03.十字架と繁栄の回復
全ての人の罪を赦し、繁栄の回復を成就した主イエスの十字架と復活
セミナー(1)(2)で、私たちの先祖であるアダムとエバが心と体に招き入れた最初の罪について、また、そこから生まれてくる様々な「肉の思い」について学びました。人は「霊と心と体」によって構成されていますが、この罪の故に私たちの「霊と心と体」に死が入ったことを知りました。「人は死んでしまえば、おしまい」「全てが消えてなくなる」と考える風潮が世にありますが、それは神の教えではありません。体が土に戻って、心が消滅しても、霊は永遠に残り続けます。私たちの存在全体に死をもたらせた罪の問題が解決されなければ、残り続ける霊は死の中に閉じ込められたまま、永遠の滅びである火の苦しみの中に悪魔と共に投げ入れられると神は語っておられます。
罪とは何でしたか?それは単なる道徳ではありませんでした。罪の起源は悪魔です。私たちが神の語る言葉に聞き従わないで、悪魔の言葉に聞き従ったこと、真の神を否み、自らの善悪の知識を持って神になろうとしたとき、人は罪を犯したのです。その結んだ実は死であり、新しい天と地の創造のために古い天と地が崩れ落ちる世の終わりの時、真の神に立ち返らない者は悪魔のために用意された、永遠の裁きである永遠の火の中に投げ入れられるのです。
イエス・キリストは今から、2000年ほど前に、旧約聖書で約束されていた通り、全ての人に「罪の赦し」を得させるために来られました。全ての人を神と和解させ、再び神の子とするために来られました。そして「朽ちる事のない永遠の命」を回復させ、「神の栄光に輝く永遠の天の国」に招き入れるために来られました。また、旧約・新約聖書に約束されていた全ての救いと繁栄の約束を実現するために来られました。
多くのキリスト者が実際に受け、経験している「神の満ち溢れる豊かさの全て」は実にイエス・キリストの十字架による「罪の赦し」「罪の贖い」から始まっているのです。もし十字架がなかったならば、誰一人、また何一つ、神の恵みと救いの業を受ける事は決してなかったのです。まことに、イエス・キリストは全ての人の救い主です。
何一つ罪を犯さなかった、正しいお方は正しくなかった全て罪人のために、御自身の命を十字架に捧げられたのです。ここに救い主の人知をはるかに超える愛があります。
また、神は、私たちの身代わりとなった御子を、十字架刑を通して処断されたのです。神の独り子であった御子を十字架にかけ、処断してまでも、私たちを救おうとした神の苦しんだ愛を思います。
十字架を知ることは神と御子の、罪人である全ての人に対する熱愛を知ることであり、私たちの救いと繁栄の回復を望むたぎる思いを知ることです。神の正しさと真実がどれほど人の思いを超えたものであるかを知ることです。知ったならば、私たちが神と御子を真心から愛するようになるのです。
主イエスはこの十字架に上げられる直前で言われました。ヨハネ12章です。
「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。私は地上から上げられる時、全ての人を自分のもとに引き寄せよう」
新約聖書では、多くの箇所で十字架の意味が啓示されています。
ローマ5章
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
Ⅱコリント5章
神は罪を知らない方を私たちの代わりに罪に定められた。
それは私たちがこの方によって、神の義を得るようになるためである。
コロサイ1章
神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
Ⅰテモテ1章
キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られたという言葉は真実で、そのまま受け入れるに値します。
第1章 身代わりの十字架について
神はイザヤを通して、全人類を救った主イエスの十字架の意味について、詳しく啓示しています。私たちの救いのために、主イエスが御自身の十字架を通して、「何を負い」「何を担って下さったか」「私たちから何を取り去って下さったか」を余すところなく、啓示しています。
■預言者イザヤに関するデータ
イザヤの意味=神は助けぬし。BC740-BC690の50年間にわたる預言。南ユダの預言者。
イザヤ53章の預言は、723年以上後に実現したことになります。
イザヤ53章
彼(主イエス)は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。・・・
彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。
彼が差し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼がうち砕かれたのは私たちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって私たちは癒された。
私たちは羊の群、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
その私たちの罪を全て主は彼に負わせられた。苦役を課せられてかがみ込み、彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる子羊のように彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた
。 彼の時代の誰が思いめぐらしたであろうか、私の民の背きの故に、彼が神の手に掛かり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、・・・
病に苦しむこの人をうち砕こうと主(神)は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によってなし遂げられる。・・・
私(神)の僕(主イエス)は多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。
それ故、私は多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い、背いた者のためにとりなしたのはこの人であった。
主イエス・キリストの身代わりの十字架の御業がどのようなものなのか。詳しく、丁寧に見ていきましょう。
1.主イエスは、私たちが互いの罪の故に「軽蔑され、見捨てられた」時の心の「痛み」を負って下さった。
2.主イエスは私たちの罪の故に生じた「病を負って」下さった。
3.主イエスは私たちの受けるべき裁きを負って下さり、「私たちの背きのために彼は差し貫かれ」「私たちの咎のためにうち砕かれた」
4.主イエスの受けた「懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって私たちは癒された」それによって私たちと神の間に、私たちの心と体の中に、人間の関係の中に神からの「平和が与えられた」―――既に学んだ通り「平和」とは「穏やか、健全、繁栄」の意味を含む。
5.私たちが神を否み、自分を神とし、「道を誤り」「それぞれの方角に向かっていた」
「その私たちの罪を全て主(神)は彼に負わせられた」
6.主イエスは私たちの背きの故に「捕らえられ、裁きを受けて、命を取られた」主イエスは「神の手にかかり、命ある者の地から断たれた」
7.「病に苦しむこの人をうち砕こうと主(神)は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした」
8.主イエスは「多くの者が正しい者とされるために」私たちの「罪を負った」私たちは義(正しい者)とされ、神と私たちの間に和解が与えられ、再び神の子とされた。
9.「神の望まれた事は主イエスの手によって成しとげられた」
10.「多くの人の過ちを担い、背いた者のためにとりなしたのはこの人であった」
第2章 その打ち傷によって私たちは癒された。
――十字架の救いの力を経験しましょう――
主イエスはこうして、処断されて、命を取られ、墓に葬られました。そして三日後に蘇りました。これは十字架に続く、私たちの恵みです。神は罪人を救うために身代わりとなって死なれた正しいお方を死の世界に放置なさるようなことをなさいませんでした。神は主イエスを復活させるために、死を滅ぼしたのです。死と罪の力、即ち悪魔の力を滅ぼしたのです。それは主イエスの十字架の救いを信じる私たちが、「死を滅ぼして生かす神の不滅の命の力」が働くためです。
主イエスの「十字架」と「死」と「復活」は、罪の故に死に、滅んで行くしかなかった私たちを栄光の神の子とし、私たちに対して永遠の、完全な救いの道、繁栄の道を切り開いたのです。これは滅びの道を歩んでいた世界史にとって、大きな光です。
ところが、イザヤ53章はまず、最初に互いの罪の故に軽蔑され、見捨てられる心の痛みが癒され、また体の病気が癒されたと語っています。なぜ、心の痛みと体の癒しが最初に語られているのでしょう?
このことは明確にされなければなりません。とりわけ、体の癒しについて「現世利益」として、軽蔑して退ける間違った風潮がときに見受けられるからです。
主イエスは四つの福音書で、その弟子あなたたちは使徒言行録で、連れてこられた全ての病人を癒されました。主イエス・キリストが私たちの心と体の癒し、祝福を非常に重要視しておられる事の表れです。
主イエスはこの世で生きる限り、私たちの心と体を大切にし、健やかにして下さいます。私たちはそのこと故に主イエスをほめたたえるべきです。
主は私たちの霊も、魂も、体も全てを大切に扱つかわれるのです。このことを心に留めておきましょう。
○○○
■■■あらゆる呪(災い)をもたらせる悪の力を打ち砕いた十字架。
また、ガラテヤ3章にはイザヤ53章に書かれていない十字架の意味が啓示されています。
ガラテヤ3章
キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから解放して下さいました。
「木にかけられた者はみな呪われている」と書いてあるからです。・・それは私たちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。
「呪い」とは押し寄せてくる災いの波です。心の痛み、病気、死以外に、人生には多くの災いがあります。
女性について言えば、生理痛、出産の苦しみも、更年期障害の苦しみも、エバの違反から来た呪いです。
家庭のおける不和、職場における争いなど、多くの災いが発生します。
その全てを聖書は「呪い」と呼んでいます。私たちが神の律法に聞き従うなら「祝福される」聞き従わず、これを犯すと「呪われる」と、神は申命記27章で定められています。この定めに従って呪う者(サタン)がやって来て、私たちを呪うのです。
私たちがどのような罪を犯していても、主イエス御自身が私たちの受けるべき呪いをその身に担って下さり、それを十字架に釘づけ、私たちから取り除いて下さいました。私たちは神の子として神によって祝福されているのです。神がキリストによって担われた「呪い」を十字架に釘づけて、私たちから取り除いて下さったのは、「私たちが約束された霊」、即ち神からの「永遠の命」「繁栄の力」を信仰によって受け取るためです。
私たちは呪われているのではなく、祝福されているのです。
ですから、押し寄せる災いの中で、私たちは主の前に立ち、主を仰ぎ見、主に向かって助けを求めて祈らねばなりません。全能の神は私たちの祈りに答えて、嵐を沈め、高い山を平らにし、悪を善に変え、災いを祝福へと変えて下さるのです。主イエスはそのためにおられるのです。あらゆる災い、呪いについて、このことを信じてなければなりません。なぜなら、神の言葉は次ぎのように命じているからです。
ローマ1章
福音はユダヤ人を初め、ギリシャ人にも、信じる者、全てに救いをもたらす神の力です。・・・
それは初めから終わりまで信仰を通して現されるのです。
どのような素晴らしい神の救いの約束(福音)も信じて祈り、行動しなければ、何一つ実現しません。
しかし信じて祈るなら、ことごとく実現するのです。
ですから、主イエスの十字架が切り開いた、すばらしい、救いの力を信じて、現に持っている心の痛み、苦しみ、体の病、その他の災いが癒され、解放されるように、互いに主イエスの御名で祈りあいましょう。
私たちはそれを経験して驚くでしょう。
■■■一つの祈り――――信仰を持って次のように告白しましょう。苦しみと病は具体的に告白して下さい。
私の心のこの苦しみ、この病は、主イエスが御自身の痛みとして担って下さった。
私のこの心の苦しみ、この病は、私の心と体から取り除かれました。
主イエスの十字架が私たちを贖い、完全に救い出した。主イエスの打ち傷によって、私は癒された。
苦しみよ、病よ、お前たちは私たちの体(人生・人間関係)から取り去られた。
私たちは主イエスの十字架によって癒されている。自由にされている。
十字架によって私の救い、癒しを達成して下さった、「主イエスの御名によって」私は言う。
(心と体に力が来るまで、心を尽くして、思いを尽くして、精神を尽くして、全身全霊で告白しましょう)
第3章 罪の赦し、罪からの解放、罪の清めをもたらした
主イエスの血潮の力 (主イエスの血潮の力を経験しましょう)
主イエスは十字架の上で、ありったけの血潮を流されました。神はイエス・キリストの血潮について多くのことを語っています。私たちの日常生活の中で血は「あなたの血液型は?」と言う意味しか持っていませんが、神は「血について」次のように深い霊的な意味を啓示しておられます。そのことについて、学びまししょう。■■■私たちの罪を贖う(赦す)主イエスの血潮
レビ記17章
生き物の命は血にある。私が血をあなた方に与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。
「血」は全ての生き物の「命」であり、「罪と死」からの「赦し」「贖い」は、命である血潮以外にはないと語っておられます。私たちは自分の命(血)と引き換えでなければ、罪が赦され、罪から救われ、神の子の地位を回復する事はないのです。実に厳しい掟です・・・。
しかし、神は私たちを強く愛しておられるので、私たちが血潮を流すことに耐えられなかったのです。そこで、いける神の子であるイエス・キリストが人となって地上に下って来られたのです。
ただの一度も罪を犯したことのない、正しいお方が、正しくない私たちの罪を、身代わりとなって、担うためです。御自身の聖なる命の血潮を流して、私たちの贖いを完成して下さったのです。
マタイ26章
一同が食事をしているとき、イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら、言われた。「取って食べなさい。これは私の体である」また、杯を取り感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。
「契約の血」とはレビ記17章、イザヤ53章によって、イエス・キリストと神との間に結ばれた契約です。
神は真実なお方です。御自身の真実を否む事が出来ません。ですから、神の契約(約束)は必ず実行されます。私たちが契約の片側を実行するなら、神はもう一方を実行に移されます。
罪の赦しだけでなく、その他の救いの約束の実現も、真理の言葉の実現もみな、主イエスの血潮という代価を払った契約が実施された結果なのです。私たちがすべき事をしたならば、神も御自身のすべき事をして下さいます。それは主イエスと神との命を懸けた契約だからです。
「パン」とは「キリストの体」であり、キリストは「神の御言葉」です。ですから、パンとはキリストが語られた全ての御言葉です。 杯に入っていたものはぶどう酒です。それは主イエスの血潮を現しています。血潮はキリストの命そのものです。それを「食べ」「飲む」のです。それは実際的に、どのような意味なのか?
それは私たちの心と体にキリストの御言葉と贖いの力を受け入れることです。キリストの御言葉によって満たされるのです。
私たち、一人ひとりは、今まで自分の心にある言葉によって生きてきました。しかし、これからはキリストの御言葉が私たちの心を満たし、その言葉によって生きるのです。申命記8章で「人がパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった」と書いてある通りです。罪深い人間の言葉の多くは人を殺す死ですが、キリストの御言葉はなんであれ、人を生かす命だからです。
2章の最後で、私たちが学んだ「十字架の言葉」の一行一行を、「十字架の救い」の一つ一つを「私は信じます」と、「私の心と体に受け入れます」と口に出して告白する私たちはキリストの命に満たされます。
またキリストの贖いである血潮を受心に信じて、受け入れると、私たちの罪は赦されます。私たちの心と体は罪の力から解放されます。全ての人の罪が確かに十字架によって赦されましたが、私たちはそれを受け取らなければ意味がありません。私たちは単に無罪放免になるだけではありません。私たちは罪の力そのものから解放され、自由にされるのです。「罪を赦す」とは「罪の力から解放される」ことでもあるのです。
そうすると、キリストの命によってますます力強く満たされます。罪が赦される事と命に満たされる事は一つの事です。命に満たされる事と罪が赦される事も一つの事です。二つを分けることが出来ません。
■■■罪の汚れを清めるイエスの血潮
新約聖書では、キリストの血潮による「清め」についても啓示されています。
ヘブライ9章
神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
「清める」という限り「汚されている」私たちがいるのです。汚れていなければ、清める必要はありませんから。「死んだ業」とは「あれこれの罪」「さまざまな肉の思い」に従って、突き動かされて、行動することです。主イエスの血潮は罪や肉の思いの汚れから私たちを清めると教えています。
では「清める」とは実際的にどのような意味でしょう。
直後の御言葉にヒントがあります。キリストの血潮で心と良心が清められたなら、私たちは「いける神を礼拝する事が出来るようになる」と啓示されています。清められないなら、私たちは礼拝出来ないのです。つまり汚れは私たちの良心を覆い、神を慕い求める心を覆って、私たちに生ける神を礼拝出来なくさせる罪の力です。死の覆いです。
セミナー(1)で、「罪の故に死が入った」「罪の報酬は死である」という、神の言葉を学びました。
ですから、「汚れ」とは、私たちの体、心、良心を死によって覆う罪の汚れです。
生ける神を礼拝するには純真な信仰、慕い求める心、清い心、心からの賛美が必要です。罪の故に心に死が入り、心が死に覆われるなら、人は全く礼拝出来ません。
主イエスの「十字架の言葉」「流された命の血潮」はその死の力を滅ぼし、拭い去って下さるのです。すると、私たちは神を礼拝出来るようになるのです。ですから、「汚れから清める」は「死の覆いから解放される」という事になります。
主イエスの血潮が神を礼拝出来るようにする力であることは、ヘブライ9章に続いて、次のように啓示されています。
ヘブライ10章
私たちはイエスの血によって聖所に入れると確信していいます。
「聖所」とはどのような所でしょうか。
「聖所」は、旧約の時代に、神殿の構造の中に現われました。
旧約の時代、神を礼拝する場所は神殿でした。神殿は「前庭」→→「聖所」→→「至聖所」から構成されていました。人はまず、神を賛美しながら、「神殿の前庭」に入りました。そこで、二つの儀式をしました。一つ目は洗盤の「清い水」を体に振りかけ、また手を清めたのです。二つ目は捧げ物の動物の頭の上に手を置いて、自分の罪を告白し、その罪を動物に移したのです。それから、動物をほふり、その血を祭壇に振り掛けたり、塗ったり、祭壇の基の地面に流したのです。人間の罪の汚れから、自分の体と祭壇を清めるためでした。その上で初めて、「聖所」へと進みました。ほふられた動物の血は、やがて実現する主イエスの血潮による罪の赦しと清めを象徴しています。
聖所では燭台とパンが置いてありました。燭台は聖霊の火の象徴であり、パンは御言葉の象徴でした。
新約の時代では、人は聖霊の燈に照らされて、生きた御言葉を拝読しますが、旧約はこのことを象徴的にしか行えなかったのです。なぜなら、旧約の時代に、生きた御言葉であるイエス・キリストもキリストを証しなさる聖霊様もまだ現れておられなかったからです。この恵みは新約の時代まで待たねばならなかったのです。
それから至聖所に進んで行きました。
至聖所の正面には香壇があり、その奥には「契約の箱」がありました。香壇から立ち上る煙は、祈りの象徴です。契約の箱にはモーセがシナイ山で神から授かった十戒を刻んだ石の板が安置されていました。それは、神の御臨在そのものの象徴です。祭司長はそこで神を礼拝し、神と交わり、あらゆる願いと祈りを捧げ、全ての民のためにとりなし祈りました。神の栄光はその所に現われたのです。
この神殿の構造と礼拝の順序は、新約の時代において、私たちがいかに神を礼拝しすればいいのかを暗示しています。
「礼拝」とは主なる神との交わりです。神が人と一つになって下さり、人を覆い満たして下さり、そのことを通して礼拝者が神の似姿を回復する素晴らしい喜びの場所です。またあらゆる祈りと願いを捧げて、抱えている問題の上に神の統治の力が介入して下さる、その救いが始まる時でもあります。「礼拝」は全ての神の子が神の救いと繁栄を現実に受け始める最も大切な時です。
礼拝を尊ぶキリスト者と礼拝を怠るキリスト者の間には歴然とした、人格上の、生活上の、繁栄の違いが生まれます。
私たちが賛美の歌を歌いながら、主の門をくぐり、前庭において自分の罪を告白し、キリストの血潮による赦しを受け取り、その上で、聖所に到達します。聖所で聖霊の光に照らされて御言葉を食べ、御言葉を心に受け入れ、次に私たちは至聖所に到達します。そしてその所で、受け入れた御言葉に従い、祈りと願いを捧げるのです。栄光の御臨在に覆われ、満たされ、導かれて、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられていきます。ですから、礼拝を尊ぶ人と軽んじる人の間に、天と地ほどの違いが生まれるのは当然です。
もし、この順序の一つ一つを無視して、主の門をくぐり、前庭に入り、聖所に行ったとしても、聖霊の光に照らされる事は出来ません。また御言葉の意味を悟る事はできません。また、そのまま神の御臨在の前に立ち、神を礼拝し、交わり、祈りと願いを捧げようとしても、全く出来ません。出来ないのです。
ですから、罪があれば、十字架の前に立ち、罪を告白し、赦しを受け取り、十字架に釘づけ、血潮によって清められ、聖所に進みます。罪がなければ、主を仰ぎ見て、清い水=清い霊を注いでいただき、体と心の汚れを清められて、聖所に進むのです。これは大変重要な事です。
御言葉の意味が分からない時、祈る事ができない時、聖霊に満たされない時があるなら、礼拝の始まりである主の門において、私たちはなすべきことをしていないのです。罪の問題について、汚れの問題について、私たちがすべき事をするなら、聖所でも、至聖所でも、神は私たちに恵みをお与えになります。
■■■キリストと私たちを一つにする主イエスの血潮
ヨハネ6章
私のパンを食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。
父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。
この御言葉は既に学んだマタイ28章につながっています。
キリストの御言葉を心に受け入れ、キリストの贖いの血を信じて受け入れる者は、罪を赦し、清め、解放を受けて、キリストの命で満たされるのです。その人はいつもキリストの内におり、キリスト御自身もその人の内におられる。これは驚くべき恵みです。私たちはキリストによって覆われ、満たされると定められているのです。キリストが父の御言葉と霊的な命によって生きているのと同じように、私たちはキリストによって生きるのです。生かされるのです。
何と素晴らしい、定めでしょう!?私たちは主と一つになり、主の御言葉と命の力と一つになるのです。
なんと素晴らしい恵みでしょう!?主の愛と希望と信仰と一つ、平安と知識と一つです。これは驚くべき恵みではありませんか。私たちはその時、キリストのようです!
これは神と御子イエスとそれを信じるもの全ての間に結ばれた契約なのです。
私たちがこの御言葉を信じて、御言葉が語っている通り行うなら、神も私たちに約束した事を間違いなく実行なさいます。それが契約の意味です。ですから、この神の言葉を信じて、その通りにしましょう。
主イエスが約束なさった通りのことが実現します。
第4章 救い主・イエス・キリストを信じるなら、再び神の子とされ、神の似姿を回復する。
■■ヨハネ1章言(ことば)(イエス・キリスト)は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
アダムとエバは神の似姿に造られた神の子でした。神の律法に違反し、悪魔の言い分に従ったために、エデンの園から追放されました。私たちも、かつて、神の律法(あるいは心の良心)の命じる所に背き、神の恵みを受けられず、むしろ滅びの道を進んでいました。
しかし、主イエスを信じる信仰によって、私たちは「義とされ」「神の子」となる資格を回復し、神が永遠であるように、「朽ちる事のない永遠の命」を授かります。そしてあらゆる点で天の父の姿に、また、主イエスの姿に似るように養育されていきます。
ライオンの子はライオンになり、鷲の子は鷲になります。親はまたそのように子を養い導きます。これは自然界における神の摂理です。同じように「神の子」は、「天の父」に従って行くなら、天の父に似たものになります。また天の父は主イエスを通して、私たちを神の子の実際を持つように養い導かれます。
何と素晴らしい事でしょう!
神の子は、父なる神の御言葉と父なる神の御霊に導かれて養育されて行きます。私たちが信仰と従順によって歩み続けるなら、私たちはその実際、命の繁栄、生活の繁栄を回復します。
私たちはそのために必要な全てのものを、信仰による礼拝と祈りを通して父である神から受け取ります。
これは素晴らしい人生ではありませんか?
■■ヨハネ3章
神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。
ここでは信じる者は「永遠の命を得る」のに「信じない者は既に裁かれている」と断言されています。
私たちにもイエス・キリストと何の関係もなかった時代があります。その時代、私たちは「既に裁かれている」人生を生きていたのです。私たちはキリストから何も受け取ることが出来ませんでした。私たちが神を否んだ故に、神も私たちを子として扱う事が出来なかったのです。
神に所有されていない時、神を所有していない時、人は誰でも、自分を神とし、自分の力に頼って人生を生きる以外にありません。しかし人は神なしでは、人生を生き抜くことが出来ないように創造されているのです。私たちは自分の力で解決できない多くの行き詰まりを経験します。最後の行き詰まりは死です。
人は誰一人、自分の力で、「死の問題」を解決する事が出来ません。
葬式だけが死ではありません。希望の死、愛の死、熱情の死、活力の死、心の死、知性の死、関係の死があります。人はこの死を解決する事が出来ません。しかし、生きているのは名ばかりで、実は死んでいる状態になります。それが神の裁きです。
神は全ての命の源です。私たちがそれを捨てるなら、神は私たちを救うことが出来ません。全てを生かす神に所有され、全てを生かす神を所有する事が出来ません。これが既に裁かれている状態です。
主イエスは来られました。神の独り子である御自身を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るために。キリストが授けて下さる「永遠の命」が私たちの全てに及びます。希望の命、愛の命、熱情の命、活力の命、心の命、知性の命、関係の命、そしてお葬式を超えて生きる命です。
「私を信じるものは死んでも生きる。生きていて私を信じるものは決して死ぬ事はない。あなたはこのことを信じるか?」とイエスは問われました。私たちはどうしても、この神に所有され、この神を所有しなければなりません。私は信じることを決断しましょう。そうすれば、キリストの命が私たちの霊をとらえ、心と体をとらえて下さいます。私たちはキリストのものとなり、キリストは私たちのものになるのです。
■■参考――――求道者を救いへと導く祈り。
今日、「既に裁かれた」人生からはっきりと救い出され、はっきりと永遠の命を受け継ぐために、心からキリストに向かって信仰を告白しましょう。自らの罪を告白し、罪の赦しを受け取りましょう。そして永遠の命の中に招き入れられて行きましょう。
その前に次の御言葉を信じて、心に受け入れると告白しましょう。そうすれば、私たちの内に永遠の命を受けると言う確信が生じるでしょう。父なる神様、どうか以下のローマ5章の御言葉が私たちを照らす光となり、命となり、私たちの内に強い確信が生まれるようにして下さい。主イエスの御名によって祈ります。
ローマ5章8節-10節
私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示された。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
■■求道者と共に、罪を告白し、赦しを受け取り、神の子とされるために祈りましょう。
Ⅰヨハネ1章
自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいお方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めて下さいます。
歴代誌下7章14
もし私の名をもって呼ばれている私の民が、ひざまずいて祈り,私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。今後このところで捧げられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでもとどめる。
私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。
■■神の子とされる祈り
父なる神様、アダムとエバがそうであったように、私も永遠の命、真理、正義の源である神様を否み、自分の正しさ、判断、力を神として今日まで生きてきた事を認めます。その結果、自分の良心が願うようには生きる事が出来なかった多くの時があったことを認めます。またあなたの助けのない人生の中で、重荷を負い続ける事に疲れ始めている事を認めます。
また、それが真実の愛をもって私たちを愛して下さったあなたに対する罪であったことを認めます。御自身の命を懸けてまで私たちを救って下さるほどに、私たちを愛して下さったイエス・キリストに対する罪であったことを認めます。
しかしイエス・キリストの十字架の身代わりの死、流された聖なる命の血潮、また、「これらの罪を彼らに負わせないで下さい。自分で何をしているのか分かっていなかったのです」という命がけのとりなしの祈りを通して、これらの全ての罪が赦された事を知りました。その結果、再び神の子とされ、永遠の命を受けるように道が開かれた事を知りました。今、私は救い主、主イエス・キリストを信じ、主イエスの御名によって、父なる神様、あなたに立ち帰ります。
主イエス様、どうか私の罪を赦し、罪の汚れからも私を雪よりも清くして下さい。
私の内に永遠の命であるあなた御自身をお迎えさせて下さい。
そして、どうか私の人生を導く救い主となって下さい。
神の子としてあなたの豊かさの全てにあずかりながら、今後の人生を全うしたいと思います。
感謝してお祈りします。