証言・保母さん
■主よ、この一筋の救いの道をありがとうございます。
主よ、私は静かにあなたに向かいます。主の愛は私に満ち溢れています。主よ、私はこの十年、多くの恵みを頂いてきました。数え切れないほどの恵みを受けてきましたのに、指の間から砂が落ちていくように、その恵みを忘れていました。
最近あなたが私の名を呼んでくださった初めの頃のことが、思い出されてなりません。主よ、これもあなたの導きでしょうか。十年前、初めて私に触れてくださった、あの濃厚な聖霊様を知ってから、私はあなたから離れて生きることは、考えることさえできなくなりました。あなたの愛を、恵みを忘れることは、そのままあなたから離れていくことでした。
主よ、今日、あなたの恵み、導きの一つ一つを、この証言を書くことで、私の心の内に深くに刻みつけてください。
(1) 自分の罪、神の祝福
十年前、私たちは友人の病気の卵巣脳腫と子宮筋腫の癒しを求めて祈るために集まっていました。彼女は婚約者がいるのに市民病院で「全摘出の診断」を受けていました。
私たちは必死に祈りました。そのたびに受けた聖霊様の注ぎ・・まだイエス・キリストを知らないのに、主は、私たちの祈りを聞き、不思議な聖霊様によって私の心にどっしりと入ってくださった。
結婚を前にして、子宮の全摘を医者に言われた友人への哀れみで、「神様、何とかしてください」と一度もお会いしたことのない神様に向かって祈っていました。
私は彼女の癒しのために、心を引き裂いて祈ったはずなのに、主は私自身のあり方をも深く照らし始められました。それは尊い、また、不思議な神様の訪れでした。
祈りがすんで、家に帰り、布団に入れば、私の罪が聖霊様によって照らされ始めました。妹に対する高慢、母に対する愛のなさ、しっかり者の姉たちに対する妬み・・・・。
それらが思い出されて、涙がとめどもなく流れ落ちました。「神様、私の罪を赦してください」と、毎日毎日、布団の中で泣きつづけました。
私はこうして夜ごとに、自分の罪を示されました。同時に、それらの罪を赦し、清める神の言いようもない愛を知りました。そして心に平和を得ました。それから、教会の持つべき信仰、立つべき場所、神の愛、戦いに備えて求めるべき神の力、約束の天の国などについて、神様から言葉を頂き、また、個人的にも語りかけを受け、生きることについて励まし続けられました。
あの時の祝福、満たしは、口では言いあらわせません。深い神の愛を頂いていました。こんな弱くて、汚くて、心の醜い私を神が心を込めて愛してくださっていることを知りました。どんなに嬉しかったことでしょう。
夜、眠ろうとすると、どこかに旅をしているようでした。霊の自分が肉体から離れて、美しい花園へと導かれて飛んでいきました。そして肉体に戻り、静かな眠りへと、豊かな愛の中へと入っていきました。
そんな記憶が最近、感謝と喜びと共に鮮明に戻ってくるのです。この祝福を忘れてはならない。これこそ神の国。そして、そこに至る道へ希望をもって歩いていくことを忘れてはならない。そのような思いに導かれています。
あのころ、夜ごとの、神の愛の満たしとは裏腹に、毎日は自分の劣等感、自責の念にさいなまれ、感情的になり、そんな自分がいやで、一ヶ月でも落ち込んでいる状態です。夜の礼拝では、その時々に清められるのですが、自分に戻るともとに戻ってしまう。そんな状態が続きました。礼拝に行くのも嫌で、途中で帰ることもしばしば、でした。
否定的な感情のままに行動した自分を本当に恥ずかしく思います。集まっている人たちにも、どれほど情けない思いをさせたかと思うと、「こんな愚かな私を赦してください」と祈らなければ、恥ずかしくて、申し訳なくて教会の人に会えませんでした。
このような繰り返しを何年も続けてきました。
(私たちの友に対する癒しが起こり、卵巣も子宮も簡単な手術で残りました。)
そして、二年前の冬、主のインナーヒーリングを受けました。神様は私の知らなかった幼かった頃の痛み、寂しさに触れてくださったのです。しみじみとした平和と神の愛を頂きました。その傷から生まれてきた自分のいやな性質も知らされました。それを足場にしたサタンの攻撃も知りました。
少しずつ自分の奥底にあった「苦い根」と闘えるようになって来ました。そして、今年に入ってからの聖会で、「古い自分に死ぬこと」「罪の自分に死ぬこと」「主の命に新しく生まれること」の、必要を知って、神様との交わりが安定して来ました。やっと神の前に心からへりくだり、清い心で出られるようになったのです。そのことを感謝します。
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私はこの十年の信仰生活の中で何を学んできたのでしょうか。
それは、何よりも、まず自分の罪を知ることでした。汚れた自分の姿を知ることでした。自分の弱さや愚かさを知ることでした。それが如何に大切かを学ばされました。
自分のありのままをこのように知ること、そこからしか神様との深い交わりは生まれませんでした。自分の罪深さがどれほどであるかを知るからこそ、何とかしたいと言う強い祈りが生まれてきたのです。そして神様との交わりが持てたのです。
神の愛は、そこに満ち溢れてくださいました。汚れた、価値のない、そのままの私を愛してくださっていることを知る喜び・・・。主よ、ありがとうございます。
神に愛されている自分を知って、私は自分を愛せるようになりました。人に対する恐れもずいぶんなくなりました。よくしゃべるようになりました。そし牧師先生に厳しいことを言われても落ち込まなくなりました。私は本当に今、自由にされつつあります。
神様、感謝します。
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いかに人の罪を赦し、祝福を祈るキリストの品性を身につけるか、夏の聖会以来、教会の問題となってきました。
主は、人の受けた傷を癒してくださるのです。痛みを包んでくださるのです。慈しみ深い御手をもって。人は自分の傷を癒され、自由になって、人を赦し、その人のために祈れるようになるのです。
また、主は人の罪深さをその愛と清さの中で、照らし出してくださいます。こうして人は自分の罪を知るようになるのです。主は罪を赦し、その汚れを言いようもない清さで清めてくださるのです。そして自分が「罪人」であることを知っている人は、人の罪を赦すことが出来るのではないでしょうか。
赦されることが恵みなら、赦すことも恵みです。主よ、感謝します。
牧師先生に感謝します。「私の説教で人を変える訳ではない」と言い続けておられますが、今までの説教を聴いたからこそ、このように思え、解放されたのです。御言葉の意味をよく知らない私たちに、御言葉の本当の意味を教えてくださり、ありがとうございます。
牧師先生、HRYさんに感謝します。感情がそのまま出る私を見守り、励ましつづけてくださったことをありがとうございます。教会の一人一人に支えられて、今があります。感謝します。
(2) 小さな祈りの中で
私の信仰の支えは、末期の乳ガンを病んで、全ての治療を拒み、死に直面していた友人・HKさんと共に祈った祈りの中にあります。命は、あと一ヶ月という闘病の中で、祈りあったことが、私に大きな信仰を生みました。
彼女は死ぬ前に「自分の罪を神様に赦してもらいたい」と私に言っていました。そして洗礼を受けることを願っていました。あまり親しくなかった彼女のところへ、それも、死を目前にした人のところへ行くことなど思ってもいませんでした。彼女の親しい友人が、カトリックの神父に洗礼を頼んでいることを知っていました。彼女自身が神を求めていたのです。
ある日、彼女のところに行くように聖霊様に即されました。私に何が出来るのでしょう。出来ることなど何一つありませんでした。福音を伝える力もなく、完全な癒しを祈る信仰もなかったのです。行くまで何度も祈りました。
神様は、不安がる私に「愛を持って行け」「ただ私の愛を語れ」「共に祈れ」「お前はただ共に祈れ」「私が全てをなす」と祈るたびに、言われました。こうして私は不安と恐れの中で彼女のところに行きました。神様から頂いた愛だけを信じて行きました。週二、三回、病院に行きました。元気なときは、二人で主を賛美し、祈り、満ちてくる不思議な喜びを感謝しました。
だんだんと激しく胸が痛む日が多くなりました。「主よ、痛みを取り除いてください」
「HKの心に平和がありますように」と祈りました。祈り始めると、彼女の顔に平和が訪れます。二人は、祈りの中にいつも神がいて下さることを、お互いに知っていました。
神は「お前たちの小さな祈りを、心震わせ聞いている」と、おっしゃって下さいました。その言葉に励まされ続けました。癒しのことも祈っていました。元気なときは、互いにそのことを祈り、希望を持っていました。しかし、痛みとの闘いの中で、彼女は信仰と希望を持ち続けることがしんどくなりました。私も、彼女に主の癒しに向かって心を開くようにと励ますことが、とても辛くなりました。
私はいつも不安でした。心が揺れ動いていました。癒しを願い求めていながら、「やはり無理なのではないのか」「ただ神の愛の中、平安の中で静かに天に行くことの方がいいのではないか」と。でも、まだ小学五年生の彼女の子どものことを思うと、やはり元気になって欲しいと祈らずにはおれませんでした。
疲れ果て、毎日が、迷いながらの祈りでした。それでも、弱り果てた私に、神様はいつも言葉を与え、励ましつづけてくださいました。この神の愛があったからこそ、彼女のところに行き、共に祈れたのです。
私がしっかりと神と交わり、平和を頂くと、彼女も平和になっていました。私が迷いのまま行くと彼女も迷いの中でした。私たちは、もはや神の御心にゆだねることしか出来ませんでした。ただ神に任せるしかありませんでした。その中でも、私たち二人をいつも一つとしてくださり、祈り続けるができたのはただ、ただ感謝です。
彼女は洗礼を受けて、天に召されて行きました。私は知っています。神様の懐に帰っていったことを私は知っています。そこから私を見ていることを。本当に、私たちの小さな小さな祈りの中に、いつもいてくださった神様を、私は忘れることが出来ません。幼い祈りに信仰を与えてくださったことを感謝します。
(3) 高慢との闘い
私は自分が高慢な人間だとは、思ったことはありませんでした。どちらかといえば、劣等感とあかんたれ意識にさいなまれ、「どうせ私なんか・・」とすねたり、「私は駄目な人間や」と自分自身を責めることが、多かったと思っていました。
ところが、そんな簡単なものではなかったのです。
昨年数ヶ月の間、「主よ、古い、罪深い私を死なせて、あなたの清さに満たされた新しい私に生かしてください」という祈りを毎夜、捧げ続けていました。私は本当に古い自分がいやでした。新しくしていただきたかったのです。その祈りの中で、自分が如何に高慢なのかを知らされました。
神様から御言葉を頂くとき、それが本当に主からのものかどうか分からない。自分の思いでしかないのではないかと、いつも迷います。そして主との交わりの中で、心に与えられる言葉が自分の思いであるという疑いが強いとき、まるで神様に向かってか自分に向かってか、とても腹立たしくなるのです。私はその時、自分の中に高慢な心があることに気づきました。
「古い自分を捨て去り、キリストと共に十字架につける」という祈りの中で、劣等感、ねたみ、自責の念、自己憐憫、自己中心、という自分の性質にも気づきました。私は人と自分を比べていたのです。そして、そのような人と比べる「肉の思い」の背後に隠れている自分の高慢にも、気づきました。人に負けたくない、人より劣っていると思いたくないという高慢のために、劣等感や、ねたみが生まれてくるのだと思わされました。
自分の高慢を知って、悔い改め、何度も何度も、この高慢をキリストと共に十字架につけ、死に渡し、墓に葬りました。
スティーブ・ケーラーも「リバイバルリーダーとは何か」というビデオ・セミナーの中で、「私の高慢や慢心はすぐに顔を出す。金槌で叩いても、叩いても、すぐに出てくる」と語っていました。あの素晴らしく清い、霊的な人が、常に自分の高慢や慢心と闘っていることを知ったとき、全ての人が高慢の心を持っているのだと思いました。私が持っているもので、頂かなかったものは何一つないことを知っているはずなのに、私は神に対してさえも高慢になれるのだということが、よく分かりました。
人それぞれに高慢の内容は違うでしょう。しかし、私の中には私の高慢があり、それがすぐに顔を出すことを知っておかなければならないと思いました。
この高慢こそ、神との交わりを妨げます。この高慢こそ、神の真理から私を離れさせます。この十年の恵みの中で、いつもへりくだって神の前に出ることが、必要であるかを知らされました。自分中心にしか人を見られないとき、自分の思いでしか物事を考えられないとき、神は共におられませんでした。その時の私は「肉のかたまり」にすぎません。自分の罪を示されて、へりくだる心を頂くこと、神の前にも人の前にもへりくだることが何よりも大事だと学ばされたと思います。
今、私はこの三つのことを信仰の基礎とし、そこに立ち返っていきたいと願っています。御言葉の真理が私の中に根付き、私が清く、強くなり、主に似るものとなるまで、常に覚えて歩いていきたいと願っています。その一つ一つを心に刻みつけ歩いていけますように、主よ、私を助けてください。
みなさんも、私のことを覚えてくださって、日々お祈りくださいませ。