08.とりなし祈れ
第1章 とりなしの祈りの聖書的根拠
(1)とりなしにより、罪の中に死んでいる者を救う神の情熱。
私たちの神は人が自分の罪を認め、罪を告白する時、どれほどいつくし深いか。立ち返る罪ある人をどれほど喜びを持って迎えて下さるか。そして罪の汚れからどれほど、私たちを清めて下さるか。今までにも勝って私たちに新たな祝福を誓われるか。それはルカ15章の「放蕩息子のたとえ話」と歴代誌下7章によって明らかです。是非この御言葉を心に刻んで下さるように・・・そうすれば、私たちは進んで、神の御前に罪を告白できるようになります。しかし神は正義の神でもあります。神の正義は罪を見て見ぬ振りをし、放置する事は出来ません。神は罪を深く、憎まれます。しかしそれは罪人に対する神の愛が消えてなくなったことを少しも意味しません。神は罪を忌むべきもの、滅ぼしつくすべきもの、焼き尽くすべきものと見なされます。しかし、罪人をたぎる思いをもって救わんとなさるのです。
神はまた、罪を告白せず、悔いず、正しい場所に立ち返える意思のない人を懲らしめられます。神の裁きとは、神の恵み、救いから、退けられ、サタンの支配に引き渡されることです。その時、神はどのように思っておられるのか。エレミヤ31章に明らかです。
エフライム(神の民)はかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、私は彼を更に心に留める。彼の故に胸は高鳴り、私は彼を憐れまずにはおれない、と主は言われる。
神は心の底から全ての人々を尊び、いとおしみ、愛しておれますから、罪を改める気のない私たちを退けられますが、その胸は悲しみと苦しみに引き裂かれそうなほどです。神は御自身が退けた民を更に「深く心に留める」そして「憐れまずにはおれない」と語っておられます。御自身の深い憐れみの故に、神の胸は高鳴り、その腹綿は引き引きちぎれそうになっているのです。
私たちは罪を犯すと、直ちに私の心は死に始め、苦しみ始めますが、私たちの罪は私たちを苦しめているだけでなく、私たちの神をこのように悲しませ、苦ませていることを知っていなければなりません。
また、神が罪にとどまる人を懲らしめるのは、明確な目的があります。神はただ罪を裁いているのではありません。イザヤ1章に、次のように啓示されています。
シオン(神の民)は裁きを通して贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。
背く者と罪人は共にうち砕かれ、主を捨てる者は断たれる。
悔い改める者は恵みの御業によって救われます。しかし、悔い改めることをしないで、裁きの中に置かれ続ける者もまた、その裁きによって救われるのです。罪を告白するために、神に立ちかえらない時、私たちの持ち続ける罪の苦しみは次第に激しくなります。神はその苦しみを通して、民を御自身のもとに立ち返らせようとしておられるのです。
ヨブ記36:15(口語訳)で言われている通りです。
神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。
しかし、何時までも神に立ち返らない人は、その苦しみの故に、本当の滅んでしまうかも知れません。そこで、神はそのように裁かれて、滅んで行く罪人をも、なお救おうと「とりなし祈る」道を制定されました。一人の人も滅びることを望まないという神のたぎる思いはどれほどのものでしょうか。
それゆえ、とりなし祈るという事は信仰者にとって、出来る限りした方がいいという程度のものではありません。とりなしは、神様の強い、信仰者に対する、切なる、切なる、命令なのです。
イザヤ62章
エルサレムよ、あなたの城壁の上に私は見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。
主に思いを起こしていただく役目の者よ、決して黙してはならない。また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり、エルサレムを全地の誉れとして下さるまでは。
信仰者の一人ひとりは見張りです。また、主に思いを興していただくための役目が与えられているのです。主に結び合わされた者は、自分の家族のたちのこと、友人知人、職場の同僚の事を心にかけていなければなりません。私たちのとりなしの祈りを通して、神は罪の中に死に始めている人たちの「再建に取りかかられる」からです。そしてやがて「全地の誉れとなる」までに、繁栄を回復なさるのです。とりなし祈るという事は重要なキリスト者の使命です。心を込めて教会のために、あらゆる罪の中に苦しんでいる人、罪に破壊されている人のために、祈りましょう。
イザヤ62章
シオンのために私は決して口を閉ざさず、エルサレムのために、私は決して黙さない。
彼女の正しさが光として輝き出、彼女の救いが松明のように燃え上がるまでは。
私たちが信仰を持って、真心からとりなし祈り続けるなら、神はやがて、私たちのとりなしている人の「正しさを光として輝きで、救いを松明のように燃え上がらせて下さる」のです。
しかし、私たちに要求されていることは、「とりなし」は祈る事だけではありません。
私たちが真理の言葉と愛を持って、警告する事も大切なとりなしです。それが出来るとき、忠告したり、諭したりしなければなりません。私たちは「私たちがこの使命をないがしろにして、とりなしを必要としている人のために、祈らないなら、また、直接、本人に警告できる立場にあるのに、何も発言せず、見てみぬ振りをし続けるなら、そのような私たちを神は容認されません。
今日の教会はとりなす人がいても、罪ある人に忠告し、警告する人はごく少数です。火中の栗を拾いたくないので、ただとりなすだけですませようとするのです。私たちは出来る立場にある時には、愛を持って、真理の言葉を語らねばなりません。そして、その上で、その人が御言葉の真理を受け入れることが出来るようにとりなすのです。御言葉は次のように語っているからです。
エゼキエル書3章
私が悪人に向かって「お前は必ず死ぬ」と言う時も、もし、あなたがその悪人に向かって警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように警告しないなら、悪人は自分の罪に故に死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。しかしあなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち返らなかった場合には、彼は自分の罪の故に死に、あなたは自分の命を救う。
○○○参考聖句○○○
■エレミヤ 4章
もしあなた方が真実と公平と正義をもって、「主は生きておられる」と誓うなら、諸国の民はあなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。
これは力強い御言葉です。
真実・公平・正義の神が生きておられます。神は信じる者だけの神ではありません。
全ての人の神です。神を知らない人、神に言い逆らう人の神でもあります。神は全ての人を御自身の真実・公平・正義によって治める事が出来ます。信仰者は無論のこと、信仰のない人、また他の神を拝んでいる人、無神論の人をも、御自身の真実・公平・正義によって治める事が出来ます。
もし、神を信じる者が「真実・公平・正義の神よ、あなたは生きておられます。キリスト者に対してだけでなく、全ての人に対して、悪人にも善人にもあなたは生きておられます」と告白するなら、「今、あなたの真実・公平・正義を私がとりなし祈る人の内に実現して下さい」と祈るなら、「主よ、××さんに対して、真実、公平、正義を貫いて下さい。全ての悪を取り除き、救いを与えて下さい。あなたは××さんに対して生きておられます。××さんを苦しめている悪の力に対しても生きておられます。××から罪の力を取り除いて下さい」と告白し、祈るなら、××さんの苦しみの原因が彼自身の中にあっても、周りの人の悪の故に××さんが苦しんでいても、神は全ての悪を取り除いて下さって、××さんとその関係者に真実、公平、正義を貫いて下さり、彼らの間に平和が来るように計って下さいます。
私たちがエレミヤ4章を信じて、このように神に向かって告白し、叫ぶとき、無数の神の真実、公平、正義が貫かれたのを経験しました。家出した少女が帰ってきました。ヤクザに拉致せれた青年が無傷で解放されました。御近所の人と言い争っていた、信徒さんの母親が穏やかになりました。様々な、些細な問題で、事あるごとに言いがかりをつけてきていた御近所の怒りの人が、穏やかになり、気遣いさえ見せてくれるようになりました。リストラされた人の仕事が見つかりました。バラバラだった職場に平和と一致が生まれました。
全て神を知らない人です。信仰者のために祈ると、神は更に深い恵みを与えて下さいます。答えられた祈りは数え切ません。ですから、私たちはエレミヤ4章を信じて祈るなら、この世に「神の真実・公平・正義」を実現する事が出来ます。
第2章 とりなし手の陣営を清める
(1)とりなしは悪魔の策略に対する霊的な戦いであり、単なる祈りではない。
それ故、私たちはまず、神によって導かれる陣営を清めねばなりません。申命記23章
あなたが敵に向かって陣を張るならば、注意して全ての汚れから身を守らなければならない。・・
あなたの神、主はあなたを救い、敵をあなたに渡すために陣営の中を歩まれる。陣営は聖なるものである。主があなたの中に何か恥ずべきものを御覧になって、あなたを離れ去ることのないようにしなさい。
とりなし祈る事は単なる信仰上の行いではありません。御言葉はⅠヨハネ5章19節で次のように啓示しています。
私たちは神に属するものですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
とりなし祈る事はあらゆる「真実・公平・正義」の源である神の力によって、あらゆる「悪」の源であるサタンに対抗して立つことであり、その力を打ち砕いて、神の義・公平・真実を実現することです。ですから、とりなしの祈りは、霊的な戦いでもあるのです。私たちのその意識が無くても、敵に向かって陣を張ることでもあるのです。「敵」とは誰の事でしょうか?
それは私たちに罪を犯させる「罪の力」「サタン」の力、汚れた霊どもの力です。
エフェソ6章は、そのことを明確に証ししています。ですから、神は言われました。
エフェソ6章
主により頼み、その大能の御名によって強くなりなさい。・・どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、全ての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
私たちの戦いは血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものです。
神は罪の力の奴隷となっている人、悪魔に生け捕りにされているに等しい人をキリスト者を通して、何とかしてその奴隷状況から救い出そうとなさいます。それ故に、神は私たちに「主により頼み、その大能の御名によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように・・」と命じているのです。
私たちの戦いは、血肉=人間に対するものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものです。それは悪魔の策略に対する霊的な戦いである事が分かります。
また、「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、全ての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と命じておられます。
聖霊に満たされ、聖霊に覆われ、聖霊に導かれて祈らなければなりません。そうしないと、どのような時にも、根気よく祈り続ける事が出来ないのです。主イエスの憐れみ、たぎる思い、熱情、力が私たちの心に現れていなければ、私たちは祈り続ける原動力を持っていません。私たちの心に働いて下さる主イエスの力、熱情、誠実、信仰の力がどうしても必要です。
とりなしに祈りに力・命を与えるのは神の霊であって、人間の力や熱心や善良さではないのです。
人間的は能力では祈り続ける事が出来ないのです。
更に、神はとりなしの軍団である陣営の内側におられます。陣営の中を巡り歩き、まず、陣営を清めて聖なる者にしようとされます。私たちの心に隠れている罪、告白していない罪があるなら、その罪が私たちの祈りを妨げます。聖霊の満たしと導きを妨げます。ですから、とりなし手の中に、不信仰や思い煩いや怒りがあれば、告白しなければなりません。そして清められ、聖別されねばなりません。
そうしないと神は、陣営から去って行かれます。しかし清められるなら、神は私たちと共に働き、敵の頭を踏み砕いて下さいます。救いは一挙に来る時もあれば、長期化する時もあります。
しかし神はイザヤ62章に書いてある通り、神は、とりなしている人の「再建に取り掛かり」「全地の誉れ」とし、その「救いが松明のように燃え上がるように」して下さいます。
無論、悪魔はそれに反対し、時には激しく妨害して来るでしょう。ですから、エフェソ6章は「絶えず目を覚まして根気良く祈りなさい」と命じておられるのです。
(2)身につけるように命じられている「神の武具」とは何か?
エフェソ6章 邪悪な日によく抵抗して、全てをなしとげて、しっかりと立つことが出来るように神の武具を身につけなさい。立って真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取り、それによって悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことが出来るのです。また救いを兜としてかぶり、霊の剣、即ち神の御言葉を取りなさい。
A)まず、既に学んだように「救いの神」である主により頼む。全能者である主を仰ぎ見る。
主が御言葉の通り実現して下さることを信じると告白することです。
B)その大能の御名によって強くなりなさい。――――「主よ、あなたは全能の神。天地における全てを統治し照られる神。真実と公平と正義を実現なさる神。この神を信じます。このあなたを私たちの霊と心に受け入れます。全能者よ、あなたの大能の力によって私たちの霊と心を強めて下さい」と祈りましょう。
C)悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身につけなさい。――――神の武具とは戦うために必要な力です。
①立って真理を帯として腰に締め、②正義を胸当てとして着け、
③平和の福音を告げる準備を履物とする。④信仰を盾として取り、悪い者の放つ火矢を消すため。
⑤また救いを兜としてかぶり、⑥霊の剣、即ち神の御言葉を取る。
あらゆる悪魔の策略に対抗するためには、私たちは神の「真理の言葉」に直結しなければなりません。
悪魔の策略とは、「悪魔の嘘・偽り、惑わし」「恐れ、不安」「苛立ち、憎しみ」「束縛、圧迫、破壊」です。それを見破る力は神の「真理の言葉」を通して悪魔が作り出している現実を見直すことです。「神の真理」で私たちが照らされていないと、現実に働く、敵の偽り、惑わしを見破ることは出来ません。真理の実言葉自体が私たちの知恵とな、本当の事を見抜く力となります。
次に大切な武具は「神の正義」です。正義が悪に立ち向かわせるのです。「神の正義」を身に帯びないと悪魔の悪に立ち向かう基本的な力がありません。正義が悪に立ち向かわせるのです。
次に「平和の福音」を伝える準備をします。今、とりなしている人に一番必要な福音、つまり、救いの力とは何でしょうか。それをはっきりしましょう。とりなしの祈りの中で、その人が必要としている救いの言葉をその人に向かって解き放つのです。このことで、その人の直接、福音を伝える道を備えていることになります。とりなしている人の最終的な救いは、御本人が自分の信仰によって勝利の生活を送ることです。私たちの戦いは代理戦争で終わりません。
また、私たちが頭に「救いを兜」をかぶるのは、私たちの知性(判断力、意志力など)を混乱や恐れや疑いから守るためです。
最後に「霊の剣である御言葉」を取りましょう。御言葉は剣です。悪魔を刺し貫く神の力です。
イザヤ55章の通り、神の御言葉には神が与えた使命があり、私たちが御言葉を信じて告白するなら、御言葉が自分に与えられた使命を果たすのです。悪魔の悪、嘘と誘惑に対して神の言葉は絶大な破壊力を持つのです。ですから、私たちが向き合っている問題に勝利する御言葉をあらかじめ用意しておく事が必要です。
礼拝も御言葉に従い、祈りも御言葉に従い、とりなしもまた御言葉に従うのです。御言葉がなければ、私たちは自分の言葉、人間の言葉しか持っていません。それは何の役にも立ちません。多くの御言葉を心に蓄えて置くように、日常から努めましょう。