神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

09.とりなしの実際



第1章 聖書で制定されている三種類の祈り。



第1:主イエスの御名によって「~して下さい」と祈る。
■■なぜ「主イエスの御名」で祈るのか?
ヨハネ14章
私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる
。 私の名によって、願うことは、何でもかなえてあげよう。私の名によって何かを願うならば、私がかなえて上げよう。

驚くべき約束ではありませんか。しかし主イエスのこの約束がなければ、私たちの祈りは意味のないものになります。約束されたお方は真実な方でありますから、そのお方の約束も真実なのです。必ず、聞かれます。聞かれないときは、祈る人、祈られる人に告白されていない罪があるからです。
その罪を告白し、赦されて、その罪の汚れから清めていただくなら、必ず聞かれます。
主な罪は次のようなものです。
1)先祖を含めた偶像礼拝の罪――告白して、霊的契約関係を主イエス御名によって破棄する。
2)人を赦していない罪――主イエスの御名によって、赦し、祝福を祈る。
3)人に恨まれている罪――主イエスに罪を告白し、相手に謝罪し、和解する。(相手が生存していない時は、神様に罪を告白して謝罪し、主イエスの御名によって相手の恨み(呪)を打ち砕く。

第2:御言葉の約束の実現を信じて、「~して下さいます」と告白する祈り。
■■御言葉には与えられた使命がある。
イザヤ55章
私の口から出る私の言葉も、空しくは私のもとに戻らない。
それは私の望むことをなしとげ、私が与えた使命を必ず果たす。

詩篇33
全地は主を畏れ、世界に住むものはみな、主におののく。主が仰せになると、そのようになり、主が命じられると、そのように立つ。
主は国々の計らいを砕き、諸国の民の計らいを挫かれる。主の企てはとこしえにたち、御心の計らいは世々に続く。

神の言葉はなんと言っているでしょうか。驚くべきことを言っています。
「私の口から出る私の言葉も・・私の望むことを成しとげ、私が与えて使命をかならず果たす」
「主が仰せになると、そのようになり、主が命じられるとそのように立つ」
人間の言葉にも力があります。それは私たちの日常の経験です。
まして、天と地と全ての生きたものの創造者である神の御言葉は、それ自体に圧倒的な力があるのは当然です。御言葉自身の中に力があり、命があるのです。四つの福音書を読むと、主イエスは御言葉によって、人の罪を赦し、御言葉=真理を語り、御言葉によって全ての病を癒し、多くの人を悪霊から解放され、御言葉によって聖霊を授け、嵐を静めるなどの多くの奇跡に御業を行われました。
私たちが主イエスの御名によって強い確信を持って御言葉をその通りに告白し、宣言し続けるなら、告白した御言葉がそのまま実現するのです。これは信じる者に与えられた驚くべき特権です。それは、信仰者を通して、神の栄光の統治か現われるためです。それは次ぎの御言葉によって啓示されている通りです。

イザヤ60章
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
私たちが闇に覆われている地上で、暗黒が包んでいる地域で、起きて光を放つなら、主の栄光が私たちの上に輝き出る、と定められています。光とはここでは、御言葉です。
ヨハネ1章では――――「言葉の内には命があった。命は人間を照らす光であった」
詩篇119では――――「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」
「御言葉が開かれると光が射し出で・・」
ですから、神の民が光を放つとは、信仰によって御言葉を全地に向かって言い放つ事です。
そうする事によって、私たちは神の光を放っているのです。私たちが御言葉を強い確信を持って解き放つなら、主が私たちの上に輝き出て、主の栄光が私たちの上に現れるのは当然ではありませんか。
栄光の光とは何でしょうか。それは単なる世界の闇を照らす光に留まりません。それは力であり、権威である事が証しされています。
ハバクク3章では――――「(聖なる方の)威光の輝きは日の光のようであり、そのきらめきは御手から射し出でる。御力はその中に隠されている。疫病は御前に行き、熱病は御足に従う」
神の御力は神の御手から出る威光の輝きの中に隠されているのです。栄光の神の光はそれ自体が権威であり、力であると、この聖句は啓示しているのです。
疫病、熱病が呼び出されて聖なるお方の御前に進み出、その御足にひれ伏すというのですから、これは病気の霊、この世の支配者であるサタンであることが想像できます。御言葉は神の命であり、神の光であり、神の権威そのものです。この地の支配者を屈服させ、光によって闇を追い出し、サタンの死に覆われていたこの地に命をもたらせるのです。
御言葉がこのようなものであることを理解し、受け入れ、信じて告白し続けるなら、死んだような世界が神の光に照らされ、命と力によって変わり始め、生かされ始めることを見るのです。驚くべきことですが、私たちはそのことを日常的に経験しなければなりません。
■私たちは次の御言葉を信じ、心に受け入れ、御言葉に沿って「~して下さいます」と告白して行きましょう。
ヨハネ20章――――罪の赦し
聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。
誰の罪でもあなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。
コロサイ2章――――罪の力からの解放
神は私たちの一切の罪を赦し、不利に陥れていた罪状書きを破棄し、これを十字架に釘づけにし、取り除いて下さいました。
そして、もろもろの支配の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。

エレミヤ30章――――私たちを破壊するものからの解放
私たちを食い尽くす者はみな、食い尽くされる。私たちの敵はみな捕囚となる。私たちを略奪する者は、略奪され、強奪する者は皆、強奪される。さあ、私がお前の傷を治し、打ち傷を癒そう、と主なる神は言われる。

エゼキエル34章――――主イエスが救いの必要な人を訪れて下さる。
私は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする。
私は彼らのくびきの棒を折り、彼らを奴隷にした者の手から救い出す時、彼らは私が主であることを知るようになる。

第3:主イエスの名によって「~せよ」と命じる祈り。主イエスの御名の権威を行使する祈る。
■■信じる者に授けられた権威について
神は多くの権威を主イエスにさずけられ、御自身の栄光を主イエスを通して地上に現しました。
同じように主イエスも信じる者(教会)に多くの権威を授けておられます。御自身を通して神の栄光が地上に現われるためです。神は御自身の力ある御業を全て主イエスを通して行われました。主イエスを通さないでは何一つ行われませんでした。
同じように主イエスは私たちを通さないでは御自身のいかなる力も地上に現されないのです。私たちの信仰による行いを通して主イエスの御業の全てが成しとげられるのです。主イエスはそのように権威を信じる者(教会)に授けられたのです。御言葉はそれを語っています。

エフェソ1章
神はこの力(全能者の力)をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座につかせ、全ての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた全てのものをキリストの足元に従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場所です。

神はキリストに、御自身の王座の右の座に付かせ、絶対的な権威を授けられました。神はキリストをあらゆる支配・権威・勢力・主権の上に置かれ、あらゆる名の上に置かれました。全てのものがキリストの足下にひれ伏し、従うようにされました。驚くべき事に、そのキリストを教会の頭として教会にお与えになったのです。教会は全てにおいて全てを満たしているお方が満ちておられる場所にされたのです。
この御言葉は何を物語っているのでしょうか。教会はキリストの体です。体は頭が思って通りに動きます。教会は頭であるキリストの望む事をなしとげる体です。その時、全てに勝るキリストの権威、力が私たちを通してこの世に現れるのです。
頭であるキリストの望む事は体である教会を通してしか行われません。教会がキリストの御心を行うために立ち上がらないなら、キリストはこの世に対して全く何一つ行なわれないのです。これは教会の使命でもあり、権威でもあります。以下の御言葉もそのことを証ししています。 これもまた、驚くべき摂理です。

マタイ16章
私はこの(信仰の岩)の上に私の教会を建てる。
黄泉の力もこれに対抗出来ない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。
あなたが地上でつなぐこことは天上でもつながれ、あなたが地上で解くものは天上でも解かれる。

御言葉は確かに次のように語っています。
教会が地上でつなぐもの、即ち、禁止するものを、天がそのようになさる。
教会が地上で解くもの、即ち解き放つあらゆる祝福を天がそのようになさる。
驚くべき約束ですが、それが教会には「天の国の鍵」が与えられているという意味です。「天の国」とは「神の国」です。主イエスは教会に御国を開く「鍵」を授けられたのです。私たちが授かった「鍵」で御国の門を開くなら、御国が力を持って下って来るのです。
力とは縛り、砕き、引き抜き、投げ捨て、滅ぼす力であり、同時にこの大地に植え、建て、生かし、繁栄させる力です。黄泉の力=死の力=サタンの力=罪の力は、この教会に対抗する事自体が出来ません。彼らは屈服し、ひれ伏し、従うのみです。
この契約はつまるところ、主イエスが御自身の体である教会を通して全てを治める事を物語っていないでしょうか。言い換えるなら、教会は主イエスと共に全てを治める事を物語っていないでしょうか。主イエスはそのような権威を教会にお与えになったのです。一人ひとりのキリスト者に授けられたのです。キリストが神を代表したように、教会(キリスト者)はキリストを代表しているのです。
驚くべきことですが、これは事実です。

詩編8
主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。
天に輝くあなたの威光をたたえます。あなたの天を、あなたの指の業を私は仰ぎ見ます。
月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心にとめて下さるとは人間とは何者でしょう。
神にわずかに劣るものとして人を造り、なお栄光と威光の冠をいただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるようにその足下に置かれました。

ここでは人がなぜ、創造されたのか。しかも神の似姿に創造され、この地上におかれたのか。
その意味がはっきりと啓示されています。
すべての神の民は、キリストに満たされ、導かれて、自分をまず治め、次に、それぞれの場所をキリスト共に全てを治めるのです。家族を治め、地域を治め、職場を治め、国を治めるのです。
私たちはこの使命のために、人は神の似姿に創造されたのです。これが自覚されたとき、人は自分が何のために生きるのかが分かります。人は意味もなく創造され、誕生したのではありません。
しかしこれは政治的、行政的統治ではありません。政権をとって人間的な政治力で統治するのではありません。それは次ぎの御言葉からはっきりと分かります。
「私たちの主よ、あなたの御名はいかに力強く全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます」
「神にわずかに劣るものとして人を造り、なお栄光と威光の冠をいただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるようにその足下に置かれました」
御言葉の語っていることを思い描いて見ましょう。どのような有様が見えて来るでしょうか。
天と地に満ち、輝いている神の栄光が見えてきます。そして神が御自分の似姿にお造りになった民、即ち、真性のキリストの教会に、御自身の栄光と威光の冠りを授けておられる有様が見えてきます。
栄光とはこの世のものではありません。それは全く神に属する栄えに満ちた光であり、力です。
それは神からの命、神からの愛、豊かさ、神からの正義、真実、真理、神からの希望、平和、喜びのことです。
威光も神の威光の力です。全てを治める権威に満ちた光です。真性の教会、真性のキリスト者を通して、神はこのような御自身の栄光と威光の力を注ぎ、全てを治めるのです。真性とは信仰と従順の教会の事です。既に学んだように、一人の人に内在して働く、キリストの栄光と威光の力があります。一人の人を覆い続け、導き続けるキリストの栄光と威光の力があります。同じキリストの力が、家族を満たし、導くのです。同じキリストの力が、地域を、職場を、都市を、国を導くのです。
それは全く人間の力や地位や権力によりません。また、人間の能力や知恵にもよりません。全ての統治の力はキリストから出てくるのです。それはキリストの霊的な力です。
それが一人の人、家族、地域、職場、都市、国を治めるのです。
神にわずかに劣るものとして、再創造された神の民がそのようにキリストと共にキリストの力によって統治するのです。そのように祈る事、また行なう事が、キリストに救われた者の使命です。
また、生きる意味です。私たちはそのためにキリストにわずかに劣るものとして再創造されるのです。

主イエスは次のように驚くべき、約束、契約を大胆に、また惜しげなく、私たちに与えられたのは、私たちがこの使命を果たすためであって、他のためではありません。
ヨハネ14章
はっきり言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。
○○○参考聖句○○○
ヨハネ20章
誰の罪でもあなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。
これ誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。

これもまた、驚くべき、キリストの約束です。神はキリストに全ての人を赦し、また、赦さない権威を授けられました。キリストはその同じ権威を教会に、一人ひとりのキリスト者に委ねられたのです。
誰の罪でも、教会が赦すなら、赦されるし、赦さなければ、赦されないまま残るのです。キリストは罪を赦し、祝福を与えるために来られました。私たちもまた、多くの人を罪から救い出し、命の繁栄の回復を受け継ぐために、多くの人を赦し、祝福し、真理と救いの福音を語れねばなりません。間違っても嫌悪し、蔑視し、怒り、拒絶し、悪口にとどまり続けてはなりません。
これほどの権威を授かって、祝福を受け継ぐように召されているなら、人を悪く言い、呪い続ける者はやがて、大きな裁きに御座に立たされる違いありません。私たちはどこまでも、キリストがそうされたように、主イエスの御名によって赦し、祝福を受け継ぐのです。

■■次の御言葉につながって「主イエスの御名によって」統治する祈り。
エフェソ1章
神は・・キリストを・・天においてご自分の右の座につかせ、全ての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた全てのものをキリストの足元に従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。

マタイ28章
私は天と地の一切の権能を授かっている。・・私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。

マタイ16章
私はこの(信仰の岩)の上に私の教会を建てる。
黄泉の力もこれに対抗出来ない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。
あなたが地上でつなぐこことは天上でもつながれ、あなたが地上で解くものは天上でも解かれる。

ルカ10章
蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を私はあなた方に授けた。
だから、あなた方に害を加えるものは何一つない。

エレミヤ 1章
主は私に言われた。見よ、今日あなたに諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。

コロサイ2章

神は私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて、不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘づけにし、取り除いて下さいました。そして、もろもろの支配の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
■私たちに授けられた権威とは「主イエスの御名」です。
私たちは今まで、「主イエスの御名」が、どのような「権威ある御名」であったか学んできました。
それゆえ私たちは御言葉を固く信じ、「主イエスの御名によって」次のような問題に対して、指示し、命じるのです。そのために、まず、「主の大能の御名によって強められ」ましょう。これが先決です。
1)「全能の神の御名に」「天地における一切に権威を授かっている主イエスの御名」「全てに勝る御名」「全てのものがその足元にひれ伏す御名」「サタンの力を十字架に釘づけ、打ち砕き、追放した主イエスの御名」を心で「信じます」と告白します。
2)「その御名を心に受け入れます」と告白します。
3)受け入れた主の「大能の御名が私の心の力にして下さい」と祈ります。
4)すると、私たちの心は「主の大能の御名」によって満たされます。
5)その上で、次のような問題に対して、「~の主イエスの御名によって、指示し、命じる」力強く言い放ちましょう。

■ 全ての肉の思い、神に逆らって立つ罪の力、死の力を名指し、言い放ちましょう。――――
「○○よ、お前たちは主イエスの十字架によって、その武装は解除され、主の勝利の戦列である十字架に釘付けられ、そのさらし者にされている」
「主イエスはお前たちを処断し、私たちから引抜いて投げ捨てられた」
「それ故に、私もお前たちを捕らえ、縛り砕く!××から引抜いて、十字架に釘づける!」
「私はお前を、お前たちの処断者、追放者である主イエスの御名によって、××抜き、壊し、破壊する!」
「○○よ、私はお前たちの頭を踏みつけ、踏み砕き、今、滅びよ、と命じる!」
それから、神の正義と公平と真実、愛と平和、希望と繁栄、神の祝福を「人々の心に・・」
「主イエスの御名によって解き放つ!」と祝福を宣言しましょう。
「深く植え、確か建てる!」と宣言しましょう。
そうすれば、私たちが「地上で縛り、砕く事を天が縛り、砕き始める」「私たちが解き放つ事を、植えることを天が解き放ち、植えはじめる」ことを知り、信じましょう。
私たちは空しい、絵空事のような指示や命令を出していません。私たちと天は直結しているのです。
天において主の御心がなされているように、この地の上にも神の御心がなされ、神の統治が始まるのです。主イエスは私たちと共におられます。私たちは勝手に何かをしているのではありません。主イエスが「しなさい」と命じられたことをしているのです。
主イエスの御名による私たちの指示、命令は、必ず、あらゆる人の心を正しくし、人間関係を変え、家族を変え、職場を変え、地域を変えていくのをこの目で見るのです。
主イエスのこの約束を信じましょう。心に受け入れましょう。

第2章 注意すべきことが三つのこと。



①全て「~の主イエスの御名によって」と信仰を持って何度も告白することです。
主イエスの御名に全能の力があるのです。私たちの熱心や語気に力があるわけではありません。大声は必要ありませんが、権威が必要です。
②赦していない人、恨まれてる人があれば、その人に代わって、赦し、また赦しを請います。また、和解を宣言します。
③それでも、神の救いの力が現れない時には、その人の家系にある偶像礼拝、地域の偶像礼拝を――知る限り具体的に名を上げる――を通して働く死の覆い、反キリストの覆いを徹底的に縛り、砕き、引抜き、十字架に釘づけます。それから、同じように祈ります。
その聖書的な根拠は次の御言葉に根ざしています。
マタイ12章
また強い人(悪霊)を縛り上げなければ、どうしてその家(人の人格)に押し入って、家財道具(失われた魂)を奪い取ることが出来るだろうか。まず縛ってから、その家を(神の国へと)略奪するものだ。

主イエスが「強い人」と呼んでいる悪霊の強い支配を受けている人がいますし、時があります。
それは特別な事ではありません。その人の心に平和を、正義を、慰めをいくら祈っても、大した救いが起こらない時はよくある事です。
そのような時、救いを妨害する強い悪霊の力がその人を覆っていると思われます。「強い人」がその人に強い支配を及ぼしているのです。「強い人」とは反キリストです。それはほとんど場合、その人が関わった偶像礼拝から来る死の覆い・反キリスト、その人のご両親や御先祖が関わった偶像礼拝から来る死の覆い・反キリスト、また地域にある偶像礼拝から来る死の覆い・反キリストです。
もう一つあります。人を呪ったり、呪われたりしたことから来る死の覆い・反キリストです。
とりなし手は、この御言葉に聞き従わねばなりません。そして主イエスの大能の御名よって知る限りの、死の多いと反キリストを「縛り、砕き、十字架に釘づけ、破壊し、引抜き投げ捨てる」と宣言するのです。神の救いの御業が始まります。
「強い人を私たちが砕くのですか?」と恐れないで下さい。私たちの信仰を通して神が砕くのです。
私たちではありません。私たちはただ御言葉を信じて、行うのです。このことを忘れないで下さい。
マタイ12章は、人々を様々な災い、問題から救う時に必要であるだけでなく、あらゆる人に福音を伝えるときにも、非常に必要です。全ての人々の人格を神の国にとりもどす時、真っ先にする事はその人を覆い続け、縛り続けている「強い人」を縛り上げねばなりません。次の御言葉の通りです。

第3章 主イエスの大能御名によって、汚れた霊を追い出し、病気を癒す。


①癒しと解放を約束する主イエスの御言葉
ルカ 10章
蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を私はあなた方に授けた。
だから、あなた方に害を加えるものは何一つない。

マタイ10章
イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。
汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すためであった。

マルコ16章
私を信じる者が病人に手を置けば癒される。

悪霊を追い出し、病を癒す時、これらの御言葉の一字一句を全て心で信じて、心に受け入れ、この御言葉に沿って祈り、この御言葉の上に立って、悪霊を追い出す権威、病気を癒す権威を断固として行使します。そうすると主イエスが責任を持って癒して下さいます。
主イエスは御自身の民を覆っている多くの汚れた霊を叱りつけて、追い出しました。御もとに来た全ての病人に手を置いて癒されました。主イエスはこれらの業を全て御言葉によって成しとげられました。汚れて霊は「出て行け!」という主イエスの御言葉によって、出て行きました。
あらゆる患いが「よくなれ!」「立ち上がれ!」「見えるようになれ!」「清くなれ」という言葉によって、癒されました。ただ言葉によって、です。主イエスの御言葉には「力」があるのです。
ヨハネ1章では「万物は言によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった」と証しされている通りです。主イエスの御言葉は創造の力であり、救いの力であり、汚れた霊に対しては恐るべき裁きの力なのです。
主イエスは教会に、信仰者に悪霊を追い出し、病気を癒すように命じられています。そのために、御自身の、悪霊を追い出し、病気を癒す権威を私たちにお与えになりました。このことを知って、信じましょう。そうすれば、その通りになります。かねてから学んでいる通り、福音は神の力ですが、初めから終わりまで、信仰によって実現するのです。
使徒たちは使徒2章で、かねてから約束されていた聖霊にバプテスマ(上からの力)を受け、主と同じ業を行いました。彼らも主イエスの名によって発した言葉によって、主イエスの業を行ったのです。

使徒5章
人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。・・エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

これはクライスト・チャーチ・神戸でも日常的に起こっていることです。私たちは使徒2章のように聖霊のバプテスマを受けたわけではありませんが、全能の神を信じる信仰によって、全能の神の力に満たされて、また、多くの癒しに関する御言葉をそのまま信じて従い、また、告白することによって、様々な霊的な解放、癒しが与えられているのです。
それは以下の通りです。
再発性肝臓癌(三件)、転移性肺癌(13箇所)、子宮頸癌、乳癌(二人)皮膚癌、すい臓癌、転移性腸癌、胎児性梅毒、川崎病、血栓(二件)腎臓結石(二件)、尿道結石(二件)、高血圧、糖尿病(二件)、ストレス性難聴、浸出性中耳炎、妊娠中毒症、40歳を過ぎた初産の無痛分娩、円形性脱毛症、手術不能の多発性動脈硬化症などなど・・
対人恐怖症(三件)、動物の鳴き声が死ぬほど怖い人(一件)、幻覚幻聴、統合失調症(四件)など・・

注:――――精神疾患の癒しは完全でない人もいます。幻覚、幻聴が消えた・閉じこもっていたが、外に出られるようになった。という程度の人もいる。その理由は御本人がその程度でそれ以上をもとめなくなったからです。クリスチャン、ノン・クリスチャンに関係なく癒されています。 祈られている事すら知らなかった人もいる。一人はインシュリン投与を必要としなくなりました。膵臓癌の人、乳癌の人の一人は良性に変わった。子宮経口癌の人は、中性に変わり、両性に変わり、消えました。

②実際の祈りの一例
①転移性腸癌の場合(ノンクリスチャンの女性)
原発は胃癌ですが、胃を全摘して、5年後に胃癌が腸に再発。既に腹部に痛みが来ていました。
年齢は63歳。広島で被爆。息子と娘の三人暮らし。娘は高校時代いじめに会い、何年か閉じこもっている。「キリストの神様は癌を癒してくれますか?」と電話で問い合わせてきた。明石の成人病センターで、一ヶ月後の入院・手術が決まっていた。娘が閉じこもっているので、入院したくないとのことであった。「あなたが神様の言う通りに従って下さるなら、癒されます」と答え、教会に来られた。
一回目。「ただ信じなさい」と言い、「信じます」と告白してもらった。
「再発性の癌の霊よ、主イエスの御名によって、お前を縛る。砕く。十字架に釘づけ、引抜き投げ捨てる」「主イエスを信じる者が病人に手を置けば癒される。主よ、この御言葉を信じて、手を置いています。あなたが御言葉の通り癒して下さいます。あなたを信じる者が病人に手を置けば癒されるのです。この御言葉自身が癒して下さいます」と何度も同じことを信仰によって祈る者が告白した。
次に「私は主イエスの御名を持っている。この御名は全能の神の御名。全てに勝る御名。全てのものがその足元に膝をかがめる御名。私はこの御名の力を信じる。その御名によって、私は命じる。
再発性の癌よ、今、この腸から消えてなくなれ!消滅せよ!」と何度も繰り返し命じました。
痛みが消えて、帰宅しました。一週間後、スーパーから食品を下げて帰宅する途中、劇痛のため、路上でシャガミ込んでしまいました。
主は癒そうとしていますが、癒され切っていなかったのです。何か原因があります。
私たちは主に聞きました。「主よ、どうして癒されないのでしょう。あなたが癒されようとしていることは明らかです。一週間、痛みが消えたのですから。完全な癒しを受け取るために、どうすればいいのでしょうか」
一緒に祈っていた一人の女性信徒に、主は幻を与えて下さいました。その方の御先祖に神主がいること、また、その方はネックレス、ブレスレット、指輪をしておられましたが、その全てが偶像のお守りでした。
私たちは彼女の先祖の偶像礼拝と装身具を、主がいとわれる罪として告白し、偶像礼拝から来る呪を打ち砕き、引抜き、十字架に釘づけました。高価な装身具を実際的に破棄するように言われた彼女は「売ってはだめか?」「作り変えるのは?」というように、惜しみました。気持ちは分かるという、人情論をかなぐり捨てて、御言葉に従わない限り、癒しは期待できないと言い切りました。
「義理があり、情があり、聞きたくても神様に従うのは難しい」という人間の言い分に同情し、神の言葉をないがしろにした故に、過去において、数名の末期癌の癒しを失った苦い経験が私たちにはありました。私たちは信仰とは従うことであることを辛い失敗から学んでいました。
そして再び、癌の癒しを祈り直しました。それから一ヵ月後に、予定通り明石の成人センターに入院しましたが、CT上から癌が消えていました。医者は理解できなかった事でしょう。一週間後に退院しました。あれから既に7年ほどたちますが、元気にしておられるとのことです。

②胎児性梅毒の場合(ノンクリスチャンの乳飲み子)
その乳児は神大付属病院に入院中。40度をこしそうな高熱が下がらない。手も足もゆがみ始めていました。医者はもう何日もつか分からない、と。母はただ泣くばかり。貧しくて20歳にもならない若い母でした。この母の母親は二人の小さな子供を置いて、若い男性と駆け落ち。二人は父親の手で育てられました。母親に捨てられた娘がやっと自ら母になったのです。深い思いを込めて、二人目の子を生み、自分の家族を作ろうとしていたのです。
女性クリスチャンたちが、このことを知り、あまりに可愛そうに思い、信じれるはずのない、使徒19章の記事にすがりつきました。 パウロの手を通して目覚しい奇跡が行われた。彼が身につけていた手ぬぐいや前掛けを持って行って、病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもは出て行くほどであった。
私たちはハンカチに手を重ね置いて祈りました。「イエス様、この親と子を憐れんで下さい。この母と子を救って下さい。あまりにも可哀想ではありませんか」皆、大粒の涙を流して祈りました。
「あなたはパウロを通して、このような癒しを行われました。私たちはパウロのような立派な信仰はありません。しかし、この母と子を救ってやって欲しいのです」
その日の夜、女性たちが病室を訪れ、そのハンカチで乳児の全身を洗い清めました。母は泣いていました。女性たちは福音について何も語りませんでした。洗礼に向かって、聖書を学んでいる段階であり、聖書の正しい知識が十分になかったのです。主イエスはそのような未熟な求道者の祈りにも答えて、その夜の内に瀕死状態にあった乳児の熱を下げ、ゆがみ始めていた手と足を元通りにして下さいました。
その乳児も今頃は高校正。後遺症は全く残っていません。これは、人の真実の涙の訴えに答えて下さった主の特別な癒しではありませんか。この時、主イエスは、難しい教理、特別に優れた信仰を要求なさらなかったのです。
しかしこの特別な恵みを一般化することは出来ないでしょう。全ての人が、いつでも、心の底から涙を流す事は出来ないからです。恵み深い主の御名をほめたたえます。

※ 御言葉を単純に信じて、悪霊を追い出し、病人を癒しましょう。失敗を恐れないで行いましょう。実践の中で、ますます信仰が与えられ、権威が与えられます。





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