05.罪の力を釘付けた十字架
第1章 「神の子の性質」と「罪の子の性質」の葛藤について
パウロは多くの命がけの迫害を乗り越えて、また、押し寄せてくるキリストの愛に導かれて、ローマ帝国に福音を伝えた偉大な神の人でした。その彼も救い主イエス・キリストに出会って、キリスト者になった時、大きな問題を抱えていました。彼はなかなか律法の命じる事を行えないだけでなく、それに反する事を行ってしまう自分を感じていました。律法の命じている事とは何でしょうか?
それは煎じ詰めれば、きわめて単純な事でした。律法学者が主イエスを試そうとして「律法の中でどの掟が一番重要なものか」とたずねた時、主イエスはで言われた。
マタイ22章
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言はこの二つの掟に基づいている。
パウロはキリストにとらえられ、この世から救い出されたのにもかかわらず、この愛の掟を実行できないで、むしろ、それに反する罪を犯してしまう罪深い自分を知り、悩み苦しみ始めたのです。
パウロはやがてキリストの栄光を証しする、力に満ちた奇跡の伝道者になり、教会の最も優れた指導者の一人になりました。その彼がかつての自分の心の葛藤、弱さを信徒たちに隠そうとはしなかったのです。むしろかえって、ローマの信徒への手紙で、信徒たちの益となるように、かつて弱かった自分の心をありのままに語っています。この葛藤は今日、多くの、誠実で、真実な、キリスト者の大きな悩みであるに違いありません。
ローマ7章
私は自分のしていることが分りません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしているからです。・・私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
・・それで善をなそうとする自分には、いつも悪がつきまとっていると言う法則に気づきます。
「内なる人」(神の子)としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心(良心)の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。・・
私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められた身体から誰が私を救ってくれるのでしょうか。
私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
パウロは自分の心の葛藤、苦しみの原因について、つぶさに見ています。私たちはこのように自分の心を見ることが出来ているでしょうか。私たちはキリスト者になるまで、罪についてあまり深く考えたことがありません。そして自分の中に「罪が住んでいる」と言うような厳しい罪認識を持っていませんでした。しかし罪の中に死んでいた私たちですが、キリストによって新たに生まれ変わり、また、御言葉の光に照らされたならば、私たちは自分の罪を悟るのです。パウロもはっきりと語っています。私たちの中には罪が住んでいると。私たちはこれを認めるでしょうか。
神の子とされた私たちであっても、聖霊の力によらないで、人間的な力によって、神の掟を守り、従おうとしても、それは全く不可能であると、パウロは語っています。これは重大な問題です。
パウロの告白を詳しく見て行きましょう。
○○○
■まず、「法則」について――――
自然界には様々な法則があります。それは自然界を支配している不変の力です。
たとえば、「引力の法則」があります。大気圏にいる限り、全てのものは地上に落下します。地球が周辺にある全てのものを引き付けているのです。例外はありません。全てのものに働く力です。これが法則です。
■「心(良心)の法則」とは何でしょうか。良心は神の律法です。それは全ての人に正しい事をするように命じています。実行すれば、心は喜びます。また、人として道義的に間違ってことをすると、心を責めさいなみます。それが良心の力であり、心の法則です。しかしこの良心の力・法則は五体の中に働く罪の法則に勝つ事ができないとパウロは語っています。人は誰でも自分の罪の力に打ち勝って、良心の命じることを貫き通すことが出来ない。たいてい、敗北するわけです。パウロはそのように語っています。 ■「五体」とは体です。体の中にある「罪の法則」とは何でしょうか。
それは悪魔の言い分に聞き従ったときにアダムとエバの中に入った罪(悪)の力です。神の力を認めず、自分を神とする力であり、自分の力を頼みとする性質です。人のことを思いやれない自己中心性です。自分の善悪の知識によって人を裁き、自分を裁き、状況を裁いて判断する力です。
その最初の罪から様々な罪(肉の思い)が生まれてきます。侮辱されると人は怒ります。拒絶されると憎みます。期待を裏切られると失望します。問題が起こると思い煩います。
それは私たちの意思に関係なく、自動的に、反射的に全ての人の内に湧きあがって来る罪の力です。
その力が法則です。それは全ての人を支配しています。ですから、法則です。
■「内なる人」とは、聖霊によって生まれ、神の子とされた人です。心の深い所に、神から分与された霊を持っている人です。この霊こそ「神の似姿」です。この霊が聖霊様とつながり、心と体を治めるはずなのですが、神の子とされた後も、体の中には罪の力が残り、住み続けています。それで、神の子の心は戦場のようになります。「神の似姿」である霊が良心の命じるままに、心を治めるのか。残り続ける「罪の力」が心を治めるのか。そんな矛盾、葛藤にパウロは苦しんできたのです。そして言っています。
それで善をなそうとする自分には、いつも悪がつきまとっていると言う法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心(ここでは良心のこと)の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしている。
私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。
「神の子」=「内なる人」=「霊の人」は「神の律法」を喜んでいるのに、体の中に住んでいる罪の力が、私たちの体と心を支配しようとするのです。「内なる人」が治めるべき心と体は、その罪の力に隷属させられて行くのです。誰がこの惨めな状態から、神の子、内なる人である私を救ってくれるのか。とパウロは苦しみ始めたのです。
第2章 対立する「神の子の性質」と「罪の子の性質」
ここで、この二つの性質、つまり「神の子の性質(霊の力)」と「罪の子の性質(罪の力)」が、どのように日常生活に現われるかを見ておきましょう。セミナ-(2)で「日常生活に現れる罪と死の力」を学びましたが、ここでは「神の子の性質」と対比させながら学びます。比べてみれば、天地雲泥の差があることがはっきりと分かります。■神の子の性質と罪の子の性質
ルカ6章
敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。・・・
いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。
人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。人を罪人と決めるな。
そうすれば、あなた方も罪人だと決められることがない。
赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。
ガラテヤ5章
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、その他この類のものです。・・
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
Ⅰコリント13章
愛は忍耐強よい。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いら立たず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。愛は決して滅びない。
エペソ4章
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。無慈悲、いきどおり、怒り、わめき、そしりなど全てを一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによって、あなた方を赦して下さったように赦し合いなさい。
Ⅰペテロ1章
無知であった頃の欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出して下さった聖なる方に倣って、あなた方自身も生活の全ての面で、聖なる者となりなさい。
「あなた方は聖なる者となれ。私は聖なる者である」と書いてあるからです。
Ⅰペテロ3章
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。
かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなた方は召されたのです。
フィリピ4章
終わりに兄弟たち、全て真実なこと、全て気高いこと、全て清いこと、全て愛すべきこと、全て名誉なことを、また徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。・・
そうすれば、平和の神があなた方と共におられます。
これらの御言葉から二つの性質の一リストを作って見て下さい。そうすれば、神の子の性質と罪のこの性質がはっきりとしてきます。
第3章 罪の力を釘づけた十字架の救いを知る。
パウロは主イエスに救われてからも、神を知る知識、また救いの経験がある段階に到達するまで、罪の力に負け続け、どのように熱心に勤めてみても、罪の力に勝利する事が出来ませんでした。しかし、ある日、主イエスの十字架がこの問題を完全に解決していることを悟ったのです。「主イエスの十字架は私たちの罪を赦し、罪の汚れから私たちを清めた」とキリスト教会ではいつも教えますが、十字架の救いは、「それだけではありません。十字架は私たちの身代わりの十字架でした。身代わりとはどのような意味ですか。
私たちはそのこと正しく知るなら、私たちもパウロと同じ悟りに達し、あらゆる罪に勝利します。
「身代わり」とは、私たちに代わって、主イエスが私たちの罪そのものとなり、罪の結果、受けるべき「呪い」と「死」そのものとなって下さったことを意味します。主イエスが釘付けられ、引き裂かれ、墓に葬られたとき、実は私たち自身の罪と呪いと死が、キリスト共に神によって十字架に釘付けられ、打ち砕かれ、処断され、死に渡されたのです。このことは非常に重要な救いを私たちにもたらせます。「罪と呪いと死の力」は最早、十字架の救いを信じる者を支配することが出来ないのです。
御言葉は次のように啓示しています。
ローマ8章
(神は)罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において(神は)罪を罪として処断されたのです。
誰の罪が処断されたのですか。いうまでもなく、私たちの罪ではありませんか。
ここで「罪」とは私たちに罪を犯させる「罪の力」のことです。アダムとエバから受け継いだ罪の力が私たちの内にある事は既に学びました。それが主イエスの体に担われて、神よって十字架にかけられ、徹底的に処断され、死に渡されたのです。また罪が十字架に釘付けられ、処断されたので、罪の結果の呪いも死も十字架に釘付けられ、処断されたのです。コロサイ2章はこの事実を更に鮮やかに語っています。
神は私たちの一切の罪を赦し、規則(神の律法)によって私たちを訴えて、不利に陥れていた証書(私たちの罪状書き)を破棄し、これを十字架に釘づけにして取り除いて下さいました。
そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしもの(捕虜)になさいました。
律法に対する違反、その罪状書きが十字架に釘づけられ、破り捨てられ、私たちから取り除かれた。
その時、同時にあらゆる支配と権威の武装が解除されたと御言葉は語っています。「支配」「権威」とは「サタン」の別名です。つまり罪の源であり、罪の力そのものである「サタン」の武装が解除された。そればかりか、主イエスの勝利の戦列(完全な救いをもたらせた十字架)のさらし者(捕虜)にしたと語っているのです。
サタンは全ての人を罪の力の奴隷にしてきましたが、今や、神がサタンをキリストの捕虜として下さったのです。サタンの武装とは何か。
それは全てのものの「死」であり、あらゆる「呪い(災い)」です。そしてついには、永遠の滅びです。
同時に、それは、最初、私たちの思いに働く悪の力です。悪の力とは何か。
真の神を否み、自分を神とする悪の力です。自分の善悪の知識によって人を裁き、自分を裁き、状況を裁かせる(判断させる)力です。それはあらゆる「肉の思い」を心の底から湧きあがらせます。
「苛立ち、怒り、憎しみ」「思い煩い、不安、恐れ」「失望、嫌悪、蔑み、拒絶」を生み、私たちを死に至らせ、あらゆる人間関係を死に至らせます。神との親しい関係も死に至らせます。それらの全てがそのまま私たち自身への呪(災い)となり、死となり、全てを滅ぼします。
その全てが、私たちの罪の身代わりとなったキリストと共に釘付けられ、打ち砕かれ、処断され、私たちから追放され、主の勝利の戦列の捕虜とされたのです。
私たちは今日のキリスト教会の、「罪の赦し」「義とされた」という所にとどまる十字架の理解に留まらないで、更に深くこの十字架の意味を悟らねばなりません。
私たちは全く、全ての罪の力、罪と死の法則から解放されています。
私たちは全くサタンの支配から解放されています。
私たちはこの十字架の救いの力をことごとく、ただ信仰による祈りを通して受け取るのです。
それが取り除かれると、神様の祝福が新たに広がって行きます。
私たちは罪が赦されるだけでなく、罪の力から自由になります。私たちの心だけが自由になるのではなく、病気が癒され、人と人の関係が癒されて行きます。人生そのものから、あらゆる災い過ぎ去り、祝福が始まります。このことは、次ぎのセミナーで深く学びます。
主イエス・キリストの十字架をほめたたえます!これはすごい神の救いの力です!
主イエスの十字架は「もろもろの支配の武装」=「あらゆる罪の力の武装」=「サタンの武装」を解除したのです!私たちを罪の奴隷にするサタンの武装は解除されました!心と体の病の武装も解除されました!あらゆる呪(災い)の武装は解除されました。そればかりか、キリストの勝利の凱旋の戦列に従えて、公然と捕虜にされたのです。
罪の力、サタンの力は、最早、私たちの心や体を支配することは出来ません。人間関係を破壊する事はできません。私たちの祝福された人生に災いを持ち込むことは出来ません。それは神によって滅ぼし尽くされたのです。このことを知り、信じ、心に受け入れましょう!
私たちは宣言しましょう。私たちの心と体の中に働く罪の力、悪魔の支配に対して――――宣言する事が信仰です。この信仰によって私たちは全く罪から自由にされるでしょう。私たちは間もなく罪を犯さなくなり、やがて罪を犯すことが出来なくなるでしょう。
御言葉が語って下さっている事を整理しましょう。
①私たちを支配していた罪の力・死の力は十字架に釘付けられた!
②私たちの心と体から取り去られ、追放された!
③罪の力は十字架に釘付けられ、砕かれた。断罪された。その武装は全く解除された!無いに等しいものとされた!
④そればかりか、御父と主イエスは全ての罪の力を捕虜にした!
⑤そして御自身の勝利の凱旋の戦列(主イエスの十字架のこと)にさらし者にするために、連行した!
ハレルヤ!主イエスの十字架をたたえる!私たちの魂は力の限り賛美する!
第4章 十字架の御言葉を告白(宣言)する事によって十字架の救いが実現していく。
十字架の福音は神の力です。しかしローマ1章で啓示されている通り、それは「初めから終わりまで、信仰によって実現する」のです。御言葉は「霊の剣」「神の力」そのものです。私たちが御言葉を告白したり、宣言するとき、私たちの敵である罪の力・サタンは恐れおののいて、全てを投げ出して、逃げ出すのです。主なる神がそのようになさいます!
私たちが今日まで、このように十字架の御言葉、福音の御言葉、真理の御言葉を、確信を持って言い放たなかった無知と不信仰をいいことにして、罪の力・サタンはしたい放題をして来たのです。
しかし、私たちが十字架の断罪の力・追放の力を知り、信じ、その通りに信仰によって告白するなら、私たちの内側から湧き上がり、外側からのしかかる、もろもろの罪の力は、最早、私たちを支配することは出来ないのです。今まで、サタンの悪巧みに支配され、罪の奴隷となってきたはずの私たちが、サタンの悪巧みを打ち砕き、サタンを追放するのです。私たちは最早、支配される者ではなく、十字架の力によって、罪の源であるサタンを打ち砕く者です。ハレルヤ!
「信仰を持って御言葉を言い放つこと」=「信仰を持って御言葉を告白する事」――――このことこそ、私たちに勝利の道を切り開きます。私たちが信仰を持って神の言葉を告白し、言い放つなら、そのこと自体が偉大な神の力を解き放ち、私たちを罪に勝利させるのです。
聖書はこのことについて次のように啓示しています。
イザヤ55章
雨も雪もひとたび天から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しくは私のもとに戻らない。それは私の望むことをなしとげ、私が与えた使命を必ず果たす。
これはセミナー(2)の5章で既に学びました。「私の口から出る言葉は、私の望む事、私が与えた使命を必ず果たす」と。
また、主イエスはヨハネ6章・15章・ヨハネ1章で語っておられます。
私の言葉は命であり、霊である。私の言葉を聴いたあなた方は既に清くなっている。
万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
神様の言葉は、霊であり、命であり、清めの力であり、創造の力であることが分かります。
この事を心に留めておいて下さい。
もし私たちがこれらの御言葉を知り、受け入れ、信じて、主イエスの御名によって、全ての神の言葉を信仰によって告白し、言い放つなら、私たちが言い放った神の言葉は、神が与えた使命を果たし、神の望んでいる事を成しとげるのを経験します。
ですから、神の言葉を「主はこう言われる」と宣言し続けましょう。そうすれば、その通りになります。
それは罪の問題を解決するだけでなく、生活上の多くの問題を解決しますが、それはセミナー(6)の学びまで待ちましょう。
ですから、私たちは自分の「あれこれの肉の思い=もろもろの罪」に囚われ続ける事をやめ、心を一新し、御言葉の光を放ちましょう。立ち上がって福音の言葉を、真理の言葉を雄々しく、言い放ちましょう!
もう一つ、学んで下さい。ローマ8章も次のように語っています。
ローマ8章
これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。
私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。
「これら全てのことにおいて」私たちは主イエスによって「輝かしい勝利を収めている」とパウロは大胆に語っています。パウロを救ったのと同じ十字架の救いの力が私たちをあらゆる罪の力(サタンの力)から救い出すのです。私たちはこれまで明らかにしてきた圧倒的な十字架の救いの力によって、何度も負けてきた「肉の思い」「罪の力に」勝利が来ます!私たちは様々な罪の力から解放されていきます!
私たちは自分の罪の性質がしだに薄くなり、やがて消えて行くのを知るでしょう。パウロの苦しい、心の葛藤から解放されるでしょう。主イエスの十字架をたたえましょう!何と素晴らしい救いでしょう!
解放でしょう!勝利でしょう!かつて私たちは罪の力の敗北者でしたが、今は勝利者です!
■セミナー(2)6章で学んだように、祈りましょう。
①主イエス様、私は自分と自分に連なる人を悩ましている「あれこれの肉の思い」を具体的に告白します。
②「肉の思いは死」であり、罪であることを認めます。神が全ての罪についてそうしておられるように、私も罪はことごとく、「忌むべきもの」「滅ぼしつくすべきもの」「焼き尽くすべきもの」であると見なします。なぜなら、それはいつも私に死と災いをもたらすからです。この肉の思いを持ち続けていた事を赦して下さい。
③ 主イエス様、罪を罪として告白する者は、誰でも皆赦されます。私の罪も赦されました。私はあなたの赦しを受け取ります。
④この肉の思いの汚れから私の体と心を清めて下さい。
■それから、次のように告白しましょう、強い信仰を持って。
主イエス様、私はコロサイ2章の御言葉を学びました。
あなたの十字架が全ての「肉の思い」を生む罪の力を私から取り去り、完全な自由と勝利を与えて下さっている事を知り、信じて、「十字架の御言葉」を告白し、宣言します。
①私の全ての罪の力(具体的に言う)は主イエスの体によって捕縛された!主イエスの勝利の戦列である十字架に捕らえられ、さらし者にされた!
②私の心と体から追放された!取り去られた!
③罪の力(具体的に言う)十字架に釘付けられた!御父によって打ち砕かれた!罪の力の武装(具体的に言う)はことごとく主イエスの十字架によって解除された!
④十字架の救いが成しとげられた!私は全く解放された!
⑥私は私たちを愛して下さる方によって圧倒的な勝利、輝かしい勝利を収めている!
主よ、あなたの十字架こそ、完全な救いの力です!偉大な主の御名を賛美します!
第5章 大本の罪(原罪)とは何か?
ここでは「あれこれの肉の思い」の発生源である「大本の罪」「原罪」から解放される祈りへと前進して行きたいのです。最初の人類であるアダムとエバがエデンの園で創造されたとき、人となられた主イエスの体の中に罪がなかったように、彼らの体の中にも罪がありませんでした。しかし罪の源である蛇(サタン)の語る言葉――「善悪の知識の実を食べると、神のように善悪を知ることが出来る」――を受け入れ、自ら神になろうと、善悪の知識の実を採って食べたときに、彼らの体の中にサタンの悪(罪)が入りました。
これが大本の罪、原罪と呼ばれているものですが、これはどのような罪でしょうか。
①創世記2章
善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。
最初の人は神の戒めを退け、自分が神になろうと望みました。これは人を創造した神の対する無視、拒否、反抗であるだけでなく、それは全ての罪の始まりです。
生ける神を否み、自分を神として生きている全ての人に、際立った性質があります。それは「強い自己中心性」です。自分を神とするなら、自己中心的な存在以外になりようがないのです。正義と慈悲と誠実の源、真理と知恵と知識の源、力と命の源を捨てた自己中心性は自分の安全、利益をまず追求する「エゴイズム」とならざるを得ません。
なぜなら、全ての人が極めて目の見えない、貧しい、力のない者に転落し、サタンの支配するこの世にあって、自分の身を守ることで精一杯になるからです。
これがアダムとエバが、正しい能力もないのに自分を神の座につけたときに、最初に発生した性質です。
それはセミナー(1)で、深く学んだ事です。
最初の人が神となるために所有した「善悪の知識」とは何でしょうか。
それは自分の判断、自分の常識、自分の主義、価値観、思想、信念などのことです。それらは全て、人間の自己中心性を土台にし、そこから出たものです。ですから、一人の人の善悪は、いつまでたっても、全ての人にとっての善悪には、決してなり得ないのです。この世ではこのことを「十人十色」と言います。これが多数決の必要な理由です。唯一の、間違いのない真理が存在しなくなりました。何が真の善であり、悪であるか。全てが相対的なものになりました。
また悪の源であるサタンの言い分を受け入れたとき、サタンの悪の力=罪の力も私たちの体に入ってきました。それは蔑み、嫌悪、拒絶、怒りなど、人を裁き、自分自身をも裁くという多くの悪の実を結びます。
これらの「肉の思い」はサタンの悪の力と自分の善悪の知識と自己中心性が結びついた結果、「大本の罪」が結んだ「もろもろの罪」です。
私たちの体には神の似姿に造られた時に与えられた健全な良心や正しい知性も生きた感情も残っているのは事実です。しかし、その神の似姿は、自己中心的な善悪の知識と入ってきた悪の力から生まれる様々な「肉の思い」に覆われていて、十分に働かないのです。死んでいるのです。
ですから、自分の本当の繁栄の道、幸せの道を悟ることが出来ないだけでなく、良心の命じる事をいつも行う事も出来ないのです。本気で他者の幸いを願い求める事も出来ないのです。この大本の罪のために、ひどく恥をかくか、他人をひどく卑しめるまでは、よく分からないのです。
主イエス様に感謝します。信仰者はこの原罪からも解放されます。
強い自己中心性(エゴイズム)から、自分の善悪の知識から、人を裁き、自分を裁く悪そのものにも勝利出来ます。
神は全ての「義と善の源」「真実と公平の源」「愛と平和の源」です。そして何よりも変わることのない「命の源」です。全てを生かすお方です。このお方の力が私たちを覆い、満たし、導き始めると、私たちは「原罪」と言われている、最大の不幸から解放され、勝利します。
主イエスは、私たちの救いと繁栄の回復のために、十字架に上がられました。私たちが神を否み、反抗し、敵対し、自らを神としているその時に、です。ここに主イエスと彼を通して現われた、神の義と愛があります。罪のない、正しいお方が、正しくない、罪の故に滅び始めている私たちの罪を全身に担い、罪の赦しと罪からの救いのために十字架に上がられたのです。
これが神の正しさであり、慈悲です。それは人の思いをはるかに超えるものです。
神は私たちを生かす神です。蔑み、嫌悪し、拒絶して、裁く神ではありません。神は私たちの増大する悪の故に私たちを裁くこともありますが、それは私たちを神に立ち帰らせて、幸いを与えるためです。
神は悪を憎み、罪を憎まれます。正義と真実が尊ばれていない人間の社会には平和と信頼がありません。
そのような社会は人を滅ぼします。ですから、神は悪と罪を憎み、そこから人を救い出そうとなさいます。悪と罪の源であるサタンは人を破壊し、殺そうとしますが、神は全ての人を生かそうとなさるのです。
②ハバクク1章
彼等は罪に定められる。自分の力を神としたからだ。
「自分の力」とは、あらゆる人間的な力を指しています。それに依存する事も「自分を神とする罪」「大本の罪」の一つです。自分の判断の力を神とする、自分の問題解決の力を神とする、その時、私たちは自分を神としているのです。
完全な正しさ、絶対的な真理、全てを成しとげる力、とこしえに変わらない愛と真実が存在するのでしょうか。確かに存在しています。神はそれを持っておられます。この神の前で、どこまでも、自分の力を神とし続け、真の神の力を否み続けるなら、神は私たちを砕かれます。私たちが神ではなく人間である事を知り真の神に立ち返るためです。
主なる神はエレミヤ32章で言われました。「見よ、私は生きとしけるものの神、主である。私の力が及ばないことが一つでもあろうか」
非力な人間が、自分の力で全てのことを成しとげようとして行き詰っている現状を見て、このように語られる神がおられます。「自分を神として生きるな」「自分の力を神とするな」「私の力を受け、また、私の救いの力に信頼して生きよ」と語っておられるのです。次のように・・・
③ホセア14章
イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。
誓いの言葉を携え主に立ち帰って言え。
「アッシリアは私たちの救いではありません。私はもはや軍馬に乗りません。
自分の手で造ったものを再び私たちの神とは呼びません」
神はかつて、イスラエルに「すべての悪を取り去り。恵みを与えて下さい」と言え、と命じられました。
「全ての悪」とは何でしょうか?
ホセア14章の啓示によれば、次のようなものです。
A「アッシリアを私たちの救い」とする悪。
B「自分の軍馬に乗る」悪。
C「自分の手で作ったものを自分の神と呼ぶ」悪。
ホセヤが生きていた時代、今から2.700年ほど前のイスラエルでは、この三つの悪が具体的に何を意味していたかは、誰にでもすぐ分かりました。しかし、今日、これがどのような意味を持っているのでしょうか。
A:「アッシリアは私たちの救い」とする悪の今日の意味について。
この時代、イスラエルは二大強国の狭間で揺れていました。東にはアッシリア、西にはエジプトです。
南イスラエルには国の守りを全能者なる神に求める信仰がまだ残っていたのに対して、北イスラエルは偶像礼拝が国家レベルで盛んに行われて、偽の神(サタン)にも捧げ物をしていました。北イスラエルは何時侵略、略奪されるか分からないという恐れの中で、時にエジプトに、時にアッシリアと同盟を結んできました。
神は預言者を遣わし警告しました。彼らは人間であり、お前たちを救うことは出来ない。最後まで信頼する事は出来ない。国家の安全についても私に信頼するべきではないのか、と。
今日の教会、キリスト者にとって、これはどのような警告となるでしょうか。
キリスト者も自分の安全、平和、幸せについて、ある時、神に信頼し、ある時、人に信頼します。
しかしアッシリアがイスラエルの救いとはならず、やがてイスラエルを滅ぼしたように、私たちが一人の人に、全く依存してしまうなら、私たちは救われることがありません。依存された人は、夫であれ、親であれ、友人であれ、子供であれ、私たちから離れて行きます。あまりにも負担が大きいからです。彼ら自身の中に一人の人の安全、平和、幸せを保証し続ける力が全く存在しないのです。
それを保障する事が出来るお方はただお一人、全能の力の源である主なる神だけだからです。
私たちがこの言葉につながり、祈りと願いをささげ続け、神が「せよ」と語る言葉に従うなら、私たちは恵みの上にも恵みを受け、人あらゆる問題の上に解決、勝利を見るのです。
全てに勝って、私たちがまず神に信頼し、神に聞き、神の導きに従うなら、神に求める事を最優先するなら、私たちは人との関係の中に正しい、平和な信頼関係、喜びの関係を保ち続けます。このような人は決して人の負担、重荷、束縛とはなりません。互いに助け合う、支えあう相互の関係を作り出すでしょう。それがよき伴侶であり、よき親子であり、よき友ではありませんか。そのために、まず、神を求める事が絶対的に必要である事をホセアは教えているのです。
自分の安全、喜びをいつも人にだけ依存すること、それが大本の罪、原罪の1つの現れなのです
B:「自分の軍馬に乗る」悪。
これは隣国と同盟を結ぶ事ではありません。自国の軍事力に頼って戦う事を意味しています。
神は詩篇33で言われました。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものにならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させて下さる。
人が自分を神として以来、すべての人は、あらゆる問題の解決を自分の知恵、知識、判断、能力に頼らざるを得なくなりました。私たちが真実の神を知り、全能の神を知り、信じる全ての人に並外れた恵みの力、救いの力を注がれることを知っても、なお、私たちの中にこの古い大本の罪が残り続けいるのです。
神はここで、真実の救いの神に頼らず、何であれ人が自分の能力に頼ること、それ自体を「躓き」「咎」「悪」であると言っておられるのです。その悪をかなぐり捨てて、神に立ち返れと。
C.「自分の手で作ったものを自分の神と呼ぶ」悪。
ホセアの時代、それは人間の手が作った像を「神」と呼んで拝む、偶像礼拝を意味しました。
今日キリスト者が仏像に手を合わせることはないでしょう。
教会はこの戒めを、自分の人生の中で形作った、自分の善悪の知識、常識、価値観、信念を神とすることと受け止めるべきではありませんか。長い人生経験の中で作り出した善悪の知識が私たちにはあります。
またその社会の中で教えられた善悪の知識があります。常識があり、価値観があります。
神は今日、教会に語っておられます。人間の手が作り出したもの、編み出したもの、考え出したものを神として、人生の基準としてはならない。
それがどれほど、優れたものに見えても、罪のゆえに堕落している人間の、経験と知恵から生まれたものであり、それを神とするのは愚の骨頂であることは、あまりにも自明な事ではありませんか。
新約聖書では同じ「大本の罪」「原罪」「自分を神とする罪」について次のように啓示しています。
④Ⅱコリント10章
私たちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑を虜にしてキリストに従わせ、また、あなた方の従順が完全なものとなる時、全ての不従順を罰する用意が出来ています。
「神の知識に逆らう」というのは、「理屈」、「高慢」、「思惑」にもかかっています。
「理屈」というのは考え方であり、常識です。「思惑」というのは「はかりごと」、問題解決のための人間の知恵のことです。これはみな、ホセヤ14章で神が{躓き}「咎」「悪」と呼んでいる大本の罪です。
「高慢」とは、神よりも自分を上に置く事です。神の言葉よりも自分の言葉、神の力よりも自分の力、神の知恵よりも自分の知恵という風に、です。そして神の言葉に言い逆らうことです。これは自分を神とする偶像礼拝の最たるものです。
新約聖書はこれらの悪の力、人間の思いを「とりこにしてキリストに完全に従わせ」と命じておられます。
私たちがキリストの言葉、キリストの真理、キリストの思いに従うなら、「全ての不従順を罰する用意が出来てている」と神は語っています。
「不従順」とは何でしょうか。
神を無視し、神に対抗し、反抗することです。それを罰するというのですから、それは単なる反抗的な性質ではありません。それは人格的な存在です。つまりサタンそのものであることが分かります。
神は次のように語っておられます。「あなたが自分を神としないなら、自分の言葉、自分の判断、自分の力を神とすることをやめるなら、そして、神の言葉、神の判断、神の力に信頼し依存するなら、私はその信仰と従順を通して、全ての不従順=サタンのあらゆる力を罰し、あなたに大きな勝利を与え続けましょう」
ですから、私たちの内に働く罪の力に従うことなく、神の言葉に従い続けるなら、私たちの捧げる祈りが、たちどころに聞かれて行くでしょう。
罪に対する勝利、神への従順こそ、私たちの最大の繁栄をもたらします。神はその私たちを通して、あらゆる問題の上に御自身の力を振るわれます。私たちは勝利につぐ勝利を、成功に次ぐ成功を経験することになるでしょう。
⑤申命記29章
あなたたちの中に毒草や苦よもぎを生じる根があってはならない。
マタイ7章
全て良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶことも出来ない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
このようにあなた方は、その実で木を見分ける。
申命記は私たちの体と心の中に「毒草の根」「苦よもぎの根」があることを啓示しています。
毒草は人を殺します。苦よもぎは口に苦いものです。人を不快にさせ、苦しめるものです。
これはアダムとエバが悪の源である蛇の「自分の善と悪を持ちなさい」という誘惑を受け入れた時に、二人の中にサタンが入れた悪の根です。見た目にどれほど立派で、品位のある素晴らしい人でも、例外なく、この悪の根を内側に持っています。
同時に神の似姿の一部である「良心」を持っているゆえに苦しみます。
その悪は自分を殺します。人に向けられた時は人を殺します。また、自分の心を苦々しくさせ、人を苦々しくする「苦よもぎ」です。平穏な日常生活の中で、それは「根」として隠れています。ですから、意識されません。しかし、ひとたび災いや問題が起こると、その「根」から、たちどころに、失望・落胆・嫌悪・蔑視・拒絶・怒り・殺意が条件反射的に発生します。私たちがそのように望んでいなくても、私たちの意思とは全く関係なく、抗し難く噴出してきます。
自制心の強い人は何とか、それを抑えようとしますが、体と心の内に「毒草」と「苦よもぎ」の花が咲き多くの実を結んでいる事には、変わりはありません。
これは悪の泉であり、罪の泉です。そしてこの罪のゆえに人の中に死が入って来るのです。
ですから、これは死の根でもあります。この根を受け入れ、持ち続けるなら、私たちは罪を犯し続け、死に続けます。死は私たちを通して、家族や友人の中にも入っていきます。すると私たちがまず死に、あらゆる人間関係が死ぬのです。
私たちが悪・罪・サタンの支配に抵抗しないと、私たちは日常生活の中で死に続け、やがて、永遠の滅びの中に引きずり込まれます。ですから、神は心と思いを込めて、旧約と新約の全体を通して、「聖なる者になれ」と命じておられます。
主イエス・キリストを通して神が私たちを「聖なる者」にして下さいます。私たちが罪の力を忌み嫌い、私たちが「聖」を求め続ける時に、です。
マタイ7章で、御言葉はこの「大本の罪」「原罪」を「悪い木」と言っています。全く同じものです。
悪い木は悪い実を結び続け、決していい実を結ぶ事は出来ません。
しかし「善い木」は「善い実」を結び、決して「悪い実」を結ぶ事が出来ません。
何と大きな違いでしょう。
私たちの体の中に残り続けているサタンから来た「悪」「罪」「死」の根・泉を十字架に釘づけ、神が与えて下さる「善」「義」「命」である神の霊と御言葉を受け入れ、それによって導かれて生きる――――これこそ私たちの繁栄の回復、勝利の人生の道ではありませんか。
第6章 大本の罪(原罪)から解放される祈りを。
追加:サタンの力は、単なる悪の力、罪の力であるだけでなく、「反キリスト」の力としても働きます。即ち、御言葉の理解や信仰を持つ事を妨害し、賛美と礼拝を妨害し、祈りと願いを捧げる事を妨害する力として働きます。
このようなサタンの力=原罪が取り去られていく度合いに応じて、私たちは神様の満ち溢れる豊かさの全てに預かり、それによって満たされるようになっていきます。ですから、この祈りは大変重要です。
以下に整理した大本の罪からの解放のために、4章と全く同じように祈りましょう。
原罪のリスト――――以下の祈りに原罪を当てはめて、確信が来るまで繰り返し祈りましょう。
ホセヤ14章とⅡコリント10章と申命記29章のまとめ:
■人間を自分の救いとすること・自分の軍馬に乗ること・自分の手で作ったものを神とすること。
■神に逆らってたつ人間の理屈・高慢・はかりごと。
■人を裁き、じぶんを裁いてやまない毒草の根、苦よもぎの根。
■礼拝、御言葉の理解、信仰、祈りを覆う邪魔者、「反キリストの霊」
主よ、私たちの中にはアダムとエバから受け継いだこれらの原罪の力が残存していることを認めます。これらの悪をことごとく取り除いてますます命に溢れさせて下さい。
原罪の力を取り除いて下さった主イエスの十字架の完全な救いと勝利を強く確信して、十字架の御言葉を信じて、告白します。
①これらの原罪は――具体的に告白する――十主イエスの十字架に既に釘付けられた!
②この罪の力は――具体的に告白する――十字架の上で既に砕かれ、処断された。その武装は既に解除された!無いに等しいものとされた!
③主イエスによって罪の力は――具体的に告白する――捕らえられ、主イエスの勝利の戦列のさらし者にされている!
④それは――具体的に告白する――もはや私たちを支配することは出来ない。私たちの心と体から全く取り去られた!
⑤私たちは私たちを愛して下さる方によって「輝かしい勝利」「圧倒的な勝利」を既に収めている!