神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

07.真の礼拝への道・満ち溢れる豊かさ



第1章 満ち溢れる豊かさの全てにあずかる礼拝・・・


神は全ての礼拝者に等しく、豊かな礼拝を授けて下さいます。その中で、素晴らしい聖霊の満たし、導き、養育を与えて下さいます。しかし神はある時、ある人を選び、礼拝の中で、特別な、並外れた恵みを得させて下さいます。次のように、啓示されている通りです。

(A)へりくだって礼拝する人。
イザヤ 57章15節
私は高く聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、
へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。

「打ち砕かれた人」とはどのような人ですか?
それは自分の判断、力、知恵を神として生きてきて、難破船が座礁して、前にも後ろにも進めなくなった人です。修理する事が不可能なほどに、とことん挫折し、破壊された人です。
そうでなくても、大きな問題、災いの前でどうしていいのか、分からない、なすすべがなくなった人です。自分が無力だと全く悟った人です。その人は砕かれた人です。
「へりくだる霊の人」とはどのような人ですか?
砕かれた人は誰でもへりくだりますが、もともとへりくだる人もいます。その人は幸いです。
それは自分には、永遠の、変わることのない、真実な命がないことを知った人です。変わることのない真実の愛も、真実の信仰も、真実の希望も、絶対的な知恵も、全てを成し遂げる力もないことを十分に知っている人です。そして、変わらないもの、絶対的なもの、全てを成しとげる力が神の内に存在することを知って、その神を慕い求め、飢え乾いている人です。神はこの人に豊かな命を注ぎいれ、並外れて満たして下さいます。
ですから、私たちは一日も早く、そのように砕かれ、あるいはへりくだる事が出来るように祈るべきです。

(B)神に向かって口を広く開ける人
詩篇81 11節-15節 口を広く開けよ、私はそれを満たそう。しかし私の民は私の声を聞かず、イスラエルは私を求めなかった。私の民が私に聞き従い、イスラエルが私の道に歩むものであったなら、私はたちどころに彼の敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろう。
「口を広く開けよ」これが詩篇81編で、神が一番言いたい事です。
私たちは受けた祝福を受け継ぐように召されているのです。即ち、自分の満足のためだけではなく、人を祝福し、助けることが出来るほどの、豊かな力強い祝福を受けるように招かれているのです。
ですから神は、並外れた救いの力を私たちに注ぎ入れたいのです。なんと素晴らしい神でしょう。
神は私たちをおろそかになさいません。私たちを尊び、私たちを通して御自身の栄光を現そうとしておられます。事実、神は私たちを通してだけ、御自身の救いをこの世に現されるのです。私たちの、頭越しには何一つなさいません。これは私たちがどれほど、神から尊ばれているかの証拠ではありませんか。
私たちは神が望んでおられるように、口を大きく開けましょう。
「もっと力を、もっと愛を、もっと清さを、もっと喜びを、もっと知恵を」と言いましょう。私たちは「神の満ち溢れる豊かさの全てに預かり、それによって満たされる」でしょう。神は私たちの礼拝を並外れて祝福なさりたいのです。
しかし、多くの人は神に向かって開ける口が、あまりにも小さいのです。
なぜでしょう?また、どのような人が口を大きく開けるでしょう?
それは「神を全能の神である」と知り、信じる人ではありませんか?「神は信じる者に何でもお出来になる」と知り、信じている人ではありませんか。人は誰でも、自分の背丈に合わせて神を小さくするのです。私たちはあまりにも弱くて小さいので、「全能の神」を大変信じにくいのです。
もし、私たちが自分の背丈に合わせて、神を小さく見積もり、神にも出来る事と出来ない事がある。出来るときと、出来ないときがあるなど、あやふやな事を言い始めるなら、私たちの信仰は空しいものです。あってもなくても、大して変わらないものになります。
しかし、神は全能の神であり、全てを治めている神であり、天地において一切の権威を持っておられる神です。それゆえ、私たちの口を神に向かって広く、大きく開けるために、神が全能である事を知り、信じましょう。全ての御言葉をまっすぐに心に受け入れ、信じますと告白しましょう。

(C)全能の神を信じる人
主イエスは、ある日、「お出来になるなら、息子を憐れんで下さい」と子の癒しを求めた父親に言われました。
■マルコ9章23節 出来れば、と言うのか。信じる者には何でも出来る。
主なる神は「信じる者には何でも出来る」と断言されました。信じない者には何も出来ないという意味でもあります。神の救いの約束が私たちの生活の中に実現するのは、ただ信仰によるのです。
それも「信じる者には何でも出来る」という全能の神に対する知識と信仰がなければ、神はそのような人に対して、あることは出来るが、あることが出来ない神として御自身を現わされるでしょう。
そのような神を信じることが出来るでしょうか。そのような神を誇る事が出来るでしょうか。
しかし私たちの神は全能の神です。あるがままに神を認識し、信じねばなりません。そうすれば、全てを成しとげる全能の神が私たちの日常生活の中に御自身を現して下さるのです。
■ 全能の神が私たちの心に全能の力を持って御自身を現して下さるために祈りましょう。
次ぎの御言葉を一つ一つ「この御言葉を心で信じます」と口に出して告白し、御言葉の意味を心で探り、「心に受け入れます」と告白しましょう。そうすれば、全能の神が御自身の力を私たちの心に現して下さいます。その心に現われた全能の神の力によって、全能の神を信じることが出来るのです。
(出エジプト記6章)
主よ、あなたはまことに全能の神。全能の救い主。私たちの祈りを通して全能の力を現して下さる神。
(マタイ28章)
主よ、あなたは天と地における一切の権能を持っておられる神。
私たちの祈りを通して全地を治め、全ての人々を治めて下さる神。
(エフェソ1章)
主よ、あなたの御名は全てのものの上に置かれている。
全てのものが、あなたの足下にひざまずき、従います。
(詩篇41)
主よ、あなたはまことに正義と真実の神。慈しみと平和の神。
私たちの祈りを通して御自身の正義と真実、慈しみと平和を全ての人に現して下さる神。
(ヨハネ12章)
その時、主よ、あなたは全ての人を御自分の下に引き寄せると約束された神。
私たちの祈りと行いを通して、全ての人を御自身に引き寄せて下さる神。
(マタイ16章)
「陰府の力も教会に対抗する事は出来ない」「あなた方が地上で縛るものを天が縛り、地上で解き放つものは天が解き放つ」とあなたは言われた。

悪魔は私たちの心の中にあらゆる方法を用いて、全能の神を信じさせないように、あらゆる「不信仰」を入れようとします。そのことに対して神の言葉は語っています。

(D)神に服従するために悪魔に反抗する人
■ヤコブ4章 7節-8節
神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げていきます。
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくれます。
「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げていきます」と神の言葉は命じています。悪魔は反キリストであり、不信仰の源です。また悪魔はあらゆる「悪い思い」=「肉の思い」=「罪」の源です。思い煩い、恐れ、いらだち、怒り、悪口、悪意、人を裁き自分を裁かせる力の源など、あらゆる罪の力の源です。また、神の言葉を信じさせない、理解させない、そればかりか、反抗させ、嫌悪させる反キリストの源でもあります。神の子の敵だと思わねばなりません。
ローマ8章では「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です」と御言葉が語っています。
「肉の思い」を放任し、泳がし続けるなら、私たちの心に死が入り、死によって支配されます。
私たちはこの罪と死からどのように救われるのでしょう。
セミナー(5)と(6)の2章(B)で既に学んできました。
神の言葉に聞き従い、服従しようとすると、私たちの「肉の思い」=「罪の力」が激しく抵抗するのを経験します。「肉の思い」はサタンが私たちの心の中に入れた彼自身の思いです。自分の思いだと思ってはいけません。サタンが自分の思いを私たちの心の中に注ぎ入れているのです。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です」――――この御言葉は真実です。
「肉の思い」はサタンの思いであり、それ故に、必ず死をもたらせます。しかし「霊の思い」が私たちの心に働きかけると、私たちは「命と平和」によって満たされます。なぜなら、霊は神だからです。
皆さん、私たちの「心」は戦場なのです。そのことを知って下さい。肉の思い=サタンの思いが支配すれば、心は死にます。霊の思い=神の思いが支配したなら、私たちは平和と命の内に生きるのです。
私たちを殺す者は私たちの敵ではありませんか。私たちの平和と命を与える者は私たちの見方です。
敵と見方をはっきりとしましょう。そうすれば、「神に服従し、悪魔に反抗しなさい」という神の言葉が理解できます。そして聞き従えます。聞き従うとき、私たちは初めて、「肉の思い」が死であり、「霊の思い」は命と平和である事を経験するのです。
「悪魔に反抗し、神に服従する」という御言葉に、私たちははっきりと聞き従うと決断しなければなりません。心に決めなければなりません。私たちは「悪魔に反抗します」「悪魔に抵抗します」「悪魔に対抗して立ちます」私たちのこの態度は断固としていなければなりません。そうするなら、私たちはあらゆる肉の思いに勝利します。あらゆる罪の力に勝利します。悪魔は逃げていきます。
■私たちは断固として告白しましょう。
「私はあらゆる肉の思いの奴隷とならず、神に服従する!」
「私は悪魔に反抗し、神に服従する!」
「私はあらゆる肉の思いに対抗し、霊の思いに服従する!」
「私はあらゆる肉の思いを主イエスの御名によって打ち砕き、神に服従する!」
「肉の思いよ、お前は死をもたらせる。私の心を殺す。
お前は私の心に注ぎ入れられた罪の思いである!神の子である私はそれを受け入れない!」
「肉の思いよ、お前は忌むべき者であり、処断されるべき者であり、滅ぼし尽くすべき者である!」
「神の子である私は、お前を敵と見なし、お前を打ち砕く!主イエスの御名によって!」
「引抜き投げ捨てる。滅びよ!処断の霊と焼き尽くす霊を受けて滅びされ!」
その時、絶大な神の救いに力が働き始めます。サタンは私たちの思いから逃げ出し、肉の思いと不信仰は去り、信仰が、霊の思いが戻ってきます。

(E)「温泉教会」「温泉クリスチャン」をかなぐり捨てる人
「温泉教会」「温泉クリスチャン」と呼ばれる教会があり、クリスチャンがいます。
暖かい、優しい神と交わり、慰められ、癒され、くつろぎ、満たされる教会です。それを求めて教会に来るクリスチャンです。教会はそれ以上のものを与えようとしませんし、クリスチャンも求めようとしません。この使命を知らない教会は「温泉教会」であり、温泉クリスチャンです。神はこのような教会をある程度しか祝福されません。神は、このようなクリスチャンを満ち溢れる豊かさの全てによって満たす事をなさいません。
このようなクリスチャンは礼拝の場所から、それぞれの場所に帰って行くと、受けていた恵み、聖霊の満たしをすぐに失います。温泉で癒された人が、温泉から出てしばらくすると、その暖かさも、そのくつろぎをすぐに失うのと同じです。そのような教会とクリスチャンは自分が生きているのが精一杯の教会、キリスト者にならざるを得ません。
自覚すべき、教会とクリスチャンの使命とはなんでしょうか。
■Ⅰペテロ1章
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。
かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなた方は召されたのです。

神が私たちを祝福されるのは、私たちが多くの人を祝福するためです。多くの神の子たちが、また、神を知らない人たちが神の祝福を必要としています。全ての人を祝福するのにどれほどの祝福に私たちがあずかる必要があるでしょうか。ですから、この使命を全うしようとする人を神は並外れた恵みと祝福によって満たそうとなさるのです。与えなさい。そうすれば、あなたも与えられる。押入れ、ゆすりいれ、懐に入れてもらえる」とルカ6章で神が言われた通りです。

■Ⅱコリント5章
神はキリストを通して私たちを御自身と和解させ、又、和解のために奉仕するつとめを私たちにお授けになりました。
つまり神は人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
主イエスは御自身の体に、私たちの罪、病、心の痛み、あらゆる呪を担って下さり、私たちの身代わりとなって神に裁かれて下さり、それらのものを皆、十字架に釘づけて、私たちから取り除いて下さいました。
背き続ける罪の故に私たちを御国から追放し、死に渡していた神は、主イエスの十字架の贖いの故に、私たちと和解し、再び私たちを神の子として命の繁栄を回復して下さいました。
私たちが今、信仰によって祝福され、恵みを受けているのは、神との間に和解が成立しているからです。この和解の故に、私たちは死から命へ、闇から光へ、サタンの支配から御国の支配へと移されているのです。
神はこの和解の素晴らしさを知った教会や神の子たちに、和解のために働く使命をお与えになりました。
この和解の使命を果たすために、私たちは多くの力を必要とします。それゆえ、神は神の子とされる喜びを伝えるために、私たちを満ち溢れる豊かさの全てにあずからせて下さるのです。

■ヨハネ15章
私が父のもとからあなた方に遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるはずである。あなた方も、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである。
私たちが主イエス・キリストを通して、出来る限り多くの祝福と恵みを受け、それによって満たされ続けねばなりません。主イエスを通して現された神の、命の豊かさ、愛、信仰、希望、力の大きさを知らねばなりません。また喜びと平安がどれほどのものであるかを経験しなければなりません。授けて下さる知識と知恵の確かさを身にまとわねばなりません。
主イエスがかつて、ヨハネ17章で「私のものは全てあなたのもの、あなたのものは私のものです」
と言われたように、私たちも、「主イエス様、私たちの持っているものは全てあなたのもの、あなたのものは全て私たちのものとなりました」と告白できるほどに、神に所有され、また神を所有しなければなりません。
そうなれば、なるほど私たちは生ける神の栄光の全てを現した主イエスの証人となるでしょう。
「教会はキリストの体」です。その「頭」はキリストです。教会はこの世のいかなる団体とも全く異なります。それは神の救いの力を周辺にもたらせるのです。ヨハネ4章で主イエスは語られました。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い,その業を成し遂げることである」
主イエスが神を礼拝して、神から栄光を受け継ぎました。私たちも神を礼拝するなら、神の栄光を受け継ぎます。しかしイエスはここでは神の御心を行う事が私の食べ物であり、私を満たすものであると語っておられるのです。
自分の安らぎ、平安、喜びの満足のためにだけ、教会に行く温泉クリスチャンではなく、主イエスを証しするために、受けて恵みをもう一人に受け継がせるために、神の子とされる恵みを伝えるために、主イエスを証しするために、神の満ち溢れる豊かさの全てにあずかろうとする教会とクリスチャンをこそ、並外れた祝福と恵みによって満たされるのです。満ち溢れる喜びと力によって満たされるのです。
ですから、私たちは「温泉教会」「温泉クリスチャン」をかなぐり捨て、多くの人の命の繁栄のために仕えねばならないのです。そのように神の御心を行う事自体が、私たち自身の食べものとなり、並外れた繁栄を生むのです。これは従順な者に対する神の報酬でもあります。神は真実なお方ですから、働く者に恵みの報酬を下さいます。マタイ25章で主御自身が言われました。
「誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」
私たちが主イエスに対し多くの信仰と従順と愛をもって、主が愛してやまない全ての貧しい人、虐げられた人、圧迫された人の救いと繁栄の回復のために、仕えるなら、主はますます私たちを主の愛と力に満たして下さるのです。

(F)主を知ることを追い求める人
私たちの魂が、そうとは気づかないで、待ち望んできたお方があります。
そのお方について聞き、そのお方に御出会いするとき、私たちの魂ははっきりと「この方こそ私が待ち望んできたお方」と知るのです。私たちを含めて、全てのものが、このお方から生まれ、このお方の所に帰って行く。「このお方こそ私たちの平和、私たちに喜び」と叫び出だしたくなるほどのお方。私たちがこの世に生を受けた時から、それとは知らずに慕い求めてきたお方に御出会い出来たその嬉しさ、このお方をもっともっと知りたいという、その恋しさを次の御言葉は美しく語っています。
このように神の麗しく、力強い命を慕い求める人に、神は並外れた礼拝をお与えになります。

■ 詩篇 42 2節―3節
涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。

■ ホセア 6章1節―3節
さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、癒し、我々を打たれたが、傷を包んで下さる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように大地をうるおす春雨のように、我々を訪れて下さる。
詩篇42、ホセヤ6章が語る、主なる神へのこの飢え渇き、この慕い求める心が私たちの魂の奥深く(私たちの霊)にあることに私たちが気づく時、私たちは並外れた神の御臨在に御出会い、交わり、満たされて行きます。
そのために、私たちは神の満ち溢れる命の豊かさ、全能の力、驚くべき真実の愛、気高さを知らねばなりません。同時に神から離れた自分の命のなさ、力のなさ、乏しさ、それ故に犯してきた多くの罪を知らねばなりません。自分の、強い自己中心性、罪深さ、不実、存在の空しさ、寄る辺なさを知らねばなりません。この二つを知れば知るほど、私たちは神を慕い求めるのです。このような人こそ並外れた礼拝の恵みに満たされ続けます。新約聖書は次のように語っています。

(G)心の貧しい人、悲しむ人、義に飢え渇く人、心の清い人、平和を実現する人。

■マタイ5章 3節-9節 心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人のものである。
悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。

この二つの御言葉はこの世の常識に反します。この世の価値観は「貧しい人」「弱い人」「小さな人」「知恵のない人」「悲しむ人」は不幸です。私たちはそのような人になりたくない。自分の中にそのような情けないものを見つけ出したなら、私たちは自分を卑下し、隠そうとするに違いありません。
しかし、神の常識は全く違います。
天の国は貧しい人のものであり、弱くて、小さくて、知恵のないゆえに、多くの苦しみを味わい、悲しむ人のものである、と断言されるのです。これは神の態度決定であって、その決定はこの世の常識を全くひっくり返します。
私たちの神は貧しい人だからこそ、豊かな命を与えたいのです。
弱い人だからこそ、御自身の全能の力によって強めたいのです。
小さな人だからこそ、偉大な神の子、民に育て上げたいのです。
知恵の無い人だからこそ、御自身の知恵と知識を授け、それによって満たしたいのです。
それ故に、苦しみ、悩み、悲しんでいる人にこそ、途方もない神の慰め、慈しみで満たし、喜びに満たしたいのです。これは真実で公平な正しい神の態度決定です。
ですから、全世界にこの福音を伝えたパウロは、Ⅱコリント12章で、ついに次のように言いました。
「神の力は人の弱さの中でこそ、十分に発揮出来るのだ、と主は言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」
これは偉大な神の、真実の神の約束であり、摂理です。
この御言葉の前で、私たちは次のように言い切ることが出来ます。
自分が貧しいと知ったとき、私たちは豊かになる絶好のチャンスに恵まれたのです。
自分が弱くて、小さな者にすぎないと知ったとき、私たちは全能の神の民にふさわしく、強くて大きな者になる好機を手にしているのです。
自分が知恵の無い愚かな者であること、悲しい人生、苦しみ多い人生を歩んできたと知った時、正にその時、神が私たちに知恵を与え、喜びを溢れさせ、平安に満ちた人生を回復して下さる好機に恵まれているのです。
こうして信仰者Ⅰテサロニケ5章の御言葉「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです」を理解し、受ける入れる根拠を持つのです。真実の神をほめたたえます。

マタイ5章がこれ以外にも、「義に飢え乾く人」「心の清い人」「平和を実現する人」についての特別な恵みと報いについて啓示しています。
義に飢え乾く人々は幸いである、その人たちは満たされる。
心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

「義に飢え乾く人」は神の義(公平、真実、愛)を神に向かって求める人です。神はその求めに応じて御自身の義を必ずや実現なさいます。
「心の清い人」は罪を犯さない人ではなく、自分の罪深いことを知って、悲しむ人です。ますます聖なる神に向かって、「私を聖なる者にして下さい!」と叫び続けます。聖なる神がその人を全く聖なる神にするために、ますます、その人の御自身を表されます。
「平和を実現する人」は、争わず、悪意を持ちません。その人は神の平和を実現することを願い求めます。その人は天においても、地においても、神の子と呼ばれ、神に属する者と呼ばれるに違いありません。
心の貧しい人、悲しむ人だけが驚くべき恵みにあずかるのではありません。私たちはこのことを心に留めておきましょう。

キリスト者は誰でも、A-Fの人になれるように、神に願い求めるべきです。そうすれば、神の満ち溢れる豊かさの全てにあずかり、それによって満たされるようになり、並外れた繁栄に恵まれます。

第2章 「満ち溢れる豊かさの全て」とは、どのような豊かさか。


■ガラテヤ2章19節-20節 私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのは最早、私ではありません。
キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、(死ぬはずの)肉において生きているのは私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです。

これはパウロの証しです。
御言葉は主イエスを救い主と信じる信仰によって、罪の故に死んでいた人がどのように新しくされ、どのように命の繁栄を回復していくか、について証しされています。それは人の知識をはるかに超える変化が私たちの人生に起こることを物語っています。これは一人パウロの証しではありません。全ての人に共通する証しです。御言葉は語っています。
古い「私はキリスト共に十字架に付けられている」こと。
主イエスは私たちの身代わりとなって十字架に釘付けられました。私たちの罪となり、「罪を犯した者は呪われる」という律法の定めにより、私たちの呪いとなって下さいました。また、私たちの心の痛み、体の病を担って下さいました。 それで、パウロは言うのです。「私はキリストと共に十字架に付けられている」と。私たちはキリストと共に墓に葬られたのです。罪を持った私たち、罪の故に呪われた私たち、心と体に痛みと病を持っている私たちは、キリストと共に死んだのです。生きているのは最早、そのような古い私たちではない。では誰が生きているのか。
「キリストが私たちの内に生きておられるのです」
天と地を創造されたお方が、全能の救い主であるお方が、天と地における一切の権威を持っておられるお方、全地を治め、全てを治めるまことの王が、私の中に生きておられるのです。
何時ですか?
私たちが救い主を信じて、私の心にお迎えした時です。これは驚くべきことです。
人の常識をはるかに超えることです。しかし事実です。
「キリストが私の内に生きておられるのです」
なんのためにキリストは私たちに内に来られたのですか?
人は誰でも自分の心の思うように生きるからではありませんか。
神は「肉の思い」は死であり、御霊の思いに敵対していると啓示されました。古い自我の思いが私たちに死を招いてきたのです。ですから、主イエスは私たちの心の奥深くにある神の子とする「霊」の中に来られ、私たちの心を治めて下さるのです。すると、正しくされた心が正しく体を治めます。すると、私たちの存在そのものに大きな変化が起こります。
キリストは朽ちる事のない命と愛の源であり、正義と真理の源であり、信仰と希望と力の源です。
あらゆる清さと喜びと平安の源です。知識と知恵の源です。キリストは全てを所有しておられます。そのお方が私たちの霊と魂と体をとらえ、満たして、治めて下さるなら、キリストの命と愛が私たちの命と愛となり、キリストの所有しておられる全てのものが、私たちの所有となるのです。
私たちはこの地上において、キリストのようになるでしょう。キリストのように生きるでしょう。
それは私たちが新しく生まれ変わる事でもあります。それは、どのようにして私たちの日常生活の実際になるのでしょうか。御言葉は語っています。

私が今、(罪に支配されて、死ぬはずの)肉において生きているのは私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです。
そうです。信仰によるのです。ただ信仰によって肉において生きているのです。
この御言葉は単なる言葉ではありません。全能の神の、全てを成しとげる全能の力は、信仰によって私たちの内に実現なさいます。
■主イエスが私たちの内に豊かに力強く現われて、私たちを満たして下さるように、この御言葉を心で、信じて心に受け入れ、口に出して告白しましょう。
「罪深い私はキリストと共に十字架に付けられています」
「人や自分を嫌悪し、蔑み、いら立つ私はキリストと共に十字架につけられています」
「思い煩う私、恐れる私はキリストと共に十字架につけられています」
「信じない私、従わない私はキリストと共に十字架につけられています」
「生きているのは人を裁き、自分を裁く罪に支配された私ではありません」
「私は最早、このような肉の思いの奴隷ではありません」「罪の奴隷ではありません」
「主イエス様が私の中に生きておられるのです」
「栄光の命と愛の源である主イエス様が私の中に生きておられるのです」
「信仰と祈りの力そのものである主イエス様が私たちの中に生きているのです」
「全能の力を持った主イエス様が私の中に生きているのです」
「満ち溢れる豊かさの全てである主イエス様が私たちのうちに生きておられるのです」
「それ故、私は人や自分を裁いて終わりにすることなく、全てを信じ、全てを祈るのです」

このように信仰をもって、素晴らしい恵みを受ける事を期待して、告白するとき、古い自分が死んでおり、私たちの中に神の満ち溢れる豊かさの全てであるキリストが満ちておられることを知って、驚き、喜ぶでしょう。
キリストは朽ちる事のない永遠の命です。私たちは永遠に属する者です!神に属する者です!
主イエスの御名をほめたたえます!
もう一つの御言葉から学びましょう。

■エフェソ3章16節-19節
どうか御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により力をもってあなた方の内なる人を強めて、信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さいますように。
また、あなた方が全ての聖なる者と共にキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに越えるこの愛を知るようになり、そしてついには神の満ち溢れる豊かさの全てにあずかり、それによって満たされるように。

この祈りはパウロがエフェソの信徒のために祈った祈りですが、私たちにとっても非常に重要な祈りです。この通りに祈り続けましょう。
すると、私たちの「内なる人」即ち、神の子の本質である「私たちの霊」が、聖霊の力によって、きわめて強められて行きます。やがて「内なる人」である私たちの「霊」が、「肉の思い」によって支配されがちであった「心」を力強く統治するようになります。
また、キリストの並外れた愛を私たちの知性がまず理解し、やがて全人格が実際に知るようになり、ついに神の満ち溢れる豊かさの全てにあずかるようになります。
正義と愛は神の最も素晴らしい御性質ですが、それが全てではありません。神の並外れた力、熱情、信仰、希望、清さ、自由、平和、喜び、知恵、知識、忍耐など他にも多くのものがあります。その豊かさの全てに預かるようになりなさいと御言葉は語っているのです。私たちがこの祈りをするなら、並外れた恵みの人となります。ですから、この祈りは生涯、祈り続けるべき祈りです。

■エペソ4章
私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。だから、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなればなりません。
神の子に対する信仰があり、その信仰を支える知識があります。
「神の子とはどのようなお方だ」と私たちは思っているのですか?これは重要な問いです。なぜなら、私たちは自分が知り、思っている神の子を信じるからです。私たちがどのように思っていようと、聖書の全体が次のように「神の子」を啓示しています。
①主イエスは全てのものを創造された栄光の神の御子です。
②全ての事を成しとげる事ができる栄光の神の御子です。
③天地における一切を統治する権威を持っておられる神の御子です。
④満ち溢れる豊かな、永遠の命の源である栄光の神の御子です。
⑤主イエスは私たちを死ぬほど愛し、私たちの命の繁栄を心底願っておられる栄光の神の御子です。
⑥主イエスは真実と公平と正義の源である栄光の神の御子です。
⑦主イエスは信仰、従順、希望、喜び、知恵、知識の源である栄光の神の御子です。
その愛、真実、公平、正義、真理は決して変わることがない栄光の神の御子です。
主イエスは人となられた生ける神そのものです。主イエスは生ける神の、目に見える形でした。
主イエスは神と完全に一つでした。いつも神の内にいて、神に包まれておられました。
しかし、私たちはこの栄光の神の御子に対する知識で、十分に一致していません。
主イエスはあなたにとって、どのようなお方ですか?
そのように聞けば、十人十色の答えが返ってきます。私たちは主イエスのほんの一部だけを知っているのです。もし、私たちが主イエスを知る知識において一つになろうとするなら、どうすればいいのか。
方法は一つしかありません。ヨハネ15章で主イエス様御自身が語っておられます。「私が父のもとからあなた方に遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しなさる」
真理の霊とは、御父が送って下さる御父の霊=聖霊様です。聖霊様は主イエス様の全てを御存知です。
聖霊様は主イエスの全てを私たちに啓示されます。ですから、私たちは本気になって聖霊様が主イエス様を御言葉を通して、また、御自身の啓示の力を通して、私たちに現して下さるように祈ればいいのです。
そのためには私たちの中に「自分の背丈に合わせて、主イエス様を小さく見積もる」性質があることをよく知り、主イエスに対する人間の経験から生まれた知識と観念をかなぐり捨てねばなりません。これが鉄則です。自分の常識が受け入れることの出来る御言葉は信じるけれども、自分の常識に反する御言葉は受け入れることは出来ない、という態度を捨てるのです。
そうでなければ、私たちは自分の常識によって神と主イエスを小さな、つまらないお方にしてしまいます。私たちは信じた通りの神と主イエスに御出会いします。私たちが神と主イエスの全てを知れば知るほど、私たちは成熟した神の民となり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまでに成長します。
しかしそれ以外にも必要な事があります。御言葉はそのことを次のように語っています。
それは「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てる」ことです。なぜなら、私たちの罪が死の覆いとなって、私たちの心や知性を覆うからです。また私たちの罪を足場にして反キリストが私たちの顔(目や耳)を覆うからです。すると、私たちは主イエスを認識出来ません。その語る御言葉を認識できないからです。
同時に、「神にかたどった新しい人を身につける」ことです。「真理の言葉に基づいた正しい生活を送る」ことです。その度合いに応じて、主イエスを知る啓示を受け、又、その豊かさに満たされるのです。大切な事は、あらゆる罪を告白し続ける事です。十字架に釘づけ続ける事です。これは教会が生涯をかけてすべきことです。そうすれば、私たちは次第に、主イエスを知る知識において、聖霊様と一致し、成熟し、キリストの満ち溢れた様にまで、成長して行くに違いありません。
罪を告白し、悔い改める事を情けない事のように考えるキリスト者が時々いますが、見当違いもはなはだしいことです。私たちは生涯に渡ってこのことをなし続けねばなりません。
そうすれば、素晴らしい主の栄光に輝く教会が世界中に現れるでしょう。全ての教会が主イエスの御業を行う力ある教会になるでしょう。今日、多くの教会が世俗化し、形式化し、神の力を失い、人を神の愛で満たしたり、病気一つ治したり出来ないのは、「主を知る知識」を本気で求めていないからではありませんか。主イエス様はヨハネ17章で言われました。
「永遠の命とは唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」
主イエスを知り、神を知らなければ、永遠の命はないです。その命は私たちが神と主イエス様を知る度合いに応じて、与えられるのです。ですから、私たちの顔を覆い、心を覆う罪の覆いを取り除き続けていただかねばなりません。顔を覆われ、心を覆われていては、何一つ見ることも、聞くことも、悟ることも出来ないではありませんか。罪は神を知ることを妨害する力なのです。しかし、取り除かれていくなら、聖霊様が御言葉を通して、また、御自身の啓示の力を通して、私たちに主イエスの栄光を輝かせて下さいます。
■ヨハネ14章12節―13節
はっきり言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。
私が父のもとへ行くからである。私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。


「私を信じる者」とは、先ほど明らかにされたように、主を信じる者のことです。
その人は、主が行う業を行います。主はどのような業を行われたのか、四つの福音書と使徒の働きに、はっきりと書かれています。
キリスト者はキリストが行う事を行う。これは驚くべき約束です。しかし、主イエスの立場から見るならば、これは当然のことではありませんか。私たちは神の子であり、また、教会はキリストの体であって、頭はキリストですから、体である私たちが頭が行ないたい望む業を行うのは当然であると言えませんか。ですから、これはキリスト者の、教会の特権的使命なのです。
「私の名によって願うことは、何でもかなえて上げよう」「私の名によって何かを願うならば、私がかなえて上げよう」と言う約束の言葉を、信じるなら、この通りになります。

■ローマ 5章17節
神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
私たちは信仰による祈りを通して、多くの「恵み」に満たされ「義の賜物」を受けましょう。
日常生活を肉の思い(肉の判断、肉の力)によって生きるのではなく、「一人のキリストを通して生きる」ことに努めましょう。すると、私たちは「キリストを通して」全てを治めるのです。
人間的な力、人間の属する知恵と知識によって治めるのではありません。それは政治です。私たちは「一人のキリストを通して」、キリストの力によって、キリストと共に治めるのです。
これこそ、キリスト者がこの世に置かれている最も大切な意味です。これこそ全ての人の生きる意味であり、生きがいでもあります。神は教会を通して、一人一人のキリスト者を通して、キリストの行う御業を行い、全地を御自身の正義と愛、公平と真実によって治めて下さるのです。それは創世記の時代から、神によって定められている不変の摂理です。
私たちはキリストによって自分を治め、家族を治め、職場を治め、地域を治め、国を治め、世界を治めるのです。(それはキリスト者が政治家になって、政治権力を持つという意味ではありません。神の御支配は霊的な支配ですから)そのために、どれほど多くの霊の力、賜物が必要かを神は御存知です。
次の通りです。

■Ⅰコリント12章 7節-10節
一人一人に"霊"の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
ある人には"霊"によって知恵の言葉、ある人には同じ"霊"によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ"霊"によって信仰、ある人にはこの唯一の"霊"によって病気を癒す力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。

ここに出てくる義の賜物、御霊の働きの現われも、また、「神の満ち溢れる豊かさの全て」です。
「知恵の言葉」「知識の言葉」とは神の知恵と神の知識が私たちに与えられることです。
私たちの目は自分が何者であるかさえ、よく分かっていないほど、見えませんが、全能の神は「全知」の神でもあります。知恵とは最も重要なことを見抜く力です。知識とは最も重要な事を知る力です。この力を受けたなら、私たちは初対面の人でも、その人の必要としているものを正しく、知ることが出来るようになります。
また私たちを通して聖霊様が、「多くの病気を癒し」「神にしか出来ない事をなしとげる」なら、またその人に対する神の御心を預言して語るなら、またその人を支配している悪い霊を見極め、その霊から人を解放するなら、多くの人は全能の神を知るでしょう。
ですから、聖霊の働きが私たちを通して現われる事は、宣教においても、キリスト者を正しく導く点においても不可欠です。
神は求める者にその力を喜んでお与えになります。神は私たちが人間的な知恵や力で何かが出来るとは思っておられないだけでなく、望んでもおられません。Ⅱペテロ1章に書いてあります。ですから、熱心に執拗に祈り、求めましょう。また、互いのためにこの賜物が与えられるように、祈りあいましょう。
「主イエスは御自身の持つ神の力によって、命と信心とにかかわる全てのものを私たちに与えて下さいました。それは、私たちを御自身の栄光と力ある業とで召しだして下さった方を認識させることによるのです」






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