04.イエスの御名・御言葉を告白する。
第1章 主イエスの十字架の死と復活――その結んだ実と天の門を開く、全てに勝る主イエスの御名
■■■聖書にある無数の「神の祝福の言葉」を成就した十字架の贖いと復活新・旧約聖書には三万に及ぶ、神の祝福と繁栄の回復に関する約束が記録されているそうです。
主イエスの贖いの十字架と死を滅ぼした復活の力は完全であり、これらの全ての祝福、繁栄の回復はみな主イエスによって実現しています。私たちは神の子であり、その全てを、ただ主イエスの「十字架と復活」を信じる信仰に立った祈りを通して、現実に受け取る事が出来ます。神の言葉は次のように語っている通りです。
Ⅱコリント1章
あなた方の間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束はこの方において、ことごとく「然り」となったからです。
それ故に、主イエス御自身がマタイによる福音書では、次のように教えられています。
マタイ7章
求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。 門をたたきなさい、そうすれば開かれる。誰でも求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたくものは開かれる。あなた方の誰がパンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに蛇を与えるだろうか。このように、あなた方は悪い者でありながらも、自分の子供に良いものを与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は求める者にいいものを下さるに違いない。
だから人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。
何を求めよ、何を探せ、どの門をたたけと主イエスは言っておられるのでしょう。
求めるものは「神の国」です。探すのも「神の国」です。門をたたくのも「神の国」の門をたたくのです。
そうすれば、「神の国」が与えられ、「神の国」を見出し、「神の国」の門が開かれるのです。
「神の国」とは神の力による支配です。統治です。「神の国」が与えられ、見出し、門が開かれたなら、私たちの願い求めた事は全て実現します。
私たちの抱えている問題の上に、また問題を抱えている私たちの内に「神の国」「神の統治」が来るように祈りましょう。「天の父は求める者にいいものを下さるに違い」ありません。違いがないのですから、必ず与えられます。
「だから人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」という御言葉がすぐ後に追加されています。この命令は祈りが聞かれる上で大切な前提です。
ヨハネ15章16節-17節では「私の名によって父に願うものは、何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」と言われました。
高慢な人、非情な人、人を裁き続ける人の祈りは直ちには聞かれません。しかし、それを悔い改めたとき、聞かれます。善意の人、慈しみ深い人、謙遜な人の祈りは、速やかに聞かれるのです。
■■■必ず、答えられる「主イエスの御名」による祈り。
ヨハネによる福音16章
はっきりと言っておく。あなたが私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
今までは、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。
そうすれば、与えられ、あなた方は喜びで満たされる。
素晴らしい約束の言葉です。願う者に制限がありません。「主イエスの御名によって、何かを願うなら」と語られました。何を願うかについて、主イエスは制限を設けておられません。しかし、願う方法についてははっきりと制限があります。それは「主イエスの御名によって願う」ことです。
私たちは自分に必要な事、家族に必要な事、職場、地域に必要な事は何であれ、祈る事が出来るのです。それは神によって満たされます。この約束はとてつもない事です。この約束の故に、私たちの人生は一変します。天の父は真実なお方ですから、御自身の子である私たちの願いに答えられます。
これはキリストの十字架の贖いの上にたった神の契約(約束)の言葉です。
私たちのすることは十字架による贖いを信じて、「主イエスの御名」を信じて祈る事です。
私たちは今まで、「主イエスの御名によって」祈りませんでした。全部、自分の力と知恵で解決しようとしてきました。これからは祈りましょう。祈りが答えられるたくさんの経験をしましょう。ますます、神を知るためです。喜びで満たされ、希望に満ちた人生を送り、神を賛美するためです。
キリスト者になっても祈らない人がいます。驚くべきことです。祈らなければ、何一つ与えられません。なぜ祈らないのでしょうか? この神の約束が人間の常識をはるかに超えているからです。あまりにも大きな約束だからです。人間の常識が小さすぎるからです。ですから、にわかに信じられないのです。
20世紀初頭の、中国の偉大な神の人、ウオッチマン・ニーは「真理・信仰・経験」という素晴らしい本を書き、祈らない人を祈るように励ましています。彼は語っています。
神の言葉を信じなさい。その御言葉に聞き従い、祈りなさい。そうすれば、御言葉が実現します。その時、あなたは信じた神の言葉が真実であった事が経験を通して分かります。
ウオッチマン・ニーのこの教えは、力を持っています。私たちは全ての求道者にこのように教えるべきです。これは科学の実験にも似ています。仮説があり、実験があり、事実だったと証明されるのです。
主イエスは「見て信じたのか。見ないで信じる人は幸いだ」と教えておられます。ですから、見ないで信じるのです。そうすれば、御言葉が事実であった事を経験するのです。
○○○
見ないでも信じることは難しいですか。それが出来る道があります。
ヨハネ 15章でも、同じことを主イエスは言われました。
「あなた方が私につながっており、私の言葉があなた方の内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」
主イエスの御言葉につながり、御言葉が心の内に力を持って、生きているようにするなら、私たちは見ないで信じることが出来ます。それは決して難しいことではありません。私たちに抱えている問題がある時、主イエスは、その問題に解決、勝利を与える約束の言葉を持っておられます。例えば、「私を信じるものが病人に手を置けば、癒される」という風に
。 私たちが誰かの病気を癒す必要がある時、私たちはこの御言葉につながり、御言葉が心の中に生きて働くように、私たちの心の力戸なるように、する必要があります。それはどのようにして、そうなるのでしょうか。
それも既に学んだように、御言葉をその通りに、「信じます」と言い、「心に受け入れる」と言い、「心の力となるようにして下さい」と「主イエスの御名によって祈る」とき、そのようになります。心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、即ち真心からこのように告白しましょう。その時、全ての御言葉が私たちの心の中で、生きた神の言葉、力ある命の言葉になります。
次のように告白して下さい。
「私は心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして告白します」
「私はこの御言葉を信じます」
「私はこの御言葉を心に受け入れます」
「主よ、受け入れた御言葉が私の心の力になるようにして下さいます。
主イエスの御名によって祈ります。アーメン」
このようにして、私たちは見ないで信じる信仰を獲得し、主イエスの要求を――――
「あなたが私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」・・・ヨハネ16章
「あなた方が私につながっており、私の言葉があなた方の内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」・・・ヨハネ15章
を満たし、願いはかなえられ、喜びで満たされます。そして見ないで、信じる信仰がますます育っていくのです。
■■■「主イエスが行う業を行う」ためにある「全能の主イエスの御名」
ヨハネ14章
はっきり言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。・・・私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって私に何かを願うならば、私がかなえてあげよう。
「私を信じる者は私が行う業を行う」――――これもまた、私たちの常識をはるかに超える神の約束です。
「私が行う業」とは何か。主イエスは多くの人の必要を満たすために来られました。主イエスは仕えられるためではなく、仕えるために来られました。それが主の業です。
私たちは自分の願い、生活の必要が「主イエスの御名による祈り」を通してかなえられるだけでなく、そこにとどまらないで、私たちの祈りを通して、神は多くの人の必要を満たして下さいます。
主イエスは全ての人を苦しみから救うために、多くの御業をなさいました。私たちも同じように、主イエスが行う御業を人のために行うように、主イエス御自身が望み、命じておられるのです。
何と驚くべきことでしょう?!
しかし、これもまた、信じる者には次々と現実になって行きます。
主イエスが何を行ったかは四つの福音書に記録されています。福音書から熱心に学びましょう。
主イエスは信じる私たちが救われることだけでなく、私たちを通して多くの人をもお救いになりたいのです。そのために、御自身と同じ業を私たちに行わせるのです。必要な事は唯一つです。
「主イエスの御名」を信じて、御名によって祈る事です。
■■■主イエスの全能の御名を単純に信じきる。
ここでは、「主イエスの御名」の意味を「ただ信じる」という単純な角度から、学びたいと思います。私たちの神様は全ての存在するものの創造主。全知全能の神であり、御子は全知全能の救い主です。
「主イエスの御名」とはその全知全能の主イエス御自身を指し示しています。私たちが「主イエスの御名によって・・」と祈るとき、「全知全能の主イエスの御名によって」「全てを成しとげる主イエスの御名によって」と祈っているのと同じです。その時、御名に対する信仰の故に、主イエスの全能の救いの力が働くのです。
このように単純に「全知全能の御名を信じる信仰」という立場から、このヨハネ16章も次ぎのヨハネ15章のように見て行きます。そうすると、全てが単純になります。
ヨハネ15章
あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また私の名によって父に願うものは、何でも与えられるようにと、私があなたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。
「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである」と主イエスは言われました。
私たちはどのように思いますか?
自分がキリストを知りたいと思ったのです。自分がキリストの所に近づいたのです。そう思うでしょう。自分を神とする長い生活の歴史がありますから、そのように思うのですが、神は語っています。
(天の父が)引き寄せて下さらなければ、誰も私のもとへ来ることが出来ない。――ヨハネ6章
聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです」――Ⅰコリント12章
主イエスはなぜ、私たちを選んで下さったのでしょう。次に「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るように」なるためであると語っておられます。
私たちは永遠の命を受け、その平安と喜びと力の中で生き始めると、必ず、主イエスの福音について多くの親しい人に知らせたくなります。嬉しいからです。主イエスが誇らしくなるからです。
また、全能の救い主を知れば知るほど、悲しんでいる人、苦しんでいる人、暗闇に閉じ込められている人の助けになりたくなります。その時、主イエスは、私たちがその人の所に出て行って、主イエスの救いを証し、多くの救いの実が結ばれるように「あなた方を選んだ」と言われるのです。
こんな嬉しいことはありません。私たちが救われた事は大きな喜びですが、私たちを通して親しい人が救われる事は更に大きな喜びではありませんか。そして、それは主イエスの大きな喜びです。
まことに、神が私たちの繁栄を回復するのは、私たちを通して多くの人の繁栄を回復するためです。神は私たちが繁栄の回復を独り占めすることを望まれません。私たちは祝福を受け継ぐために召されたのです。私たちは出かけて行きましょう。家族の所に、友の所に、ご近所に、職場の人の所に、そして「主イエスの御名によって」祝福を祈り、繁栄の回復を祈りましょう。私たちは祈ってあげた人の心、言う事、する事が変わって行くのをこの目で確かに見るでしょう。
これは神の命令でもあります。
「また私の名によって父に願うものは、何でも与えられるようにと、私があなたを任命したのである」とあります。私たちは選ばれただけでなく、任命されています。出て行って、「そのようにしなさい」と命じられているのです。この使命を全うするために「願うものは何でも与えられるようにと、主イエスの御名」が与えられているのです。
「願うものは何でも与えられる」・・・これはキリストの十字架による契約です。この契約がなければ、私たちがいくらキリストの福音を伝えても、単に言葉だけに終わります。また、いくら人のためにとりなし祈っても答えられることなく、祈りは空しく地に落ちてしまいます。それでは、私たちは何一つ実を結ぶことは出来ないでしょう。
ですから、「私の名によって父に願うものは、何でも与えられるようにと」定めて下さったのです。
そうすれば、私たちは多くの実を結び、その実が後に残るでしょう。
実を結ぶ秘訣――――それは「主イエスの全能の御名」を信じることです。
主イエスは全てを成しとげる事が出来る「全能の神の子」「全能の救い主」と言う強い確信はどのように私たちの心に生まれるのか。
それもまた、「神の全能の力」について語っている全ての御言葉を――――
「主よ、私は心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、告白します」
「私は心で信じる」と告白する。
「私は心に受け入れる」と告白する。
「受け入れた言葉が私の心の力になるようにして下さい。信じます」
と口に出して主イエスに向かって語ることによります。
■次ぎの御言葉を教えられた通りに、心に信仰を持って告白しましょう。心に全能の神の力が宿り、育っていくのを経験します。一度でなく、何度か告白しましょう。
主よ、私たちは心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして告白します。
■主よ、あなたは、まことに全能の神。全能の救い主。(出エジプト記6章)
■主よ、あなたは、正義、公平、真実、慈しみを持って全地を統治なさる生ける神。(詩篇41)
■主よ、あなたは、天と地における一切の権能を持っておられる神。(マタイ28章)
■主よ、あなたの御名は、全てのものの上に置かれている。
全てのものが、あなたの足下にひざまずき、従います。(エフェソ1章)
■主よ、あなたは全ての罪の力を十字架に釘付け、私たちから取り除いて下さった。(コロサイ2章)
同時に私たちはイザヤ53章・ガラテヤ3章のキリストの十字架が成しとげて下さった全ての贖い(救い)の御業を心に刻み続けましょう。これもまた「主イエスの御名」の大きな、大きな意味です。主イエスの御名が私たちに対して圧倒的な救いの力を持つのは、十字架によって私たちが義とされ、神の子とされたからです。神は私たちの父となられたからです。主イエスの御名は十字架の贖いの御名でもあります。
また、私たちの罪の故に、十字架に死なれたキリストは、死を滅ぼす全能の神の御霊によって復活しました。主イエスの御名は死を滅ぼして、私たちを復活させる力ある御名でもあります。
私たちが「主イエスの御名によって」と言う時、これらの全て意味が含まれているのです。そのことを知り、自覚し、口に出して告白しましょう。すると、告白する私たちの心の内に、その御名の持つ全ての力が現れ始めるのです。
○○○
ヨハネ16章では「何かを願うなら」と主イエスは言われました。ここでは「願うものは何でも」とも言われました。これも大胆な約束です。しかしその約束は無条件ではありません。最後に、大切な条件がついています。「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」これです。
主イエスはなぜこのような条件をお付けになったのでしょう。
神は愛の神であり、主イエスは愛の救い主であり、聖霊様は愛の霊です。
ある日、律法学者がやってきて「神の掟の中で一番大切なものは何ですか」とたずねた時、主イエスはマルコ12章で言われました。
第一の掟はこれである。「イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は唯一の主である。
心を尽くして、精神を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」第二の掟はこれである。
「隣人を自分のように愛しなさい」この二つに勝る掟は他にない。
愛さない人は何も望みません。何も信じる力がありません。そうではありませんか。
ただ愛する者だけが全てを望み、全てを信じるのです。私たちが神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、自分を愛するなら、私たちは全てを信じ、全てを祈るのではありませんか。愛は信じることにおいても、望むことにおいても人を本気にするのです。しかし私たちの内に愛がなければ、私たちは本気になりません。
神の愛はホンモノです。それは神の本性です。ホンモノの主イエスの愛、聖霊様の愛を知った時、その愛で愛されていることを経験したとき、私たちもホンモノの愛を持ち始めるのではありませんか。
その時こそ、冷えていた私たちの愛する力は回復し、本気で神を愛し、人を愛し、自分を愛するのではありませんか。
ですから、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、自分を愛し、その愛の故に、信じ、祈るなら、願う事は「何でも」かなえられるのです。
第2章 ただ信仰に立った告白と祈りによって救われる。
ローマ1章福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「福音」とは「よい知らせ」です。私たちの罪が赦されたこと、罪の力から解放されたこと、神の子とされた事、永遠の命を受け継いだ事、あらゆる命と人生の繁栄を回復した事、主イエスの似姿に再創造されること、主が行う業を行う事、多くの人の悲しみ、苦しみの、力に満ちた助け手となること、死を超えて天の国に帰還する事・・・その全ての実現のために、全能の神の御霊が私たちの心の内側にお住まいになることです。
福音は「神の力」です。それは単なる言葉ではありません。それは全てを造りかえ、創造する「神の力」です。それは「初めから終わりまで」信仰によって実現します。正確に言うなら、信仰に立った告白や祈りによって、時には行いによって実現します。
最も大切なものは信仰です。人間の修行や善行や熱心によって実現しない。つまり、いかなる人間的な力によっても実現する事はありません。これは極めて重要な事です。信仰を通して働く全能の神の力によってのみ実現するのです。
信仰には従順が伴います。神の言葉に聞き従わない人の信仰は、本当の信仰ではありません。これは当然の事です。神を信じるなら、神が「せよ」と命じられる事を守り、行います。それもまた、そのように行う事も人間の力によってではなく、内におられる全能者の御霊の力に満たされ、導かれて行います。人間の能力によって、神の言葉を守り、行う事は決して出来ません。このことは、大切な事です。いつも覚えて置いて下さい。
それでは「信仰」とは一体どのようなものでしょうか。
ヘブライ11章
信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。
信仰がなければ、神に喜ばれる事は出来ません。神に近づく者は神が存在していること、また、神が御自分を求める者に報いて下さる方であることを信じていなければなりません。
信仰とは「望んでいる事柄を確信する」ことだとあります。
私たちの心に、どうしてもと言う望み はっきりとした願いが、まずなければなりません。
どのような望みも願いもない人に、また自分が何を望んでいるのか、はっきりしない人に、どうして信じるという高度の心の傾きが生まれるでしょう。ですから、信仰とはまず何よりも、私たちが自分の必要な事、願っている事、望んでいる事が何であるかをはっきりと自覚する事です。「これだ」と確信することから始まるのです。そしてそれを、神に向かってはっきりと「欲しい」と言い切ることによって生まれるのです。
その次に、私たちが神に向かって願い求めたからと言って、瞬間的に答えが返ってくるとは限りません。まだ見えていない神の答をあたかも、見ているように確認して、確信することです。それが信仰の最も深い意味です。
この聖句では、神に対する「信頼」についても、啓示されています。
私たちは私たちの「繁栄の回復」を願う実在の神を知っていなければなりません。
また、その神は私たちに対して「絶対的に善い神」である事を知っていなければなりません。
また、私たちの切なる願い求める事が御自身の「善」に反したものでない限り、祈りに答え、報いて下さる真実な神であることを知って、信頼していなければなりません。このような神をまず知ることです。そうすれば、信頼が芽生え始めます。
この神の御言葉に対する信仰は、どのように私たちの中に芽生え、育ってくるのでしょうか。
1)全ての御言葉(聖書)を生ける神の御言葉として、その意味を理解し、そうだったのかと知ることです。そうすると、信仰は芽生えます。重要な点は、神の言葉を人間の作り出したあれこれの思想と同列に置かない事です。それは生ける神の言葉として、間違いのない真理として聞き取る事です。ここに立たない限り、信仰は育ちません。御言葉は私たちの心に対して力となりません。一旦は生ける神の絶対的な真理の言葉として聞かねばなりません。
そして信じて行う時、御言葉が真理であり、事実である事が立証されて行くのを経験するのです。
2)その御言葉を「信じます」「心に受け入れる」と口に出して告白することによって定着します。
3)御言葉が語っている通りに、祈ったり、行ったりする事によって、神の力が自分の心の中に、また実際の生活の中に現われます。つまり、御言葉が実際に実現していくのです。そのことを通して、御言葉が間違いの無い真理であることを知り、ますます信仰が育って行きます。
科学の世界でも、一人の科学者の提起した言葉を、一旦仮説として信じて、実験を行うことによって、それが事実、つまり真理であったと証明されます。同じように、御言葉→→信仰による祈り・行い→→私たちの経験→→絶対的な真理である事が明らかになります。 向き合っている御言葉を生ける神の言葉として信じ、受け入れ、祈ったり、行ったりしなければ、その人の信仰は全く育ちません。御言葉を信じて、受け入れて、そこで終わる人ではなく、私たちは行う人にならねばなりません。
4)聖書には次のような、ものすごい言葉があります。これを心に留めて置くなら、私たちは命と信仰に関わる一切のもの―――愛、希望、信仰、御言葉の悟り、礼拝、罪の認識、悔い改め、罪の汚れからの清めなどに関わる一切の事は、神が私たちの祈りに答えて与えて下さるものであることが分かります。そして、自力の信仰から解放されます。人間の果たす役割はそれほど多くありません。私たちは自分の判断や力に頼る事をやめて、神により頼もうと決断し、祈り始めること、それが人間の果たすべき分です。後は、主なる神が私たちに教え、満たし、導いて下さるのです。
エレミヤ32章
私は彼らの心に一つの道を与えて常に私に従わせる。それが彼ら自身と子孫にとって幸となる。
私は彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。
また私に従う心を彼らに与え、私から離れないようにする。私は彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かにこの地に植える。・・・私が彼らの繁栄を回復するからである。
Ⅱペテロ1章
イエスは御自身の持つ神の力によって、命と信心に関わる全てのものを、私たちに与えて下さいました。それは、私たちを御自身の栄光と力ある業とで召しだしてくださった方を認識させることによるのです。
この二つの神の言葉が、信仰者にどのようなものを与えると約束して下さっているのでしょうか。
1.神は信仰者に「一つの道」を与える。一つの道とは福音の力、神の力が私たちを永遠の命、愛と希望と信仰によって満たし、また私たちの人間関係を真実と平和で満たし、押し寄せるあらゆる問題に対して勝利を与え、私たちの人生の繁栄を回復するための、その時々の道です。それを神様は私たちの祈りに答えて、御言葉と聖霊の力によって与えて下さるのです。
2.また啓示されたその命と繁栄の道に従う力をも御言葉と聖霊の力によって与えて下さるのです。
3.神は私たちと私たちの子孫に対し、それ以外の「恵みを与えてやまない」また「恵みを与えることを喜びとする」と約束されました。そして私たちを「確かにこの地に植え、私たちの繁栄を回復する」と断言されました。そしてこの約束を「永遠の契約とする」と誓って言われました。これがエレミヤ32章の真実の神の真実の言葉です。私たちはこれをただ信仰と従順によって受けとるのです。何と素晴らしい神でしょう。
この神こそ、私たちの真の神。私たちの希望の神。喜びの神。宝の神。誇りの神ではありませんか。
そのように告白して真実の神をほめたたえましょう。
新約聖書のⅡペテロ1章はこの恵みの契約を「イエスは御自身の持つ神の力によって、命と信心に関わる全てのものを、私たちに与えて下さいました」と簡単に言い切りました。
「命と信心に関わる全てのものは」キリスト御自身が持っておられる神の力によって与えられるのです。このことは非常に重要な事であり、心に刻んでいなければなりません。
言い換えるなら、神の言葉は「信心と命に関わる一切の力は生まれながらの人の中には全くない」と言っているのです。私たちはそれを所有していない。信心と命に関わる私たちの力はあるように見えても、役に立たない。人間の力は信心と命と道を全うする事が出来ないと言っておられるのです。それは神に向かって「下さい、と祈り求めなさい」と言っておられるのです。
生まれながらの古い人の中にも、神の似姿は多少、残っています。しかし「罪の故に死が入った」ので、堕落しているのです。私たちの体には様々な善なるものが残っているのは事実です。しかし、その命も、愛も、希望も、自分を信じ、神を信じる力も、真実も、誠実も、正しさも、ガラス細工のように壊れるのです。押し寄せて来る災い、困難の中で、見ている間にも、崩れ落ち、過ぎ去って行くのです。それは永続性をもたず、当てにならないのです。信頼できないのです。人間は基本的に非力であり、無力であり、全能ではないからです。
決して変化しない神のご性質とは違います。不変の神の力とは全く違います。当てにならないのです。ですから、神は地上に現われて下さった人としての、主イエスが持っておられた「命と信心に関わる全てのもの」を惜しみなくお与えになる主イエスに向かって、祈りもとめるように命じておられるのです。
私たちは今日、「命と信心に関わる」どのような力を必要としているでしょうか。
何でも、知らないこと、持っていないこと、不足している事を、主イエスに向かって祈りましょう
。 たとえば、「神が愛であることは頭で理解しました。しかし、それを経験していません。経験させて下さい」「罪の意味がまだ分かっていません。不道徳が罪であることは分りますが、神を信じないこと自体が罪だということがよく分かりません。分るように教えて下さい」「十字架の意味がまだはっきりと分かりません。分るように教えて下さい」などなどです。神は必ず教えて下さいます。