神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

06.真の礼拝への道・霊と真理のよる



第1章 礼拝とは何か。

(A)旧約の礼拝について。
旧約は影(予表)であり、新約は実態です。旧約は現実的、戒律的であり、新約は霊的であり、恵みです。旧約を経て新約が生まれたのであり、新約は時が満ちて、旧約が結んだ実です。旧約では安息日が金曜日の日没から土曜日の日没までと制定されていました。その日は仕事を休んで、安息し、神様を礼拝する日でした。旧約の人々は、彼らの神殿で、会堂で、家族で礼拝しました。彼らは安息日を尊び、礼拝を尊びました。二つのことは一つの事でした。
新約の人々には特別な安息の日はありません。主イエス様が永遠の平和(安息)を私たちに残されたからです。新約の人にとって、毎日が安息の日であるべきです。私たちは一年中、「自力の業」を休んで、主の平和(安息)に入るように聖霊によって招かれています。私たちの平和(安息)を通して主の救いの業が現われるためです。旧約の安息日は、いつも神様が内にいて下さるという新約が実現した「永遠の平和(憩い・安息)」の影だったのです。
新約の人々は金曜の朝、十字架に上がり、日曜日の朝、復活して下さった主イエス様を記念して、日曜日を「主の日」と次第に定めるようになり、「主日礼拝」を守るようになりました。現在、日曜出勤の人々が増えましたので、日曜礼拝に加えて、水曜礼拝とか、土曜礼拝が行われていますが、中心は伝統的に日曜礼拝です。安息について、旧約聖書から学びましょう。
それはそのまま、「礼拝とは何か」を学ぶことになります。

イザヤ58章13節-14節
安息日に歩き回ることをやめ、私の聖なる日にしたいことをするのをやめ、安息日を喜ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、その時、あなたは主を喜びとする。

安息の日は神様を礼拝する日です。礼拝とは神様が神の民と交わる事によって、安息を与える日でもあります。
神様は私たちの命の源です。祝福の源です。私たちの人生の繁栄の源です。この方をおいて、人間の命はなく、繁栄はありません。
神は安息日の礼拝を通して、御自身の民に出会われ、御言葉によって御自身の民を養い、命の道、繁栄の道へとお導きになるのです。旧約の民がこのことを知り、ありがたいと思い、安息の日を心から尊び、神様を礼拝するなら、民は神を「命の神」「喜びの神」に御出会いし、その神を誇るのです。
しかし、人の心は悟りがなく、かたくなである事を神は御存知で、民が安息日を尊ばない事を知っておられて、先回りして警告しておられるのです。
旧約では、礼拝の仕方・形式が厳密に定められていました。それは礼拝する神殿の形を見てもよく分ります。新約では形より、礼拝者の心のあり方が問われています。しかし、新約聖書の全体が礼拝とは何かを明らかに語っています。それらの御言葉の啓示に加えて、私たちが日常の礼拝で受けている恵みから、次のように言う事ができます。

(B)新約の礼拝とは。
1.礼拝とは神様を賛美して、神様に御出会いし、心の安息、命の繁栄を受ける場所です。
2.礼拝とは神様の前に罪を告白し、赦しと清めを受け取る場所です。
3.礼拝とは聖霊の光に照らされて、御言葉を拝読し、信じ、心に受け入れる場所です。
4.礼拝とは私たちが自分自身を主に捧げ、お任せし、主の御臨在に包まれ、満たされる場所です。
5.礼拝とは、その結果、神様の所有しておられるものが礼拝者の所有となる場所です。
6.礼拝とは神様と交わり、神の子が成熟して、神の似姿にまで造り返られるようにあらゆる願いと祈りを捧げる場所です。また、あらゆる問題の解決のために、主イエスの御名によって祈る場所です。
7.礼拝とは、多くの人のためにとりなし祈ることを通して働く神様の力によって、全てを正しく治める場所です。


私たちはこの礼拝のどの段階が実現しているでしょうか。
実現していない部分が実現するように心を尽くして礼拝しましょう。
また、教会での礼拝だけでなく、朝ごとに、御自宅での「個人の礼拝」の時を必ず持ちましょう。
そのためには自分の礼拝の時間をはっきりと定め、それを全てに優先して守りましょう。
そうすると、生活する心が変わります。私たちは誠実になり、正しくなり、慈しみ深くなります。
力と喜び、信仰と希望に満ちていきます。私たちが祝福された日々を送るだけでなく、自分以外の全ての人を祝福し、その祝福(とりなし)の祈りによって、神がその心や体を癒し、平和、繁栄をもたらせ祝福して下さるのを経験するようにもなります。


第2章 礼拝の秘訣を知り、実際に礼拝を始めましょう。

次に礼拝の秘訣を明らかにしていきます。このことをよく理解し、実行するなら、私たちは真の礼拝、真の神様との交わりを経験します。
A)礼拝の基本――――私を仰ぎ見て、礼拝せよ。

イザヤ45章21節―22節
私をおいて神はない。正しい神、救いを与える神は私の他にない。
地の果ての全ての人々よ、私を仰いで救いを得よ。


この御言葉は礼拝を始めるに当たってもっとも重要な事を啓示しています。
それは「神を仰ぎ見る」ことです。礼拝の初めから終わりまで、「主を仰ぎ見る」ことです。
主をまっすぐに仰ぎ見る事です。主は肉眼で見えませんが、私たちが見上げる所どこにでもおられます。その主に向かって、心も体も向ける事です。これが一番大切なことです。このことを礼拝中いつも心に留めて下さい。
「主よ、私は今、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、救いの神を礼拝します。命の源である神をほめたたえます」と言わねばなりません。
神様は「地の果てにいる全ての人々」に語っておられます。「地の果ての人々」とは、神様を全く知らない人のことです。神は言われました。「私を仰いで、救いを得よ」と。言い換えるなら――――
「あなたが私を仰ぎ見るなら、あなたは私の救いを得る」 
「あなたが私を仰ぎ見るなら、私があなたを救おう」と語っているのです。
私たちが全能の神、命の源なる神を仰ぎ見る。すると神は私たちに救いを与えるのです。
それまで、神を全く知ろうとしなかった人であっても、ただ、神を仰ぎ見たなら、神はその人を救うと言っておられるのです。こうして私たちの神が全人類の神であることが分かります。
「私はこの御言葉を信じます」「御言葉を心に受け入れます」と告白しましょう。
「心に受け入れたこの御言葉が私の心の力となりますように」と祈りましょう。

救いとは何でしょうか。
それは神が私たちの罪を赦し、「死から命へ」「滅びから繁栄へ」「暗闇から光へ」と移し変えて下さることです。そのために、主イエスを通して神が私たちの中に宿り、私たちを神の内に引き寄せ、神と私たちが一つになることです。
こうして神が私たちの神となり、私たちが神の民となることです。
神を全く知らなかった人であっても、このような救いを受ける事が出来るのなら、キリスト者が「主を仰ぎ見る」なら、どれほど素晴らしい救いを受けることでしょう。
「主を仰ぎ見る」という行いは、正に私たちに最も豊かな礼拝を与える神の方法です。
礼拝は「主を賛美する」「罪を告白する」「赦しを受け取る」「罪の汚れからの清められる」「御言葉につながる」「祈りと願いを捧げる」「主の御臨在に覆われ、満たされる」「多くの人のためにとりなし祈る」という信仰者の行いの全てを含んでいます。
その全てをただ「主を仰ぎ見て」「ただ主だけに向かって」捧げるのです。私たちは口に出して言わねばなりません。
「アバ父よ、私は心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたを礼拝します」
「アバ父よ、私はあなたを仰ぎ見て、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたに賛美を捧げます。この賛美をお受けとり下さい」
「アバ父よ、私はあなたを仰ぎ見て、自分の罪を告白します。私の罪を赦して下さい」
「アバ父よ、私はあなたを仰ぎ見て、お願いします。私を罪の汚れから清めて、雪よりも白くして下さい」
「アバ父よ、私はあなたを仰ぎ見て、お願いします。今から拝読する全ての御言葉を私の闇を照らす光として下さい。私の心の命、力として下さい」
「アバ父よ、私はあなたを仰ぎ見て、お願いします。栄光の御臨在を私の上に、また内に現して下さい。
「アバ父よ、私はあなたを仰ぎ見て、御言葉に従い、祈りと願いを捧げます。この祈りに答えて下さい」
「アバ父よ、私はあなたを仰ぎ見て、多く人のためにとりなし祈ります。あなたの真実、公平、正義、慈しみと恵みの御業がなされますように」
すると、神は聖霊の力によって、私たちの礼拝の全工程を導き始められます。
ことあるたびに、「主を仰ぎ見て」「主に向かって」と口に出して告白しながら、礼拝を捧げるのです。なぜなら、私たちの精神は移ろいやすく、散漫になりやすいのです。特に初期の段階では、様々な雑念が浮かんできて、礼拝に集中でにくいのです。しかし、この告白が、私たちの心を主に向けさせ、集中させるのです。私たちが主を仰ぎ見続けるなら、主も私たちを見つめ続けて下さいます。私たちはこのことを通して主につながるのです。これが礼拝の基本の秘訣です。

B)-1全能の神、私たちを養って下さる神をほめたたえて礼拝する。
詩篇47 6節
神は民の歓呼(賛美)の中を上られる。歌え、神に向かって歌え。
神は、全地の王、ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。


神は全てのものを正しく治めるために、民の歓呼(賛美)の中を上ってこられる。
礼拝を妨害する悪魔の働きを滅ぼしつくし、私たちの命の繁栄の回復のために上ってこられ、その王座につかれるのです。私たちは受ける前から、受けるべきあらゆる祝福を信仰の目で見、神をほめたたえるのです。すると、全能の神は御自身の御臨在を私たちに現わして下さいます。
私たちは神の御臨在をはっきりと感じるでしょう。

詩篇100 3節
私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。
感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入れ。
感謝を捧げ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は世々に及ぶ。

神は私たちの神です。私たちは神の民です。神は私たちの父であり、私たちは神の子です。神は私たちの羊飼いであり、私たちはその群れです。私たちは最早、単なる人間ではありません。神の民であり、神の子であり、神の羊の群れなのです。神が私たちと共にいて、私たちを養い、導かれます、平和と繁栄の道へ。
神は変わらぬ真実をもって私たちの礼拝を受け取って下さいます。神はあらゆる罪の汚れから私たちを清め、御自身の聖なる御言葉と聖なる命(御霊)によって私たちを満たし、養って下さいます。
ですから、私たちはまず、感謝の歌を歌って「主の門に進み」、「賛美の歌を歌って主の庭に入る」のです。
旧約の時代、神殿の庭には清めの水の入った大きな「洗盤」があり、罪を焼き尽くす「祭壇」がありました。罪を犯した人は神との親しい、豊かな交わりの場である「聖所」の手前で、自分の罪を告白し、赦しと清めを受け取り、神と交わるにふさわしい聖なる者にしていただいたのです。
特段の罪を犯していない人でも、多くの人の罪のゆえに「汚された大地」の汚れを受けています。
「あなた方が犯した律法の違反の故に、土地は汚されている」と言われているからです。
ですから、罪の赦し、罪の汚れからの清めが必要なのです。聖なる神と交わるために、一つとされるために、聖なる者とされることが必要なのです。
私たちは神殿の大庭で、罪を赦し、罪の汚れを清め、神と交わり、新しい命で満たして下さる神に向かって、感謝と賛美の歌を歌って礼拝を始めるのです。神に向かって、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして救いの神に賛美を捧げましょう。

B)―2罪を告白して、罪の汚れから清められて礼拝する。

①私たちが罪を犯したことを知っているなら、自分の罪を具体的に、何一つ隠すことなく、神に向かって告白しなければいけません。それは礼拝の始まりに、真っ先になされるべきことです。なぜなら、神は次のように言っておられるからです。
イザヤ59章1節
主の御手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのではない。
むしろお前たちの悪が神とお前たちの間をへだて、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けるのを妨げているのだ。

罪を告白するとき、私たちにとって一番大切なことは、主イエスは「罪人を救うために来られた」こと、「悪魔の働きを滅ぼすために来られた」こと。この恵みの事実を知っていることです。
主イエスは、罪のゆえに苦しんでいる私たちを更に、責めるために来られたのではありません。私たちの罪を赦し、罪の汚れから私たちを清め、罪の苦しみから私たちを解き放ち、平和と自由と慰めを与えるために来られたのです。ですから、安心して、全ての罪をあるがままに告白しなければなりません。
罪に苦しめられている私たちに対して慈愛深い主イエスですが、罪そのものについては、「忌むべきもの」「憎むべきもの」「滅ぼし尽くすべきもの」「焼き尽くすべきもの」と語っておられます。ですから、神の子である私たちも、全ての罪を「忌むべきもの」「滅ぼしつくすべきもの」「焼き尽くすべきものと見なします」と言わねばなりません。そのように言えば言うほど、神は私たちの罪の汚れを深く清め、私たちを新しい霊の命によって満たして下さいます。

②次に大切なことは、罪の赦し、罪の汚れからの清め、新しい祝福を実際に受け取ることです。
罪を罪として告白した神の子たちに対して神は語っておられます。
歴代誌・下7章13節
もし私の名をもって呼ばれている私の民が、ひざまずいて祈り,私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。今後この所でささげられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでもとどめる。私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。

キリスト者の中にも「また罪を告白するのかぁ・・」「また悔い改めるのかぁ・・」と嘆く人がいます。
その人は罪の告白がどれほど、素晴らしい神の喜びであるかを分かっていないのです。この御言葉は、それを余す所なく証ししています。
罪を告白して、神に立ち返ることは、私たちにとっては、それ自体がすばらしい祝福です。
私たちの祈りは何でも聞かれるようになります。神は私たちと共にいつもおられます。
神は私たちを強く愛し、いつも心を寄せて下さいます。
この目覚しい祝福の約束、御言葉を、この通りなぞり「感謝します」と私たちは言うべきです。
その時、私たちは神の赦しを実際に受け取ることでしょう。そのために、歴代誌下7章を心で信じ、次のように告白しましょう。
主なる神様、告白した全ての罪を、私はあなたと同じように、恥ずべきもの、忌むべきもの、滅ぼしつくすべきもの、焼き尽くすべきものと見なします。
どうか、私の罪を赦し、この罪の汚れからも私を清めて聖なる者とし、改めて私を祝福して下さい。
私はひざまずいて祈り、悪の道を捨ててあなたに立ち返えります。
あなたは私の祈りに、天から耳を傾け、罪を赦し、私の汚れと大地の汚れを癒して下さいます。
今後この所でささげる私の祈りにあなたの目を向け、耳を傾けて下さいます。
あなたは聖霊の宿る私という神殿を選んで聖別し、そこにあなたの名をいつまでもとどめて下さいます。あなたは絶えずこの私に目を向け、心を寄せて下さいます。
何という真実の神様!何という恵み深い神様!あなたは悔いる心を侮られません。
喜んで向けいれて下さいます。私を赦し、私を罪から救い出して下さる神!
偉大なあなたの御名をほめたたえます。主イエスの御名によって、アーメン。

B)―3 偶像礼拝を含むあらゆる罪による土地(地域)の汚れ、その覆いから清められて礼拝する。
レビ記18章25節
あなたがこれから向かう土地の住民は、これらのいとうべきことをしたため、その土地は汚されている。あなた達もその土地を汚すならば、先住民を吐き出したのと同じように、土地があなた達を吐き出すであろう。


ここでは人が罪を犯すと、その人が罪によって汚されるだけでなく、人が住む土地も汚されることが啓示されています。罪によって汚された土地に住民は安住できません。汚れた土地が住民を吐き出すのです。これは重要な掲示です。
このような「罪の汚れ」とは一体、何でしょうか。
ローマ5章
一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は全ての人に及んだのです。全ての人が罪を犯したからです。 「一人の人」とは最初の人、アダムのことです。
アダムは悪の源であるサタンの言い分をイブと共に受け入れました。そのことによって、エデンの園である世に、合法的な(?)な支配者として罪が入りました。その時、入ったのは罪だけでなく、「罪によって死が入った」と御言葉は語っています。そして「死は全ての人に及んだ。全ての人が罪を犯したから」と語られています。エゼキエル3章では「悪人は自分の罪の故に死ぬ」。7章では「罪のゆえに誰一人、命を保つ事は出来ない」と啓示されています。
罪の結ぶ実は死です。罪のある所にいつも死があります。死がある所にはいつも罪があります。
罪と死は神の表裏のようなものです。罪と死の源はサタンです。ですから、サタン=罪=死です。
「罪の汚れ」とは「死の汚れ」であり、サタンの、汚れた霊どもの死の汚れです。イザヤ25章はこの死の汚れについて、神がどのような態度を取られるのかが、啓示されています。
イザヤ25章6節
万軍の主はこの山で祝宴を開き、全ての民によい肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富むよい肉とえり抜きの酒。
主はこの山で、全ての民の顔を包んでいた布と全ての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は全ての顔から涙を拭い、ご自分の民の恥を地上から拭い去って下さる。
その日には人は言う。見よ、この方こそ私の神。私たちは待ち望んでいた。
この方が私たちを救って下さる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び踊ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。

神はある時、御自身の民と祝宴を開くことを定められました。祝宴とは神との交わりです。
神は交わりの中で、よい肉(神の生きた御言葉)と古い酒(聖霊)を与えられます。そのために神がまずなさることは、民の顔を覆っている布と国(土地)を覆っている布をまず、滅ぼされるのです。
「布」とは何でしょうか。「死を永久に滅ぼして下さる」と神が言い換えてとき、「布」とは「死の布」である事が明らかになります。「死の布」とは罪の布であり、罪の汚れの布であり、死の汚れの布である事は明らかです。
神は御自身の民と交わるために、民の顔と民の土地を覆っているこの罪の汚れ=死の汚れを滅ぼされるのです。それから、神は民と御出会いになり、御自分の民の恥を拭い去り、彼らを清め、癒して下さるのです。
すると民は救いの神を認識し「見よ、この方こそ私の神。この方が私たちを救って下さる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主」と歓喜するのです。
今日、礼拝者が特段に罪を犯していなくても、土地(地域)を覆っている罪の汚れ=死の汚れに顔と心を覆われて、礼拝が非常に困難になる時があります。この罪と死の汚れは礼拝者を覆い、礼拝を強く妨げるのです。
礼拝者は顔や心を死の汚れによって覆われている故に、礼拝が出来ないのです。主を仰ぎ見て礼拝する事が難しくなり、主に向かって心から賛美を捧げる事が難しくなり、御言葉を神の言葉としてりかいすることもむずかしくなり、祈りと願いを捧げるのも難しくなります。また神を認識すること、信じることも難しくなります。これが死の覆いの働きです。これは明らかに反キリスト礼拝、反キリストの働きではありませんか。
パウロはこの問題の解決について、次のように言っています。

Ⅱコリント3章
今日に至るまでモーセの書が読まれる時(礼拝する時)は、いつでも彼らの心には覆いがかかっています。しかし主の方に向き直れば覆いは取り除かれます。ここで言う主とは、霊のことですが、主の霊のおられる所には自由があります。栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられて行きます。これは主の霊の働きによることです。

この御言葉を信じて実践しましょう。
「顔の覆い」も「心の覆い」も同じ覆いです。この覆いの故に、礼拝者は礼拝出来ません。
どうすればいいのか?
私たちは栄光の神である「主の方に向き直れば」いいのです。そうすれば、主が覆いを取り除いて下さるのです。「主の霊のおられる所には自由がある」それは驚くべき自由です。栄光の輝く主がおられる所に汚れた霊も罪も死も共にいる事は出来ません。彼らは栄光の主の御臨在そのものに耐えられないのです。礼拝を始めようとした私たちの故に、イザヤ4章の通り、「主は必ず裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血(命)をその中からすすぎ清めて下さる」のです。
「裁きの霊」と「焼き尽くす霊」によって、反礼拝、反キリストの働きを滅ぼし、私たちの命をその汚の中から洗い清めて下さるからです。
つまり私たちの顔や心に覆いがかかり、礼拝が困難になったのは、私たちが主の方に向き直っていなかったからであり、イザヤ45章のように、主を仰ぎ見ていなかったためであることが分かります。
ですから、私たちが礼拝を回復するために、改めてきちんと、心をただし、体をただして、主を仰ぎ見直し、主の方に向き直らねばなりません。
Ⅱコリント3章:「主の方に向き直れば、覆いは取り除かれる」「主の霊がおられる所には自由がある」
イザヤ45章:「全ての民よ、私を仰ぎ見て救いを得よ」救いとは「永遠の命」のことです。
私たちが主の方に向きを返るなら、主を仰ぎ見るなら、自由があり、命があるのは本当です。
主御自身が主の方に向き直り、仰ぎ見る私たちに、自由を与え、命を与えて下さるのです。全て罪の覆い、死の覆い、サタンの覆いを取り除いてです。これは真実です。
問題は、「主の方に向き直る事」「主を仰ぎ見る事」は口で言うほど、簡単ではありません。
そうするために、私たちに明確な決断が必要です。強い意思の力が必要です。
私たちはやはり、2章の「礼拝の原則」に戻り、「心を尽くし、精神を尽くして、思いを尽くして」
「主なる神を仰ぎ見て礼拝する」とはっきりと告白し直さなければなりません。私たちがそうするとき、聖霊様が私たちをそのように助けて下さるのです。

■ですから、祈りましょう。
アバ父よ、私の顔と心には覆いがかかっています。それは地域の偶像礼拝を初め、地域の罪から来る死の覆いです。それで礼拝が出来ません。それゆえ、私は改めて、全身全霊をもって、礼拝し直します。
あなたの方に向きを変えたなら、あらゆる死の覆いを取り除いて下さるあなたを賛美します!
礼拝する自由を与えて下さるあなたをほめたたえます!
あなたを仰ぎ見たなら、救いを与えて下さるあなたを賛美します!
命を与えて下さるあなたをほめたたえます!救いの神を賛美します!
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたを賛美します!
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたをほめたたえます!
あなたは「裁きの霊」と「焼き尽くす霊」によって、礼拝を妨害する全ての顔と心の覆いを取り除いて下さいます!全ての反キリストの覆いを処断して下さいます!
あなたは礼拝を妨害する者を捨てて置かれません。焼き尽くす霊によって、汚れた霊ども、罪と死の覆いを滅ぼし尽くして下さいます!
そして、私の命をあらゆる汚れから洗い清めて下さいます。ハレルヤ!
ハレルヤ!私はあなたの御臨在に包まれて、栄光に照らされて、命から命へ、自由から自由へ、力から力へ、主イエスと同じ姿に造り変えられていきます。これは御霊の働きによるのです。
ハレルヤ!地域の罪の覆い、偶像の覆いは最早、私の礼拝を覆う事は出来ません。
処断されます。ハレルヤ!


(C)「霊と真理」を持って礼拝します。
ヨハネ4章23節-24節
真の礼拝をする者たちが霊と真理をもって、父を礼拝する時が来る
。 今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。

ここには「真(まこと)の礼拝」のための道が明確に指示されています。それは何でしょう。
①まず「霊をもった礼拝」です。
旧約の人は「霊を持った礼拝」が与えられていませんでした。彼らは自分の力で礼拝していました。自分の力で罪を告白し、自分の力で御言葉を理解し、自分の力で神を賛美し、自分の力で祈っていたのです。しかし、主イエス・キリストが来て下さり、人間の力ではなく、聖霊の力によって礼拝する時代が始まったのです。
礼拝だけでなく、日常生活を人間の力ではなく、聖霊によって生きる時代が切り開かれたのです。
その聖霊の時代は使徒2章から始まりました。それまで、聖霊は預言者、王など、神から特別に選ばれた人にだけに注がれました。しかし使徒2章以降、聖霊が信じる者、全てを包み、満たし、導かれる時代が来たのです。これは世界史、人類史における革命的な変化です。
礼拝においても、信仰者は聖霊に導かれて罪を悟り、告白し、赦しと清めを受け取るのです。
人間の知的な力ではなく、聖霊に導かれて御言葉を理解し、聖霊によって御言葉の力を心に宿すのです。聖霊に導かれて、神を賛美し、神に向かって祈り、神と交わり、更に聖霊に満たされて行くのです。そして、聖霊によって神の似姿を造り出されて行くのです。

○○○

この新しく始まった聖霊の時代の中で、「霊」とは何か。「真理」とは何か。
詳しく見ていきましょう。
「霊」とは私たちが主イエスを救い主として受け入れたときに、新生(復活)した霊です。復活したと言うのですから、全ての人の霊は死んでいたのです。
創世記の初めに、アダムとエバが「善悪の知識の実」を採って食べました。そのために「食べると必ず死ぬ」と言われていた通り、二人に死が入りましたが、二人の体がすぐ死んだのではありません。しかし神の似姿に造るために、神が二人に分与した「霊」は、直ちに死んでしまったのです。悪魔の言い分を受け入れ、自分たちが神のようになろうと、罪を犯した二人の人格は無残な、堕落した姿に変わり果てしまいました。それはセミナー(1)で学んだ通りです。二人はまず、霊的に死に、やがてその体も死んだのです。
私たちが主イエスを知って、「救い主」として受け入れたとき、死んでいた神の子の霊が、新しく生まれ変わったのです。私たちは「新生」し、「復活した」のです。それは神がイエスをキリストと信じた私たちに新しい霊を注ぎ入れられたのです。
この霊こそ神の子の命であり、神の似姿であり、神の子の本質です。また洗礼によって、主イエスが私たちの心の一番奥深い所、即ち=私たちの霊の中に宿って下さいました。主イエスと私たちの霊とを融合して一つの霊として下さいました。神の言葉は次のように語っています。

ローマ 8章15節
あなた方は、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。
この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証しして下さいます。


「霊と真理によって礼拝せよ」と命じられている「霊」とは、主イエスの霊と私たちの霊が融合して、一つになった「霊」のことです。
まことの礼拝、即ち、神が私たちを全く捉えて下さり、全く一つになって下さるような「真の礼拝」はこの「霊」によって礼拝する時、与えられるのです。ですから、礼拝者は人間的な力や判断や熱心によって礼拝するように命じられていません。それでは真の礼拝へと礼拝者を導かれることはありません。それは真の礼拝の妨害になるだけです。
私たちは長い年月、自分を「主人」とし、自分の力に頼って生きてきましたから、礼拝も自分の力、熱心、自分の真実によって、礼拝しようとするのですが、神はそのような礼拝を退けられます。
「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と。
これは非常に重要な事であり、心に刻み、実行して下さい。

②次に「真理によった礼拝」とは何でしょう。
「真理」とは神の言葉です。私たちは神の言葉を携えて、神の言葉の光に照らされ、導かれて、神の言葉の力に支えられて礼拝するのです。どのような素晴らしい自分の礼拝の言葉を持っていても、その言葉によって私たちは真の礼拝に達する事はできません。
なぜでしょう?
イエスをキリストと信じて、確かに私たちは罪と死から救われました。神から新しい霊を頂き、新生しました。しかし新しく与えられたのは「霊」です。全てが一度に新しくなったのではありません。
私たちの古い体、魂(知情意)は残っているのです。それは罪によって堕落した、命を失った体であり、魂です。新生した「霊」が私たちの体、又私たちの信仰と従順が完全になることを通して実現し始めます。
それまでは私たちの体と魂に対する罪の支配は衰弱していきますが、残り続けるのです。神の言葉と聖霊の働きによって、非常に弱まっていきますが、完全に消えるわけではないのです。
ですから、私たちの古い体、古い魂から湧き出る全ての思いと言葉は罪の支配を受けているのです。
御言葉が「肉の思いは死であり、神の思い敵対しています」と啓示された通りです。「肉の思い」から生まれる人間の言葉は神を礼拝出来ないのです。神と交わる事は出来ないのです。
ですから、朝ごとの礼拝に際して、罪に死んでいる私たちの心の命となり、力となる御言葉を必要に応じて用意しなければなりません。
礼拝の始まりの所で罪を告白し、赦しを受け取り、また、罪の汚れから清められた私たち、また地域の罪の汚れから清められた私たちは、聖霊の助けの中で、御言葉を拝読し、「信じます」と告白し、「心に受け入れます」と、言いながら、御言葉を拝読していかねばなりません。そうすると一つ二つの三つの御言葉が心の力となって迫ってきます。私たちは御言葉の力に満たされます。それが礼拝の動力なのです。
ですから、心の力となり、命となった御言葉に従い、祈りと願いを捧げ、神と交わり、更に聖霊の力を受け、導かれて神を礼拝し、交わるのです。

■では、私たちはどのように「霊と真理をもって」礼拝するのか。
私たちは礼拝を支えてくれるに違いない、一つ、二つの御言葉をあらかじめ用意しましょう。
今日は次の御言葉を心に受け入れ、神の真実の心を知って、この神を驚き仰ぎ見て、神を礼拝しましょう。
詩篇22:25節
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いて下さいます。それゆえ、私は大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも、健やかな命が与えられますように。
■礼拝の祈りを祈りましょう。
神様、あなたは貧しい私の貧しい故の苦しみを侮られません。弱い私の弱い故の苦しみを蔑すまれません。愚かで、罪深い故の、私の苦しみを侮る事もなさいません。
あなたを心からほめたたえます。
あなたは本当に真実な神様です。あなたのようなお方は他にありません。
神様、あなたから離れた私は、本当に貧しくて、弱いです。愚かで、罪深いです。
それ故にこそ、私はあなたを仰ぎ見て礼拝します。神様、私はもっと豊かになりたいです。
もっと強くなりたいです。もっと賢く、知恵ある者になりたいです。
もっともっと罪の力から自由にされたいです。もっともっとあなたに似た聖なる者になりたいです。
この私の願いを満たして下さい。
貧しいからこそ、あなたの満ち溢れる豊かな命によって私を満たして下さいます。
弱いからこそ、全能の神の全能の力によって私の霊と心を満たして下さいます。
愚かだからこそ、知る力を私に授けて下さいます。
罪深いからこそ、私の罪を根こそぎ取り除いて下さいます。
食べて満ちたりほどに恵みを与えて下さいます。私の魂はあなたをほめたたえます。
あなたこそ私の宝の神。全てに勝る神です。
私をますます、あなたのものにして下さい。ますます私の全てとなって下さい。

※日ごろから礼拝を始めるための御言葉を聖書全体から抜き出しておきましょう。「キリスト者の基本認識」はそのためにも大変役立ちます。





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