神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

10.水の洗礼・霊の洗礼



マタイ3章で、来るべきメシア=主イエスの救いのためにイスラエルの民を整えていた預言者ヨハネの言葉があります。
私は悔い改めに導くために、あなた方に水で洗礼を授けているが、・・
その方(メシア)は聖霊と火で、あなたたちに洗礼をお授けになる。


ここには、二種類の洗礼があります、「水の洗礼」と「聖霊と火の洗礼」です。
水の洗礼は自分の罪を悟り、罪を悔い改め、罪が赦され、神に立ち返えるために定められた儀式です。
罪が赦されるという事は、そのまま、洗礼を受けた人が神の子とされることであり、大きな救いです。
罪が赦しを受け取らない人は、罪の故に、既に裁かれている人です。その人は神の子の地位を回復していません。それゆに、神から永遠の命を初めとするあらゆる人生の繁栄の回復を受けられません。そればかりか、悔い改めない罪の故に、死が入り、永遠の滅びが待ち受けているのです。 ですから、水の洗礼は一人の人の繁栄と滅びに関わる非常に重要な問題です。
水の洗礼を受けて、神の子とされたなら、人は誰でも、神の霊をその心の奥底に分与されます。
つまり神の霊がその人の体、心の一番深い所に宿るようになります。この霊は人を神の似姿に変えていく永遠の朽ちる事のない命の、力に満ちて命の、聖なる命の種です。私たちは罪の中にある人間の命で生きてきましたが、これからは神の与えて下さる栄光の命で生かされて行くのです。 水の洗礼はその出発を意味しています。

○○○

「聖霊と聖霊の火の洗礼」は、全ての人の顔と心を覆っている罪の覆い=死の覆いが、聖霊の火によって取り除かれ、満ち溢れる豊かな、栄光の神の命=御霊によって、霊と魂と体が全く満たし切られることを意味します。存在する全てのものの創造主である神によって、私たちの霊・魂・体がとらえ切られる事です。全知全能の神の力、全てを統治なさる権威ある神の命=御霊の力によって、私たちの全人格が覆われ、治められることです。
この時、私たちは神の命、愛、力に満ち溢れ、名実共に栄光の神の子になります。そこから、キリストの似姿に向かって成長し始めます。栄光の神の民として繁栄を目覚しく回復し始めます。
私たちの顔と心の覆うあらゆる罪と死の覆いが取り除かれる程度に応じて、私たちは天地を創造された神を、満ち溢れる豊かな命の神を、全知全能の神を、すべを統治しておられる神を、また愛と信仰と希望の源である神を、今までとは比較にならないほど、知り、御出会いすることが出来るようになります。
私たちの霊と魂と体は神の並外れた愛と力に溢れ、信仰に溢れ、祈りに溢れ、喜びに溢れるでしょう。 多くの人が異言を語り、預言するでしょう。私たちは今まで想像も出来なかったほどに、神のものとされ、神の愛と力、真理と知恵が私たちの所有となるでしょう。
私たちは一人のキリストによって生き、主イエスと共に全てを神の真実と義と平和の内に治めるようになるでしょう。そのために、私たちは主イエスの行う業をことごとく行うでしょう。
これが聖霊と火の洗礼が私たちに人生に結ぶ実です。

○○○

肉をまとい、人となって来られた主イエスもヨルダン川で、あえて、ヨハネから水の洗礼をその後、聖霊による洗礼を受けられました。私たちに模範をお示しになられたのです。次のように・・・
ルカ3章
イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で降ってきた。すると、「あなたは私の愛する子、私の心にかなうもの」という声が天から聞こえた。

主イエスはこの洗礼によって「聖霊に満たされ」ました。それに続く、40日にわたる荒野での、断食による父なる神との交わりと悪魔の誘惑を退ける経験を通して、救い主としての並外れた力を受け、その「力に満たされ」たのです。

ルカ4章
イエスは聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった。そして荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。・・イエスは力に満ちてガリラヤに帰えられた。

神によって召された私たちは、水の洗礼を受け、続いて聖霊による洗礼を受けるようにと定められています。それはエルサレム、ユダの全土、サマリアだけでなく、地の果てにまでキリストを目に見える形で現し、神の力を受ける事です。


第1章 「水の洗礼」を受ける。



イエス・キリストによる救いの約束(キリストの福音)を聖書全体が学ぶなら、次のよう単純化することが出来ます。
創造主である聖なる神を知る→→自分の罪を知る→→主イエスの十字架の死と復活の意味を知る→→救いと永遠の命の源である神を知る→→神を仰ぎ見る信仰を心に持つ→→――――赦しと繁栄の回復を経験する→→キリストを証しして、キリスト共に全てを治める。
このような福音の全体の中で、水の洗礼はどのよう意味を持つのでしょうか。
御言葉から学んでいきます。
(1)ローマ6章

キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。
もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。
私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。


この御言葉は次のように啓示しています。洗礼によって私たちは――――
・ 罪の赦しの源、永遠の命の源、愛と信仰と希望の源、喜びとあらゆる力の源であるキリストに、私たちは洗礼によって結ばれます。私たちはキリストのものとなり、キリストは私たちのものになって下さいます。
・ 私たちの罪深い古い自我はキリスト共に十字架に釘付けられ、滅んで行きます。罪に支配された魂と体が滅んで行きます。私たちは罪の奴隷ではなくなります。私たちはキリストを信じる信仰によって、キリストと結び合わされ、キリストと一体となってその死の姿にあやかるのです。私たちは洗礼によってキリスト共に葬られたからです。なぜなら、キリストは私たちの罪を担い、病と心の痛みを担い、罪の故に押し寄せてくるあらゆる死を生み続ける呪を担って下さって、父なる神によって処断されて死んで下さったのです。そのキリストを信じ、そのキリストに結び合わされるなら、罪深い、生きているのは名ばかりの実は死んでいる私たちこそが死んだ事になります。これが十字架の重要な一つの意味です。
・ キリストと共に私たちが死んだのは、死を滅ぼして復活したキリスト共に朽ちる事のない永遠の命を授かり、生きるようになるためです。信仰によってキリストに結ばれて、キリストの死の姿にあやかるなら、その復活にもあやかるのです。栄光の神の力がキリストの死を滅ぼしてキリストを復活させられたように、罪の故に死んでいた私たちの霊と魂と体も復活させ、新たに生まれ変えられるのです。
・ 洗礼は罪の故に死んでいた私たちの一人ひとりが、キリストの十字架の死とそれに続く復活の命を受け継いで生き始める事を意味します。洗礼は古い私たちの死であり、新しい神の子としての復活を意味しています。単なる儀式ではありません。

(2)使徒2章

「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペテロと他の使徒たちに「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と言った。するとペテロは彼等に言った。
「悔い改めなさい。めいめいキリスト・イエスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。この約束はあなた方にも、あなた方の子供にも、遠くにいる全て人にも、つまり私たちの神である主が招いて下さる者なら、誰にでも与えられているのです」

ここでのペテロは、キリストが捕らえられ、裁きの座に置かれたときに、自分も殺されないかと言う恐れの中でキリストを裏切ったペテロではありません。聖霊と火の洗礼を受けて、全能の神の力に満たされて、非常に強くなったペテロです。
ペテロはキリストを十字架につけて殺した人々の前で、このように大胆に言えたのです。これが聖霊と火の洗礼から受けた驚くべき力です。ペテロは全能の神の権威と力に満ちています。このペテロの語る言葉と共に、聖霊が働かれました・。彼らにキリストを殺した罪をはっきりと示されました。
聖霊の洗礼を受けると私たちがキリストを証しすると、聖霊様は私たちが語った言葉が真実であることを力を持って示して下さるようになります。
「私たちはどうしたらいいのか」という人々の問いに答えたペテロの言葉の中に、洗礼の二つ目の意味が掲示されています。
「(罪を)悔い改めなさい。めいめいキリスト・イエスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」
私たちが自らの罪を認めて洗礼を受けると罪が赦されます。
それは私たちを創造した神が私たちの父となり、私たちが神の子とされることを意味します。
創世記1章で神は私たちの先祖を御自身の似姿に造られましたが、私たちは、その地位を回復した事です。罪を悔い改め、洗礼を受けるなら、キリストを殺した罪さえ赦されるのです。なんと大きな神の赦しであり、慈しみでしょうか。
賜物としての「聖霊を受けます」 アダムは神の似姿に創造されたとき、神の息(神の霊のこと)を鼻から体の中に吹き入れられました。そのとき、彼は神の似姿として生きる者になった、と創世記は語っています。栄光の神の御霊を神はアダムに分与して、御自身の似姿としての命を与えたように、神は洗礼を通して私たちを再び神の似姿=神の子にするために聖霊を分与なさるのです。分与された聖霊は私たちが神の子であることのゆるぎない証明です。この霊が御言葉と聖霊によって強められ、成長し、私たちは栄光の神の似姿、その繁栄の様をこの世で実現していくのです。
(3)ヨハネ3章

神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。

・ キリストの十字架による救いを信じる者、キリストの業を見て神を信じる者は、「神と同じ形」に創造されるだけでなく、「永遠の命」を得ると主イエスは語っています。信じない者はこの命がありません。むしろ、罪の故に霊にも魂にも体にも死が入り、今も真に生きていません。生きているのは名ばかりで死んでいます。やがて、時が来ると、滅びる以外にないのです。私たちは神の永遠の命、聖なる命を知るまで、「生きているのは名ばかりの実は死んでいる命」を命だと思って生きてきました。神に創造された神の子の命は、そのようなものでありません。それは力に満ち溢れた命です。それはキリストを死者の中から蘇らせた命、死を滅ぼした命です。私たちがその神の下さる命を実際に知り、その所から、それまでの古い命を振り返るとき、「生きているのは名ばかりで、実は死んでいる」と言われる神の言葉に意味がよくよく分かるのです。
(4)Ⅰペテロ3章

洗礼は肉(罪深い命)の汚れを取り除くことではなく、神の正しい良心を願い求めることです。
ここでは水の洗礼を通して分与された「霊」の限界が語られています。
私たちはキリストを信じて洗礼を受けるまで、罪の故に死が入り、私たちは死んだも同然の命を生きていましたが、洗礼を通して神は私たちの死んでいた霊を新しく生まれ変わらせ、復活させて下さった。
この霊は神の御言葉につながって礼拝する時に、新たに供給される神の聖霊の受け皿になります。
礼拝の中で新たに増し加えられる新しい霊が宿り続けて下さる神殿にもなります。
洗礼によって分与された私たちの霊と日々新たに増し加えられる霊が、もし、日々刻々、私たちの魂と体を満たして行くなら、私たちは水の洗礼を受けた時から、完全な人、キリストの似姿を急速に回復していくに違いありません。しかし現実は、そう順風満帆でありません。
私たちの魂と体の中にはアダムとイブから受け継いだ罪の力、死の力も同時に宿っています。
自分の善悪の知識で人や自分を裁き、状況を判断し、失望し、思い煩い、恐れ、蔑み、嫌悪し、苛立ち、怒り、絶望するのです。自分を卑下し、高ぶり、人を見下すのです。更にその上に、このような多くの罪の力を更に増し加えようとする悪魔の働きがあります。悪魔の支配するこの世に、私たちは生きているのですから。
ペテロはここで明らかに語っています。
・ 洗礼は罪の汚れ、即ち、汚れた罪の支配を取り除くことではない。
洗礼は私たちの魂と体、地域に残り続けている罪の力、罪の汚れを取り除いたわけではない。
洗礼は正し良心を願い求めることです。洗礼によって半ば死んでいた良心が生き始めるのです。
洗礼によって受けた霊は、神の聖なる御霊であり、この霊こそ神の似姿です。
神が全て正しい事、慈しみ深いこと、全て真実な事、気高い事、純真な事、全て力に溢れている事、繁栄している事、希望と平和と喜びに溢れている事、真理と知識に溢れている事を求めているように、私たちに分与され霊は礼拝に通して新たに与えられる御言葉と聖霊によって強められ、神が望まれるように望み、願われるように願うのです。
礼拝を通して日々新たにされる私たちの霊がまず、最初に影響を与えるのは私たちの良心だ、と御言葉は語っているのです。なぜなら、良心は神の聖なる掟であり、聖なる律法だからです。洗礼を受けたなら、私たちの霊がすべて清い事、聖なる事を慕い求めるので、良心もますます霊が望んでいる事を望むようになるでしょう。
すると、私たちはその内側に罪と義、悪と善、汚れと清さ、死と命、闇と光、苦しみと喜びの力の種を持つことになります。 こうして私たちの心と体は戦場になります。罪と死が支配するのか、それとも私たちの義と命が支配するのか。悪が支配するのか、善が支配するのか。汚れに覆われるのか、清さに覆われるの。闇の中を歩くのか、光の中を歩くのか。サタンの力が支配するのか。神の力が支配するのか。
私たちはその都度、選択を迫られます。決断を迫られます。神の子がまだ幼くて、成熟していないとき、悪魔に惑わされて、いつでも正しい決断が出来ないときがあるのです。信仰が未熟であり、御言葉の理解が未熟であり、祈りと願いの輪郭がはっきりしないために、悪魔に惑わされるのです。
ですから、洗礼を受けた神の子たちは、必ずキリストの体である教会によって守り育てられねばなりません。人の子が正しく育っていくのに家族が必要であるように、神の子たちは必ず、神の家族である教会の中に守られ、養われなけれねばなりません。そすすれば、すくすく成長していくのです。まっすぐに完全な者、聖なる者、栄光に輝く神の子として成熟していくのです。

第2章 「聖霊の洗礼」を受ける。



「聖霊と火による洗礼」を受ける事は、旧約時代からの神の約束です。「水の洗礼」は個人の祝福です。「聖霊による洗礼」は個人の祝福だけを意味しません。それは教会全体を捉え、その繁栄を回復し、一つの町、一つの都市、一国の繁栄の回復にまで発展する可能性を秘めています。
私たちはこの目覚しい変革、繁栄を信徒の、教会の、地域の「リバイバル」と呼んでいます。
旧約の以下のような神の啓示を参照して下さい。旧約は明かに、個人だけでなく、村、町、都市、国家をリバイバルの視野に入れています。
エレミヤ25章・29章~31章・33章・35章・49章、イザヤ60章、エゼキエル36章・37章・39章・47章、ヨエル2章・3章、ホセヤ14章、ゼファニヤ3章、アモス9章、ゼカリア4章などを拝読して下さい。
今まで、「聖霊と火のバプテスマ」は、一個人の祝福、一教会の祝福として矮小化されていますが、神様のこの救いの御計画はもっと規模が大きい事を知っていなければなまりません。そうすれば、私たちは個人の「聖霊と火の洗礼」を求めて終わらないで、教会全体の、そして地域の聖霊によるリバイバルを求めるに違いありません。一個人が聖霊に全くとらえられて繁栄の回復に恵まれるだけではなく、教会が繁栄を回復し、地域が繁栄を回復する。この三つは神の御心の中では一つの線上にあるもととして求めるようになります。私たちはその三つの一つの事として祈る使命があります。
新約の使徒2章、ペンテコステの日に起こった弟子たち、教会、地域の偉大な変革と繁栄の回復、リバイバルは正にその始まりでした。この時を境にして新しい教会の時代、いいえ、世界史の時代が始まったのです。聖霊による信徒と教会と世界の繁栄の回復の時代です。この聖霊の働き、リバイバルは21世紀になって、経済的先進国以外のあらゆる国に広がっています。

1)聖霊と火による洗礼により、どのような力が教会に授けられたのか。
主イエスはこの洗礼について、はっきりと語っておられます。
使徒1章
エルサレムを離れず、前に私から聞いていた、父の約束されたものを待ちなさい。
ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。・・
あなた方の上に聖霊が下ると、あなた方は力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで私の証人となる。

この御言葉は端的に聖霊の洗礼がどのような目的のために、与えられるのかを語っています。
主は言われました。「聖霊が降ると力を受ける」どのような力ですか。

①エルサレムで主イエスの証人となる力です。
エルサレムとは、どのような場所ですか。キリストを十字架につけて処刑した場所です。弟子たちを恐れさせて、キリストを捨てて逃げさせた場所です。エルサレムは彼らを恐れの奴隷にした場所です。そこで、宣教させるとは、どれほどの神の力でしょうか。それは並大抵のものでありません。それは全能の神の全の力であり、天地の全てを治める圧倒的な神の以降の力ではありまませんか。

②ユダの全土でキリストの証人となる力です。
ユダの地は律法学者やパリサイ人がどこにでもいる場所です。彼らは絶え間なく、キリストを侮り、試すために神学論争を仕掛けてきました。弟子たちはほとんどが無学な人です。神学の専門家である、祭司やラビたちにどのように反論するのか。そんな心配を吹っ飛ばせる力を彼らは受けるのです。それはキリストをいつも支配した神の知恵と知識の力に違いありません。神はこの洗礼によって、この力で彼らを満たそうとしておられるのです。

③サマリアで主イエスの証人となる力です。
サマリアはユダヤ人である弟子たちにとって、古来から、神を拝みながら、公然と偶像を拝んでいる汚れた地域です。アッシリアとの混血が進んだ地域です。この時代のユダヤ人にとって、忌むべき場所であり、嫌悪、蔑み、拒絶の対象です。そこに福音を伝えるために行くのには、どのような神の力が必要でしょうか。サマリアに対する神の愛が弟子たちの愛にならねばなりません。今日、キリスト教会は貧しいスラムに入って宣教していますが、ユダヤ人にとってのサマリアは単なる貧しい、助けにいる地域ではありません。それは食事を共に出来ないほどの汚れた地域だと見なされていたのです。そこでキリストを証しするためには、サマリアを深く愛する神の力、一人でも救わんとする神のたぎり思いに満たされないと出来ない事です。神は聖霊と火の洗礼によって、弟子たちをこの力で満たすと言っておられるのです。

④地の果てに至るまでキリストの証人となる力です。
行ったことも見たこともない、言葉も全く分らない、偶像を拝み続ける忌むべき異邦人にキリストを伝えるとは、途方もない、全能の神の力が彼らをとらえなければならなかったはずです。

主イエスは聖霊の力を受けたなら、そのような力を受けると言われたのです。
今日キリスト教会には手を置いて祈ってもらい、異言が与えられたなら、「聖霊のバプテスマ」を受けたという、あまりにも軽い「聖霊によるバプテスマ」の定義がありますが、異言は聖霊のバプテスマの絶対的は証拠にはなりません。なぜなら、聖霊による洗礼の最大の目的は、キリストの証人となる力を受ける事ですから。異言は偉大な神の力に満たされなくても、信仰さえあれば、与えられます。
しかし「聖霊のバプテスマ」を受けたなら、異言だけでなく預言する賜物を与えられることがあります。しかしその定義は、キリストの証人となる圧倒的は神の力を受ける事が中心です。
「聖霊のバプテスマ」を受けたと言いながら、キリストを証しする熱情、強い確信、それに伴う聖霊の力を持っていない沢山のクリスチャンがいます。その人は少なくとも主イエスが授けたいと願ったほどにはバプテスマを受けていないのです。
教会史の中で始めて聖霊と火の洗礼を受けた120名の信徒たちがいます。
彼らの上に等しく聖霊の火がとどまり、上から力が注がれました。しかし全ての人がキリストの証人となったのではありません。私たちはこのことから何を学びますか。
私たちは異言を求めて聖霊による洗礼を受けるべきではありません。キリストの証人となるために聖霊との洗礼を求めるべきです。これが第一の事です。使徒2章以降で証しされているように、聖霊のバプテスマを受けたペテロ、ヨハネ、フィリピ、ステファノ、後にパウロは単に異言を話しただけではなく、全能の神の力を帯びていました。強い確信と力を帯びていました。それは主が宣教の場所にいつもおられたからです。 このバプテスパはその他多くの重要な実を結びました。それは何か?
このセミナーは次第に明らかにしていきます。

2)参考聖句:聖霊の洗礼が結んだ権威ある宣教の力。
使徒5章
使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。・・・民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

使徒6章
ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。

使徒8章
フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。
実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。 町の人々は大変喜んだ。
Ⅰテサロニケ1章
私たちの福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからです。

マルコ16章
弟子たちは出かけて行って、いたる所で宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴う徴によってはっきりとお示しになった。

3)「聖霊の火」はどのような働きをしたのか。
使徒2章
五旬祭の日が来て、一同が一つに集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌がわかれわかれに現れ、一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに他の国の言葉で話し始めた。

①罪を焼き尽くした火について

ペンテコステの日に授けられた聖霊の火と力の洗礼には順序がありました。
激しい風が吹いてくるような音がした。→→聖霊の炎が一人ひとりの上にとどまった→→一同は聖霊に満たされた→→他国の言葉で話し始めた(これは異言ではありません。外国語、人間の言葉です)
これが順序で、この中で、私たちは今日、一人ひとりの上にとどまった「聖霊の炎」について真の知識を得たいと思うのです。それは何なのか。どのような目的を持っているのか?
聖霊の炎、火について、イザヤが明かしています。

イザヤ4章――――イスラエルの民の清める火
主は必ず裁きの霊と焼き尽くす霊をもって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血(命)をその中からすすぎ清めて下さる。

この御言葉で明らかなように、聖霊の火は、シオンの罪を処断し、焼き尽くします。聖霊の火は私たちの心を覆い、顔を覆い、地域を覆っている罪の力=サタンの支配を焼き尽くします。
その火は私たちの命をあらゆる罪の力から洗い清めます。それは神の民を聖霊の力によって全くとらえ、満たし切るためです。罪の力はサタンの力です。それはこの世界を覆い、地域を覆い、私たちの所有している土地を覆っています。そこで生活している私(の体と心)をも覆っています。
私たちの心身を覆い続けているサタンの支配を火によって焼き尽くさないで、神は満ち溢れる豊かな聖霊の命、力、愛を私たちの中に十二分に注ぎ入れることが出来ません。神が注がれても、私たちはこの覆いの故に、それを十二分に受け取れないのです。それ故に、神はこの悪の覆いに対処なさることから始めます。神はイザヤを通して、このことを次のように語っておられます。

イザヤ25章
万軍の主はこの山で祝宴を開き、全ての民によい肉と古い酒を供される。
それは脂肪の富むよい肉とえり抜きの酒。
主はこの山で、全ての民の顔を包んでいた布と全ての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼして下さる。
主なる神は全ての顔から涙を拭い、ご自分の民の恥を地上から拭い去って下さる。
その日には人は言う。見よ、この方こそ私の神。私たちは待ち望んでいた。
この方が私たちを救って下さる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び踊ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。

主イエスは御臨在の山の上で民との間に祝宴を開かれます。祝宴とは親しい交わりです。
全ての民に「脂肪に富む良い肉」を食べさせ、「えり抜きの古い酒」を飲まるのです。
「肉」とはキリストの言葉です。「酒」とはキリストの御霊です。聖霊です。
主イエスは私たちに「命の御言葉」と「命の霊」を供して、喜びに溢れた交わりをなさるのです。
しかし、それに先んじて、主イエスはしなければならない事があるのです。それは「全ての民の顔を包んでいる死の布」「全て国を覆っている死の布」を滅ぼし尽くす事です。民の顔と大地を覆い続けている死の布を滅ぼし尽くす事です。「死の布」とは、死とは何でしょうか。
言うまでも罪の力の覆いです。悪魔の覆いです。反キリストの覆いの支配です。全ての人の犯した罪の故に、罪の支配、死の支配が全ての人に及んでいるのです。それだけでなく、土地、地域、大地にも悪魔の、罪の、死の、汚れの覆いの支配が及んでいるのです。一人の人の罪(律法の違反)の故に、その人が罪の汚れ、死の汚れ、その支配下に入れられることは理解しやすいのですが、本当にその人が住む土地、地域までが、罪と死の汚れに覆われて、悪魔の支配下に入るのでしょうか。
神はこの点について次のように語っておられます。
申命記18章
あなたがこれから向かう土地の住民は、これらのいとうべきこと(律法に違反)をしたために、その土地は汚されている。あなたたちもその土地を汚すなら、先住民を吐き出したのと同じように、土地があなたたちを吐き出すであろう。

「汚れ」とは罪の汚れ=死の汚れ=汚れた霊の汚れであり、支配です。
人が罪を犯すと、「土地が汚れる」と啓示されています。汚れた土地は私たちを「吐き出す」とも啓示されています。罪を犯した人が罪の汚れ、死の汚れ、サタンの汚れによって覆われますが、その人が住んでいる土地も同じように汚れるのです。人が罪を犯すなら、本来、神の似姿である人が治めるべき土地が、サタンの支配、死の支配、罪の支配、汚れの支配下に置かれ、私たちはサタンの死の支配の故に、そこに根を下ろし、確かな人生を送れなくなります。吐き出されるのです。申命記は、そのようにはっきりと語っています。
この死の覆い、汚れの覆いこそ、この世の神の支配です。しかし、主イエスは悪魔の業を滅ぼし、全ての人をその支配から御自身の恵みの支配に移すために来られました。イザヤ25章で、主イエスのその御業が預言されています。
ここで、万軍の主は祝宴のために、全ての人の心を覆い、顔を覆い、土地を覆っている、死の覆い=汚れた霊の覆い=反キリストの支配を時が来れば、滅ぼす、と語っておられます。イザヤ4章によれば、それは「裁きの霊」と「焼く尽くし霊」によってです
。 そして、初めて主イエスは御自身の民と親しく交わり、命の言葉と命の御霊を豊かに注ぎ入れて、全ての顔から涙を拭い、ご自分の民の恥を地上から拭い去って下さるのです。全ての民は反キリストの支配から解放され、命の源、愛の源である神に御出会いするのです。その時、全ての人は確かに救いの神を知り、神をほめたたえるのです。
「この方こそ私の神!私たちは待ち望んでいた!この方が私たちを救って下さる!
この方こそ私たちが待ち望んでいた主!その救いを祝って喜び踊ろう!」
何と麗しい主イエスとの出逢いでしょう。何と麗しい主イエスとの交わりでしょう。
これこそ、真の神との交わりであり、出逢いであり、礼拝ではありませんか
。 この預預言は、他の無数にある救いの約束と共にキリストの十字架の贖い市からの復活によって既に成就しました。

問題は、私たちがこのように神を知っているかです。
このように主イエスと交わり、一つにされているかです。私たちは礼拝の中で、このように喜びに溢れているかです。このように神を告白し、あがめているかです。
私たちは何時このような真の、喜びに溢れた礼拝が出来るのでしょうか。
私たちの心、顔、地域を覆っている死の覆い、悪魔の覆い、反キリストの覆いが焼く尽くす聖霊の火によって焼きくされて、滅んで行く時です。私たちの霊、心、体が神の満ち溢れる豊かさの全てにあずかり、それによって満たされる時です。その時、私たちはイザヤ25章で約束されているように、「この方こそ私の神!私たちは待ち望んでいた!この方が私たちを救って下さる!この方こそ私たちが待ち望んでいた主!その救いを祝って喜び踊ろう!」と喜びと賛美の声を上がるに違いありません。
ですから、御言葉は聖霊の火と力によるバプテスマを受けた信徒たちの有様について、次のように記録しています。
使徒2章
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。


彼らは毎日、心一つにして礼拝しました。ひたすら一つの霊で結び合わされました。
真心から神を賛美しました。彼らは喜びと真心をもって一緒に食事をしました。真心から神と交わる信徒たちは、真心から互いに交わる事ができたのです。主はその真心を見て、日々、救われる人を魔仲間に増し加えました。
これこそ、「聖霊の火と力によるバプテスマ」が鮮やかに結んだ、実ではありませんか。
誰が一番偉いのか?と競争しあっていた弟子たち、主を裏切った弟子たちは、どこにもいません。
彼らはこのように、喜びに溢れ、力に溢れ、聖なる者にされたのではありませんか。
○○○関連聖句○○○
次のような神の子の姿も、水の洗礼→→聖霊の火と力による洗礼→→それに続く、言葉と水の洗いよる聖別→→更なる聖霊の火と力による洗礼を通して、形作られたのではありませんか。

エフェソ5章 キリストがそうなさった(御自身を教会にお与えになった)のは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なる者とし、染みやしわやその類のものは何に一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。

エフェソ4章
聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。

ローマ5章
神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。






TOP