。
「・・この人こそ、人となられた、いける神なり」
と聞いた瞬間でした。
私は突然、イエス・キリストが人となられた、生ける神であると
分かったのです。頭でなく、心でもなく、私の全人格が分かったのです。
それは不動の真実となって迫ってきたのです。
同時に、そのお方が私の罪の身代わりとなって十字架に上がり、
私に罪の赦しを得させて下さったのだと分かったのです。
涙があふれ出ました。視界が怪しくなるほど、溢れました。
私は心の底からイエス・キリストに言いました。
「主よ、お赦し下さい。主よ、お赦し下さい。」
「あなたを疑ったことをお赦し下さい。
あなたは本当に人となられた生ける神です」
私は深い感動に包まれていました。
路肩に車を寄せ、主に謝り続け、感謝し続け、泣き続けました。
主は何の説明もされませんでした。
主は直観的に啓示されたのです。
全くの説明抜きで、疑った事実が誤りのない
真理であることを私に悟らされたのです。
(2)神の愛を知らなくて神の子と言えるのですか。
私は神が愛であることを聖書で学んでいました。新約聖書はキリストに現れた神の愛の物語です。
しかし私は自分の心でそれを知りませんでした。
私はまだ洗礼を受けていませんでしたが、
すでに、イエス・キリストを救い主として受け入れていました。
ある日、祈りました。前の経験があったので、
分からないことは聞けば、教えてもらえると思っていました。
「主よ、あなたの愛を私に教えて下さい。
神が愛であることは知識として知っています。
それだけでは、何の役にも立ちません。
あなたの愛を知らない私はキリスト者と言えるでしょうか。
神の子と言えるでしょうか」
○○○
何日かがたちました。Amazing Graceを賛美していました。
・ ・amazing grace ・・that saved a wretch like me
――――驚くべき恵み、それが敗残者のような私を救った・・――――
と歌ったその時、主の啓示の光が私を照らしました。
私は突然、一枚の絵を見るように、
自分が恐ろしいほどの罪人であることが分かりました。
人生の難破船、前にも後ろにも動くことの出来ない座礁した船。
一部分を修理し、改善すれば何とかなるようなものではなく、
まったく、破壊され、修復不可能な、どうすることも出来ない難破船。
私は自分がそのような惨めな存在であることが分かりました。
私は全く何の役にも立たないものでした。
人生の敗残者。どうすることも出来ないほどに破壊されたもの。
そのような存在であることを神は見させました。
私はアルコール依存症であったわけでも、神経症になっていたわけでも、
不治の病にかかっていたわけでもありません。
むしろ高校教師として、それなりに実力を身につけ、
むしろ評価され、多くの教育研究会に呼ばれていたのです。
しかし私の命は、人々の目には見えないところで、
命を失い始めていたのです。
○○○
神様が私の本当の、惨めな姿を啓示されたその瞬間・・
圧倒的な主の愛が全身に押し寄せてきました。
それは正に圧倒的でした。罪によって汚された、
少しも命のない敗残者のような私を、
神がどれほど慈しみ、愛して下さっているかが分かりました。
愚かで、汚されていて、行き倒れていて、
情けない、そのくせ高慢な存在――――
私は聖書に出会うまで、単に信仰がなかっただけでなく、
積極的な無心論者でした。
神がいるなら、出て来い!と思うほどに、
世の不正と不条理に怒りを持っていました。
信仰なんてものは、弱虫のすることだと思っていました。
私は神の敵でした。
主の愛は、そんな私を少しも嫌悪せず、
少しもさげすまず、少しも責めることなく、
むしろ無知と傲慢、肉の罪の故に汚され、
死んだ私の全存在を清め続け、
癒し続け、慰め続けました。
何という愛、何と言う救い、歌のとおり驚くべき恵みでした。
神の愛はとどまる所を知らないかのように、
全身に溢れ続けました。
自分の力だけに頼って生きてきた、
全ての辛かったこと、情けなかったこと、
心の痛みを癒し続けて下さいました。
何という後悔!そして何という喜び!何というありがたさ!
「主よ、お赦し下さい。主よ、お赦し下さい」と
私は叫んでいました。涙が腹の底の底から溢れ出てきました。
子供のように声を上げて泣きました。
「知らなかったのです・・何も知らなかったのです・・」
と言って、泣きました。あたかもこの愛を知っていれば、
罪の中を生きることはなかったと言わんばかりに・・
○○○
「誰でもキリストにある者は新しく生まれたのである。
古いものは過ぎ去った」という御言葉の通り、
私はキリストにあって新しく生まれたのです。
真の命、真の愛に包まれ、清められ、私は新しく生まれたのです!
このときまで外に現れるキリストの力を見てきましたが、
このときから内に溢れるキリストの命、清さ、愛を知ったのです。
新しくされた命に比べれば、今までの古い命は
なんとみすぼらしいものでしょう!
「罪のゆえに誰ひとり命を保つことは出来ない」
と、言われた神の言葉は何と真実でしょう!
感謝と感動は何ヶ月も続きました。
祈りの座に着くたびに、賛美するたびに、聖書を読むたびに、
神の愛が私の内に迫ってきました。
それは麗しい、聖なる、そして甘美な経験でした。
それは私の罪の堆積を清め、癒し続けました。
こうして私は主イエスを愛し、敬い、
彼の喜びのために生きたいと願うようになったのです。