神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

02.肉の思い・罪の力からの解放



第1章 神はなぜ御自身に似せて人を創造されたのか。

■■■人が神の似姿に創造された意味

詩篇8編4節―7節
あなたの天を、あなたの指の業を私は仰ぎ見ます。月も星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心にとめて下さるとは人間とは何者でしょう。
人の子とは何者でしょう。あなたが顧みて下さるとは。
神にわずかに劣るものとして人を造り、なお栄光と威光の冠をいただかせ、
御手によって造られたものをすべて治めるように、その足下に置かれました。


創世記1章26節では、神が人を御自身に「かたどり、似せて」創造されたことを学びました。
それは「全ての生き物を支配させよ」という神の御心のためであったことも学びました。
創世記1章26節を改めて読み直してみると、その直前に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と命じられています。これはどのような理由があったのでしょうか。
悪魔の支配していた大地に突然、神の国である「エデンの園」が出来上がり、神は二人に園を治めるように命じられました。しかし、それだけなく、大いに人口を増やして地に満ち、園だけでなく、悪魔の支配していた全地を治め、悪魔そのものの支配を終わらせるように期待されたのではありませんか。
神のこの御計画に対して悪魔は強い危機を感じたに違いありません。
それでアダムとエバが置かれたエデンに悪魔が入ってきました。二人を神から引き離し、悪そのものである自分の支配下、罪の支配下に置くためではありませんか。自分の支配権を守るため、神の御計画を挫折させることではありませんか。
この悪魔のアダムとエバに対する感情は、今日も神の子とされた教会にとって重要な示唆になります。
「エデンの園」はそれぞれの教会が置かれている小さな神の国です。アダムとエバはこれから多くの神の子を生んでいく教会の初めの姿です。最初の二人に「生めよ、増えよ、地に満ちよ。地を従わせよ」と言うのは、全地に教会が満ち溢れ、教会が全地を従わせよ」と言う神の御計画ではありませんか。
1990年代の後半から、教会の歴史は、教会そのものの命の繁栄の回復、そして村、町、都市そのものの救いの時代に突入しています。アダムとエバに対する神の御計画は、悪魔によって挫折させられたかのように、創世記の時点では見えますが、決してそうではありませんでした。
また最初の人・アダムとエバの時代、神は直接この地を統治なさらず、二人の人を通してエデンの園と全地を治めようとされたのです。この神の御心は今日も変わっていません。神様は全地を正しく治める使命を今日も教会に与えておられます。ただ教会の働きを通してのみ、神は御自身のご支配をこの地上に及ぼされます。ですから、教会が怠惰になって、自分が救われただけの自己満足にとどまるなら、神の正義、愛、真実、喜び、平安、繁栄の支配は何時までたっても全地に及ばないのです。神は教会の信仰、祈り、行いを通してしか、何事もなさらないのです。神はその事を創世記の初めから、啓示しておられたのでした。

■■■栄光と威光の冠とは何か。

詩篇8編では、神は人を御自身に「わずかに劣るものとして創造された」と啓示されています。
そして、その人に「栄光と威光の冠りをいただかせ」とあります。「足下に置かれたものを全て治める」ためにです。
「栄光と威光の冠」とは何か。それを戴かせるとは、実際上どのような事を意味するのか。
「栄光」とは単に輝き、光ではない。Ⅱコリント3章18節に次のようにあります。
私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

神の栄光に照らされたならば、私たちは主と同じ姿に造りかえられるのです。栄光は私たちを作り変える神の力であり、しかも主と同じ姿に造りかえる力であることが分かります。また主イエスは「私の命は光である」「言葉は光である」と語っています。ですから、栄光の冠とは栄光に輝く神と言葉と命(御霊)の力のことだと分ります。
「威光」についてはハバクク3章3節―5節に次のようにあります。
聖なる方はパランの山から来られる。その威厳は天を覆い、威光は地に満ちる。
威光の輝きは日の光のようであり、そのきらめきは御手から射し出でる。
御力はその中に隠されている。疫病は御前に行き、熱病は御足に従う。


主の威光の輝きの中に、神の力があり、その力の御前に疫病(の霊)、熱病(の霊)が、従うほどのものだと、啓示されています。それは全てを従わせる権威であることは明らかです。

私たちが「栄光の冠と威光の冠を戴かせられる」なら、私たちは栄光の御言葉と御霊の力によって、主と同じ姿に造りかえられ、更にその上に、神の権威を授かり、全ての造られた者を治める。そのように神の子は成熟していくのです。
神は私たちを非力、無力のまま、全ての造られたものを統治せよとは、命じられるつもりはありません。
私たち教会に主の栄光と威光の力を授け、この地の全てを、主なる神は統治させるおつもりなのです。
それは旧約の時代から定められていたことです。
使徒言行録1章・2章には「水のバプテスマ」についで、「聖霊と火のバプテスマ」の約束と実現が記録されていますが、この「水のバプテスマ」につぐ、「聖霊と火のバプテスマ」こそ、「栄光と威光の冠りをかぶせられる」実際上の意味であり、実現でもあります。
私たちが「水のバプテスマ」を受け、ついで「聖霊と火のバプテスマ」を受け、神に名指しで召命され、それぞれの場所へと遣わされて行く。その場所で神の正義・公平・真実を実現し、愛・喜び・平和を実現して行くことこそ、人類が神によって創造された根源的な意味なのです。
ですから、この使命を果たそうとしない者が「栄光と威光の冠を戴く」ことは、ありません。もし、果たそうと志を高く定めるなら、二つの冠りを必要になり、受けるのです。
私たちはここに向かって全ての求道者を信徒へ、信徒から主と共に統治する弟子へと導くことを心に定めねばなりません。主御自身がマタイ28章18節―20節でこのように命じておられます。
私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことを全て守るように教えなさい。
私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。


「弟子」とはどのような人でしょうか。
それは全ての点において、主人のすることを見て、同じことをする人です。キリストは私たちに対して、また他の人に対して、何をして下さったでしょうか。主が行われた通りに私たちも行いましょう。「天と地の一切の権能を授かっている」主が「世の終わりまでいつも私たちと共におられる」ので、このお方の力を受けて、このお方と共に私たちも全てを治めるのです。
ある人は家族を養い、治め、ある人は職場で仕事や人を養い、治め、ある人は町や都市を養い、治め、ある人は教会を養い、治めるのです。


第2章 日常生活に現れる罪と死の力。


■■■「肉の思い」は死である。

ローマ8章6節―7節
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法(良心と言っても同じ)に従っていないからです。従いえないのです。

神は断言されました。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」「霊の思いに従う者は神に敵対している」
つまり、私たちが「肉の思い」を持ち続けるなら、必ず全てが死ぬ。一方、私たちが「霊の思い」を持ち続けるなら、私たちは必ず命を得、平和の内に生きる、と御言葉は語っています。「肉の思い」の中には、日常生活に普通に出てくるものもありますが、だからと言って、侮れないのではありませんか。
それは次のようなものです。
マルコ7章20節
人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。
みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。


   これらの「肉の思い」は単に人柄の悪さの問題ではありません。また単なる恥の問題でもありません。
これらを「悪」と神の言葉は呼んでいます。ですから、「肉の思い」「悪」の問題であり、「罪」の問題です。
「悪」とは何ですか。すでにセミナー(1)で学びました。それは悪魔に源を持つ罪の力です。「肉の思い」も「悪の力」「罪の力」、つまり悪魔に源を持つものです。そこから生み出されてくるのです。
「このことは重要です。心に留めて置いて下さい。それは人間の品性の問題ではすまないのです。
それは悪魔と呼ばれている、この世の支配者・悪霊に属する問題なのです。

御言葉は語っています。「肉の思い」は心から出て来て、人を汚します。自分だけではありません。相手も汚すのです。ですから、「肉の思い」に従った発言や行いは人々に嫌がられます。人を傷つけたり、いやな思いをさせたり、汚したりするからです。
ここでは「悪い思い」と名づけられています。「無分別」も含まれている事に注意しましょう。
私たちの熟慮しない発言や行動は死をもたらし、人を汚すのです。
テモテへの第二の手紙3章2節―5節
人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。


「自分自身を愛し」というのは、この場合、利己的なり、全く人を省みない事です。人は神によって「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられています。自分を尊ばない人は、隣人を尊ぶことは出来ません。

付点がつけられているところを見れば、これらの「肉の思い」が単に、恥ではなく、あってはならない「悪」であり、「罪」だという事が誰の目にも明らかではありませんか。
慈しみ、思いやり、赦そうとする思い、悪かったと悔いる心、親切、善意、純真、気高かさ、などのあらゆる「善」が神から、又、「良心」から出ているように、あらゆる「悪」は一つの「悪の根」「罪の根」から出ているのではないですか。それはすでに明らかにしたように、その根とは悪魔と呼ばれているものです。
ですから、一見、「愚か」としか思えない「肉の思い」――「無分別」「自分自身(だけ)を愛し」「金銭を愛し」「和解せず」「節度がなく」「軽率」「思い上がり」なども、悪い霊の力が働いた結果、生まれたのではありませんか。
ガラテヤの信徒5章19節
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。


ここでは「肉の業」とは「肉の思い」が行う業のことです。
その中でも「利己心」は日常生活の中に絶え間なく現われていますが、それは人間の罪深い本性の中心をなすものです。自分の欲求の満足を第一とする性質、自分のことしか考えない性質、人のことを思いやる事のできない性質とも言い換えることが出来ます。
これらの事を行う者は「神の国」を受け継ぐことは出来ません。これは忘れてはならない大切な言葉です。
「神の国」とは神の力が及んでいる所です。神の栄光に輝く命、神の正義と真実と公平、神の愛と喜びと平安、神の知恵と知識が統治している場所です。
主イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて、この福音を信じなさい」と言い続けられました。信仰によって、この世にいながら「神の国」の統治を受けられるためです。
やがて罪深い、古い世が滅ぼされ、「新しい天と地」である「永遠の神の国」が実現する時がきます。
それは人類と世界が全ての罪の力、悪魔の支配から解放される時です。それは罪に支配された「世の終わり」の時でもあります。悪魔の支配が人間の体からだけでなく、全世界から追放され、永遠の滅びの世界に投げ捨てられる時です。
その時、神様に立ち返り、主イエスにつながらないなら、「栄光の神の国」を受け継ぐ事ができず、悪魔と共に永遠の滅びの中に引きずり込まれてしまうのです。

■■■罪のゆえに、誰一人命を保てない。
「肉の思いは死である」と定められた神は、更に端的に語られています。
エゼキエル7章13節
罪のゆえに、誰一人、命を保つ事は出来ない。


「命」には二つあります。
一つは神が私たちに下さる永遠の命、朽ちる事のない命、霊的な命です。
もう一つは、生物学的な命、生まれながらの命、天然の命、やがて朽ちていく命です。
罪の故に両方が死んでいきます。滅んで行きます。自然の世界に自然の法則があるように、これは神が定めた命と死の法則です。誰もこの法則から自由になる事は出来ません。
罪の故に、全ての人が生きることが出ないようになり,やがて死んでいきます。
キリスト者が罪を犯すとどうなるでしょうか。神によって与えられていた永遠の命、霊的な命が、たちどころに、取り去られていきます。その時、キリスト者は自分の心と体が死んだように感じます。先ほどまであったはずの命が、どこにもなくなっているのを感じます。そして、いらだち、怒り、思い煩い、不安などのあらゆる「肉の思い」が、心に再生してくるのを感じます。キリスト者は生きているのは名ばかり、実は死んでいるようになります。つまり、世の人々と全く同じ姿になります。もしくは、キリスト者になる以前の姿に転落していきます。
私たちは苦しみの中で、罪を告白し、悔い改めて、助けを求めるなら、神は喜んで、再び私たちに御自身の命をお与えになります。キリスト者の心が死に、人間の関係が死んでいるのなら、その人は罪の中にいるのです。キリスト者の心が生き人間の関係が生きているのなら、その人は神の中にいるのです。
罪を罪として認めて罪を告白するなら、神の赦しを求めるなら、罪からの救いを神に訴えるなら、私たちはたちどころに、死から命へと救い出されます。主イエスは罪人を救うために来られたからです。罪を取り除くために来られたからです。なんと、ありがたい事でしょうか。
私たちはどのような小さな罪でも、気づいた時に直ちに、告白し、再び命を得るようにしなければなりません。何時までも、罪が自分を支配していることを、放置し、容認してはいけません。失った命を回復する事が次第に難しくなるからです。

■■■罪を罪として認めて告白しない者を神は救うことが出来ない。
イザヤ59章1節―2節
主の御手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて救えないのではない。
むしろお前たちの悪が神とお前たちの間をへだて、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けるのを妨げているのだ。


どのような罪でも私たちに死をもたらせます。死は私たちの心におよび、体におよび、人間と人間の関係におよびます。すべてが死んでいくのです。
ここでは私たちが罪を犯し、その罪を罪として認めて、告白しないなら、また神の赦しを求めて、神に立ち返らないなら、神と正しい、親しい関係も死んでいく事が啓示されています。神様は私たちを退けられます。罪が神と私たち(神)との間を隔て、関係を敵対的にします。
ですから、罪を捨てないで、持ったまま、私たちがいくら祈っても、神は何一つ答えられません。
それどころか、与えられていた命も聖霊も取り去られます。これは神の懲らしめです。
しかし私たちがこの罪を悲しみ、「私は罪を犯しまた。私を赦し、あらゆる罪の苦しみを取り去って下さい」と言うなら、神は私たちを喜んで赦し、罪の苦しみから私たちを自由にして下さいます。そして私たちの祈りと願いに耳を傾け、答えて下さいます。何と真実な神でしょう。
次のようにローマ6章23節で言われている通りです。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命です。

これら「肉の思い」を含むその他の「あれこれの罪」は人種や国籍や時代を超え、性別や年齢を超えて、全ての人が持っています。それはアダムとエバから受け継いだ「悪の根」「罪の性質」「悪の泉」から、湧き上がってくる悪の命です。それはほとんど神の意思と関係なく、抗し難い条件反射のように、日常生活の中に絶えまなく現れます。
これこそ、私たちの人生を暗くし、苦しめ、人と人の関係を実際に壊すものです。また、「神の似姿」に創造された人間の気高さ、豊かさを実際に破壊するものです。即ち、私たちの敵です。この認識が非常に大切です。
私たちを不幸にする者は私たちの敵です。私たちに苦しみを与える者は私たちの敵です。私たちを死に至らせる者は私たちの敵です。ですから、罪は私たちの敵です。神の敵です。私たちは神の子ですから、体と心に働く罪を敵と見なす事ができます。神の子の中にはキリストの命が宿っていますから、神の子は自分の体と心に働く罪を敵と見なす事ができます。それを敵と見なせば見なすほど、神の子は雄々しく罪に対して立ち上がることが出来ます。そして罪に支配されている体と心を、神の子の統治の下に取り返すことができます。それが罪を罪と認めて告白し、赦しを受け取り、清められる意味でもあります。

罪の問題を解決しない限り、神と人との関係、人と人の関係に平和がありません。神の命、力、自由、平和を受けられません。家庭の繁栄、職場の繁栄がありません。命の繁栄がありません。死は全ての領域に及ぶからです。
私たちは罪深いもの、卑しいものを持ち続けるでしょう。悪魔から来た悪の力、罪の力をも身にまとい続けるからです。誰が私たちをこの罪から救い出すでしょう?
私たちの救い主、イエス・キリストです。この方は悪魔を滅ぼし、私たちの内に働く全ての罪の力を滅ぼし、全ての死を滅ぼすために来られました。私たちに永遠の命を回復し、神の似姿を回復し、もとの繁栄を回復し、統治力を回復し、神の国をこの世に生きている間から受け継がせるために来られました。
私たちの良心によらず、知恵によらず、修行によらず、力によらず、御自身の救いの力によって、私たちを罪と死の世界から救い出して下さいます。御言葉は語っています。
使徒4章12節
他の誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

ローマ8章1節―3節
キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放しているからです。肉の弱さのために律法(良心)がなし得なかった事を、神はして下さったのです。


神の言葉は「キリスト・イエスによって「命をもたらす霊の法則」が、「罪と死の法則」から私たちを解放している」と語っています。「法則」とうのは、全ての人に適応され、必ずそうなるという「力」の事です。例外はありません。
言い換えるなら、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の力が、罪と死の力から私たちを解放している」と御言葉は語っているのです。私たちがイエス・キリストにつながり、キリストの命の力が私たちの中に注ぎこまれてくるなら、私たちは罪と死の力から解放されます。


第3章 罪を告白する者は、赦され、罪からも解放される。


■■■罪を罪として認め告白する人は、神によって祝福されます。
自分の罪を認めて、告白し、赦しを受けとることを嫌がる人がいます。また、罪を告白しても、自分を責め続けて、赦しを受け取れないで苦しみ続ける人がいます。それは真心から、罪を告白する人を神御自身がどのように思っておられるか、理解していないからではないでしょうか。
Ⅰヨハネ1章9節
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めて下さいます。

「罪」とは神の律法、掟に背くことです。律法を知らない人に対しても、心の良心が律法です。律法に違反すれば、神は正義・公平・真実な神ですから、罪を見過ごしたり、曖昧になさったりしないで、正しく、公平に、真実な心で、私たちを懲らしめ、裁かれます。
「罪を赦し」というのは、無罪放免です。神は情け深い、慈しみ深い、愛の神でありますから、罪を罪として認め、正しい生活に立ち返る人を喜んで赦されるのです。「清める」とは罪の汚れ、死の汚れから、すすぎ清められる事です。心があらゆる汚れから、自由にされるということです。
「あらゆる不義から清める」というのは、あらゆる罪の結果、生じた汚れから清めるという意味と、再び罪を犯させる罪の力そのものから清め、自由にするという意味を含んでいます。ですから、私たちが罪を告白するとき、口先だけであってはいけません。真心から悔いて、悲しんで、告白しなければなりません。おざなりな、口先だけの罪の告白を神はお受けになりません。
歴代誌下7章14節―16節 もし私の名をもって呼ばれている私の民が、ひざまずいて祈り,私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。今後この所で捧げられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでもとどめる。私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。

悪の道を捨てようと心に決め、罪を告白すること、そのために神の御前にひざまずく事は何と素晴らしい祝福に直結している事でしょう。神は何とそんな私たちを喜んでおられる事でしょう。
神は私たちの罪を赦して終わりになさいません。それどころか、悔い改めた心の場所から捧げる祈りに神の目は向けられ、耳は傾けられる。その場所を選んで、神の聖なる神殿とし、神の御臨在を何時までもとどめて下さる。たえず、私たちに目をむけ、心を寄せて下さる、と言われるのです。
神は本当に罪を悲しむ私たちを心の底から喜んでおられるのです。その神を知って、私たちも喜ぶのです。
罪を告白する事、悔い改めることは決して苦しみではありません。神の愛はそこに溢れ、私たちはその愛に清められます。罪に傷ついた心は癒され、新しい、高い心が与えられ、聖なる者とされます。
それは大きな、大きな喜びに違いありません。私たちと神様の間は更に親しくなり、近くなり、ますます神を愛するようになるでしょう。
主イエスはルカによる福音書7章47節で語っておられます。
「この人が多く罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分る。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と。

罪を告白するとき、神は私たちに「私の名を求める」ように命じられますが、なぜでしょう?
これは大切な真理を含んでいるのです。
「罪を赦す」と言う時の「赦す」というギリシャ語には、「解き放つ」「自由にする」という意味が含まれています。「赦す」というのは単に罪を問わない、無罪放免というだけの意味ではありません。それは「罪の汚れ」「罪の力」からも私たちを解き放つ、自由にするとい非常に大切な意味を含んでいます。
神が私たちをそのように真実をもって扱って下さるなら、私たちは罪を犯して罪責感からも解放されます。また同じ罪を再び犯す可能性が少なくなり、やがて、なくなります。神はそのために、「私の名を求めよ」と命じておられるのです。神御自身がそのようになさるためです。
もし私たちが神の名を呼ばず、神の前にひざまずかず、神を仰ぎ見ないで、自分の犯した罪を告白し続けるなら、深い自己嫌悪と罪責感に襲われ、死にたくなるに違いありません。これは十分に注意して下さい。
私たちは自分自身の心に向かって、他の人に向かって罪を告白してはいけません。ただ、私たちの救い主である神に向かってそうすべきです。
このことは非常に重要な事です。必ず、神の名を呼んで、神の御前で罪を告白し、赦され、清められましょう。そうすれば、救いの神が私たちに新しい心、清い心、癒された健やかな心を授けて下さるのです。

■■■罪を告白するなら、聖霊を受けます。
使徒言行録2章38節 悔い改めなさい。めいめいキリスト・イエスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。

「聖霊」とは神様御自身であり、神様の命そのもの、力そのものです。その聖霊の中に変わることのない神の愛と力、喜びと平安、信仰と希望と祈り、正義と公平と真実などの全てが隠されています。
それは何時、受けるのでしょう。何時、それによって満たされるのでしょう。
神に向かって罪を告白し、神に立ち返り、赦しを受け取る時です。それは洗礼を受ける時でもあります。
「洗礼」とは単なる宗教的な儀式ではありません。それは古い自分の命を捨てて、神が与えて下さる新しい命の世界に入れられることです。弱り続け、次第に死んでいき、やがて永遠の滅びへと転落して行く命を放棄して、日ごとに豊かになり、死を超えてなお生きる命に生きることを受ける事です。
命の源である神を認めず、自分を神として生きるしかなかった人生から、命の神につながり、満たされ、養われて、人間の繁栄の回復への道を歩み始める事を意味します。罪の奴隷となって滅び行く人の姿から、栄光の神の似姿に向かって歩み始める事を意味します。それらの全ての事が主イエスを通して与えられる聖霊様の力が成しとげて下さいます。

「罪」が私たちと神の間を隔てることはすでに学びました。しかし私たちの体から罪である「肉の思い」が消えていけば行くほど、神と私たちは親しい近い関係がますます生まれます。私たちは実際、神を内に強く感じ、神に包まれている事をはっきりと感じ始めるのです。
また「肉の思い」が消えて行けば行くほど、私たちの祈りは速やかに聞かれます。福音は初めから終わりまで、信仰によって実現するのですが、「肉の思い」を多く残し続けると、信仰そのものを持つ事が、全く不可能になります。ですから、私たちは次の御言葉にとどまりましょう。
詩篇18章21節―25節
主は私の正しさに報いて下さる。私の手の清さに応じて返して下さる。
私は主の道を守り、私の神に背かない。私は主の裁きを全て前に置き、主の掟を遠ざけない。
私は主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る。主は私の正しさに応じて返して下さる。



第4章 主を仰ぎ見、主の御名を呼び求める者は、皆、救われる。


■■イザヤ45章21節―22節――――主を仰ぎ見て、救いを得る。
私をおいて神はない。正しい神、救いを与える神は私の他にない。
地の果ての全ての人々よ、私を仰いで救いを得よ。


両手を広げて、心の目で神様を仰ぎ見ましょう。その時、救いがくだって来る事を素直に信じましょう。
「救い」とは、単に「肉の思い」から助け出されるというだけの意味ではありません。
「救い」とは、神の命、死からよみがえったキリストの命が私たちの心と体を包み、満たす事です。
両親から受け継いだ自然の、朽ちていく命から、神が私たちの内側に与えて下さる新しい、朽ちる事のない命で満たされる事です。それは新たに生まれ変わる事です。また日々、新たに生かされて行くことでもあります。
もともと「救い」と言うギリシャ語には「健全になる、力強くなる、繁栄する」という意味が含まれています。ですから、罪の力、死の力から助け出す神は、私たちに健全な心と体を与えるために、私たちの心と体を御自身の命によって満たして下さるのです。その時、私たちは本当に生まれ変わるのです。
それまで知らなかった、素晴らしい喜び、安心、自由、繁栄を心に感じ始めるでしょう!
全ての恵みはイエス・キリストを通して神によって与えられますから、どこであれ自分が今いる場所に、イエス・キリストを通して、主なる神をお迎えすれば、いいのです。その方法も聖書が定めています。
その通りにすれば、私たちは主なる神に、主イエスに御出会いします。
■信仰をもって、次の通りに行いましょう
以下の全ての事を「主を仰ぎ見て」行って下さい。私たちを救って下さるお方を仰ぎ見るとき、主と私たちはつながり始めるからです。「主を仰ぎ見る」ことは絶対的です。これがポイントです。雑念が湧き上がる時があります。どのようにすれば、仰ぎ見れるのか。「主よ、私は今、あなたを仰ぎ見ます。ただあなただけを仰ぎ見ます、主イエスの御名によってこのように告白します」と言うなら、神様を仰ぎ見る事が出来ます。主イエスの御名の力が働くからです。

■■詩篇47章6節――――主を賛美して主に御出会いする。
神は民の歓呼(賛美)の中を上られる。
神に向かって腹の底から賛美しましょう。時にしみじみと、神に向かってほめたたえましょう。
主を仰ぎ見て、主に向かって、賛美するのです。「主なる神様、あなたに賛美を捧げます。あなたに向かって賛美を歌います」そのように口に出して告白して下さい。そうすれば、そのように出来ます。

■■使徒2章21節――――主の御名を呼び求めて救われる
主の名を呼び求める者はみな救われる。
「父なる神様、この所にお越し下さい。あなたの御臨在をここに現して下さい。主イエスの御名によって祈ります」「私を覆いつくし、満たして下さい。私は体を開き、心を開いてあなたをお迎えします。あなたにお出会いしたいのです。あなたを必要としているのです」
そのように主に向かって、主の名を呼びましょう。主が私たちの上に、内に、御自身を現して下さることを期待しましょう。

第5章 御言葉を告白し、主の命を受ける。


■■ローマ人への手紙10章10節――――信じて、その上に口で告白し救われる。
実に人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
人は心で神を神として信じると、その瞬間に正しいものと見なされ、神の子とされます。
その人は天国に行くでしょう。しかし日常生活の中で、実際の救い、神の命、愛、力、喜び、勝利を経験しません。約束の言葉を、真理の御言葉をはっきりと口に出して告白するとき、初めて実際の救いを経験するのです。
ですから、その時の自分に必要な御言葉を繰り返し、信仰を持って告白し続けましょう。
自分の心の中にその御言葉が語っている通りの、確かな信仰が生まれて行くのを経験します。
次のようにかかれてある通りです。
■■イザヤ55章10節―11節――――信仰によって御言葉を告白し続けると、御言葉が現実になる。
雨も雪もひとたび天から降れば、空しく天にもどることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、私の口から出る私の言葉も、空しくは私のもとに戻らない。
それは私の望むことをなしとげ、私が与えた使命を必ず果たす。

信仰者でも、神の言葉を簡単には信じることは出来ない時があります。それは肉の思いが心に残り続け、信仰が覆われている時です。
しかし「福音は初めから終わりまで信仰によって実現する」と定められているので、私たちはどうしても信仰を持たねば、話になりません。神は信仰を持つ道も備えて下さっています。その道の一つがここにも啓示されています。
神の口から出る神の言葉も、空しくは神のもとに戻らない。それは神の望むことをなしとげ、与えた使命を必ず果たす。と書かれています。神の言葉自身が、神がその言葉に与えて使命と望みを果たすと言うのです。理解できますか?私たちの言葉も私たちが与えた使命を果たさないでしょうか。
「かわいい子、喜びの子、私の大切な子」と言われながら育つ子。反対に、「悪い子、いけない子、恥ずかしい子」と言われながら育つ子。二人の子がいるとして、二人とも同じように育つでしょうか。
人の口から出る言葉もそれなりの力を持っていることが分かります。まして神の口から出る言葉はそれ自体が、光であり、命であり、力なのです。
■信仰を芽生えさせ、育てるために、御言葉を信仰に立って告白しましょう。
主イエスがもたらせる勝利と繁栄を約束されている私たちにとって、一番大切なものは「信仰」です。
この信仰は御言葉を信じ、心に受け入れることによって芽生え、行う事によって成長していきます。
ですから、御言葉を拝読しない人、心で信じて、心に受け入れない人は何時までたっても、信仰が芽生えません。また、御言葉を日常生活の中で行わない人は、何時までたっても芽生えた信仰が大きく育ちません。
それ故に、今、一つの御言葉を選び出して下さい。その御言葉に沿って次のようにして下さい。
①私たちに必要な神の言葉を私たちは「心で信じます」と言いましょう。
②信じた言葉を信仰に立って、口に出し、告白し、その意味を思いめぐらし、味わいましょう。
③信じた御言葉を「心に受け入れます」と告白しましょう。
④そうすれば、その御言葉はその場で、私たちの内で光となり、命となり、力となります。
「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と書いてあるからです。
すると、私たちの内に今までなかった御言葉への信仰が生まれ始め、御言葉の力に心が満たされていくのを経験します。これは神の御言葉自身の働きによるのです。
次ぎの御言葉も同じことを語っています。
■■ヨハネ6章――――御言葉を信じて心に受け入れると、全ての御言葉が心の命、力となる。
私は、天から降って来た生きたパンである。・・・私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。
「私は天から下ってきたパン」と主イエスが言っておられます。パンとは神の言葉です。
主イエスは天から地上に降って来られた神の言葉そのものです。主イエスは御言葉によって神の救いを現しましたし、御言葉によって人を赦し、悪霊を追い出し、病気を癒し、嵐を沈めました。「私が父によって生きたように、私を食べるものは私によって生きる」と言われたのは、人の体がパンによって養われ、生かされるように人の霊も魂も、主イエスの口から出る言葉によって養われ、生かされると言っておられるのです。
パンを食べるように、神の御言葉を命の言葉として心と体の中に受け入れるなら、全ての人がキリストの命によって生きると約束しているのです。なぜなら、キリストの言葉はキリスト御自身であり、キリストの命であり、キリストの力そのものだからです。これは神秘です。


第6章 信仰を獲得し、「肉の思い」から解放される。


■■■裁かない→→赦す→→祝福を与える→→私たちも豊かに与えられる
ルカによる福音6章37節―38節――――苦々しい、怒りの心からの救い。
人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。
人を罪人と決めるな。そうすれば、あなた方も罪人だと決められることがない。
赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。
押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして懐に入れてもらえる。
あなた方は自分の量る秤りで、量り返されるからである。


「人を裁くな」と、神に命じられると、人が罪を犯した時、やさしい人、信仰の熱い人ほど、どうしていいのか、分からなくなります。これは多くのキリスト者が直面している問題です。しかし、レビ記19章17節―18節で神は言われました。
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直にいさめなさい。そうすれば、彼らの罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。

神は言われました。「兄弟を憎んではならない」「復讐してはならない」「恨みを抱いてはならない」「率直に戒めなさい」兄弟が人や自分に対して罪を犯した時、私たちは嫌悪、蔑視、怒りをもって反応してはならないと命じられているのです。
「率直にいさめなさい」と命じられています。「知らぬ顔をせよ」「見てみぬ振りをせよ」と言われているのではありません。悪意もなく、嫌悪なく、蔑視なく、率直に、まっすぐにいさめなさい。と命じられています。「裁くな」と言われている意味は、怒り、嫌悪、蔑視、拒絶を持って、兄弟を非難するだけで終わってはいけない、という意味です。
1)人を裁くこと、自分を裁くことは、最大の罪です。ですから、人を裁くものは裁かれると定められました。私たちは自分の常識、良識、善悪の知識を基準にして人を裁き、自分をも裁くのです。
また、人を裁き自分を裁くとき、人は自分自身を神としているのです。ですから、これは神が最もいとわれる最大の罪です。人を裁く人は神に裁かれます。これは神の掟です。
また、「裁くな」と言うのは、神が私たちを救うために必要としておられる最初の条件です。
私たちが人を裁いている限り、また自分を裁いている限り、神は私たちを救うことが出来ないだけでなく、また、私たちの祈りを通して、もう一人の人を救うことも出来ません。それどころか、私たちに裁かれた人は私たちを恨み、私たちの人間関係は破壊されてしまいます。
セミナー(1)で学んだ事を思い起こして下さい。神はアダムとエバとその子孫を通して、全ての造られたものを治めるように定められたのではなかったでしょうか。
私たちが相手を裁き、自分を裁いて、怒りと嫌悪と蔑視をはらんでいる限り、神は私たちを罪ある人の救いの器として用いる事は出来ないのは当然です。
裁きが裁きを生み、全てが破壊されるだけです。何一つ善いことが起こりません。
人を正しくお裁きになるのは神だけです。全知全能の神だけです。私たちは人を裁く正しい能力がないのです。ですから、神は「裁いてはならない」と命じられたのです。
このようにして、「裁くな」という言葉は単なるキリスト者の道徳を高めるための言葉ではないこともわかってきます。それは裁く人に対しても、裁かれる人に対しても、神の救いが及んで行くために、どうしても必要な最初の条件なのです。

2)神は続いて「人を罪人と決めるな」と命じられました。それは、どのような意味でしょう。
この人だけはどうしようものない。こんな私はどうしようもない。この人は、こんな私はもう救われようがない。自分を含めて、どのような人でも、そんな風に救いがたい罪人だと定めてはならないと命じられているのです。
主イエスは、罪人を救うために来られたのです。私たちの心と体から罪の力を取り除くために来られたのです。罪に定めるためではなく、罪を赦し、罪の力から救い出し、御自身の「永遠の命の繁栄」を与えるために来られたのです。
私たちは自分の善悪の知識によって、人や自分を罪に定めがちな性質を持っています。なぜでしょう?
それは私たちには人や自分を救い出すだけの十分な知恵と力を持っていないからです。また、その人が罪を犯し続ける本当の理由を知る能力がないからです。そして何よりも神が持っておられる、どうしても救ってやりたいと言う、たぎる思い、熱情の十分の一をも持っていないからです。ですから、多くの人を罪に定めます。
しかし、神は信仰者の祈りを通さないではただ一人の人を救われません。神が一人の人を救うときは一人の信仰者の祈りと行いを通して、救おうとお決めになっておられます。
もし、私たちが多くの人を罪に定めたならば、神は誰一人救う事が出来ないのです。神は私たちが救おうとする人をお救いになるのです。神は自らを救われたいと願い者をお救いになるのです。神は神を信じる者を何と尊び、重んじておられる事でしょう。
これほどの恵みを拒んで、人を罪に定めるなら、神はその私たちを罪に定められます。これも神の掟です。
私たちがある人を罪に定めたならば、私たちも罪に定められると覚悟しなければなりません。私たちは自分を罪に定めたならば、誰かが私たちのためにとりなし祈ってくれない限り、救われることはありません。
しかし神は誰一人、滅びることを願っておられない。神に立ち返って生きる事を願っておられます。

3)神は「赦しなさい。そうすれば、あなたも赦される」と言われました。
これは神の公平の原則です。神に赦されたのに、人を赦さないなどと言うことを神は決して赦されません。
その人は「赦す」というまで、赦されません。
「赦す・赦さない」ということも、その人が「かたくなな人」なのか、「広い心の人なのか」という単なる人柄の問題ではなく、すでに明かにしたように、これも神の全ての人を救いたいという御心の問題なのです。
また、「人を裁く」「人を罪に定める」「赦さない」のは、告発者である悪魔の性質、欲望であり、「赦す」「生かす」のは神の性質、願いなのです。赦さない時、私たちは悪魔の子であり、赦すとき、私たちは神の子です。汚れた霊に支配されているか、聖なる御霊の統治にあるかの違いです。
これは後のセミナーで詳しく学びます。

「赦す」というギリシャ語はもともと「無罪放免する」という意味以外に「解き放つ」「自由にする」という重要な意味を含んでいます。ですから、私たちが赦すとき、私たちはその人を私たちの怒りから解き放っているのです。すると、神は私たち自身を私たちの怒りから解き放って下さるのです。私たちはその時、神の子の命、平和の力を回復します。
ですから、神は私たちに「赦しなさい。そうすれば、あなたも赦される」と言わるのです。

更に重要な事は「人を裁くな」→→「罪人と定めるな」→→「赦しなさい」と進んで行く神の言葉は、神の救いの計画の順序なのです。それは次の「与えなさい」で完成するのです。
これら全ての言葉は単にキリスト者の道徳であり、品性を高める言葉と小さく考えてはいけません。それは神の救いの過程そのものなのです。
ですから、私たちは「裁かない」「罪に定めない」けれど、それ以上は何もしない。「赦した」けれど、それでおしまい、と言う所にとどまることは許されません。それでは、神と共に人を救うキリスト者になれません。神はそのような人を信頼なさいません。人を救う使命につかせることはなさいません。
ですから、私たちは更に次に進んで「与えなさい」という段階に進んで行くのです。神の完全な救いが全ての人に実現するようになるためです。

4)神は「与えなさい」と言われます。何を与えるのでしょう?
もちろん善いものです。最高の善意から生まれるものです。その人が正しく、平安に、力強く、全てを慈しむ心を持って生きるように、主イエスの御名によって、神の力をその人に向かって解き放つのです。
又、私たちが神の恵みに満ち溢れて、その人に対する善い業に満ち溢れるのです。
その時、神がその罪深い人を救い始め、造り変え始めて下さいます。私たちは間違いなくそのことをこの目で見ます。
それだけではありません。「人を裁くな」「罪人と定めるな」「赦しなさい」「与えなさい」という神の命令に従う人自身が、まず、自分の命の繁栄を回復していきます。私たちが人に善いものを与えようとすればするほど、神が御自身の満ち溢れる豊かさを私たちに授けて下さるのです。これは「与えなさい。そうすれば、与えられる」という神の原則です。人に与えない人に神は満ち溢れる豊かさをお与えになりません。神は御言葉の最後に次のように、言っておられるからです。
「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りをよくして懐に入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである」
私たちはただ与え続けるだけるではありません。与え続ける私たちに神は溢れるほどに与えて下さるのです。ルカ6章の御言葉を心に信じ、裁きたくなる人を赦し、罪に定めることをやめ、あらゆる善いものをあたえ続けるなら、私たちこそ豊かに与えられるのです。私たちが惜しんで与えないなら、際限なく与えられると思ってはいけません。私たちは誰もみな「自分の計るはかりで計り返されるからです」
これは罪人を救う神の法則であり、御言葉に聞き従う者に対する繁栄の法則でもあるのです。
ルカ6章は私たちの命の道、繁栄の道を指し示す御言葉でもあったのです。神は何と真実であり、何と公平であり、何と私たちの繁栄を願っておられる事でしょう。

■■■思い煩い・失望・不安から自由になる。
フィリピ4章5節―7節―――思い煩い(怒り、失望、なども皆、同じ)からの救い。
あなた方の広い心が全ての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何ごとにつけ感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を越えた神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

どのように難しい問題が起こっても、思い煩わず、いらだたず、恐れず、ため息をつかないような「広い心」を全ての人に示しなさい、と神は言われますが、そんな事は私たちの常識では出来るわけがありません。
しかし神は私たちに出来ない事を「せよ」とは決して言われません。神はそれが出来るように、道を備えておられるのです。それがここに示されているのです。
■その道とは――――恵みの経験のために、以下の道を進んで下さい。
1)まず私たちが「広い心を持ち続けたい」と望むことから始まります。
これは誰にでも出来ます。そのように口に出して告白して下さい。そうすれば、神の子である私たちが「広い心」を望んでいたことがはっきりと分るのです。

2)次に、「主はすぐ近くにおられます」これを信じるかどうかです。ここが最大のポイントです。
災いに見舞われている私たちはまだ、「主はすぐ近くにおられる」ことを知りません。なぜなら感じないからです。しかし、信仰によって「主はすく近くにおられる」と言う御言葉を信じるなら、それは私たちの現実になり、経験になり、感じるようになるのです。先ほど学んだように実際に行ってみましょう。
「主がすぐ近くいることを心で信じます」と信仰によって口に出して告白します。
「主よ、あなたはすぐ私の近くにおられます。この神の言葉は事実である事を認めます」
「この御言葉を私の心と体の中に受け入れます」
「御言葉の通り、主よ、この災いの只中で、私のすぐ近くにおられます。いいえ、私の心の内に変わることなく、おられます」信仰を持って告白し続けて下さい。そうすれば、「主がすぐ近くにいる」ことが分かります。主が近くにおられるなら、問題は全て解決します。私たちの心に希望が芽生え始めます。
主は私たちの救い主です。私たちの希望です。

3)「主イエスの御名によって思い煩うのをやめます」「思い煩いを主イエスの御名によって捨て去ります」と信仰によって告白して下さい。「主イエスの御名によってというところが一番大切です」
主イエスは私たちの救い主であり、神です。その御名は全てを成しとげる神の権威であり、全てのものが膝をかがめるように定められた御名です。

4)「何ごとにつけ感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい」という御言葉に従って、神に向かって、この通りお話し下さい。思い煩いの堂々巡りから自由になった私たちは「祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい」と言う御言葉に従うことが出来ます。なぜなら、私たちの心は既に自由にされているからです。
「求めているものを神に打ち明けなさい」という神の言葉の何と優しい事でしょう。
私たちは求めている者を神に打ち明ける事が出来るのです。人に打ち明ける必要はありません。
求めている事を私に打ち明けなさいと言われる神がおられるのですから・・・
私たちに神は見えていないでしょうが、「神様、主イエスに御名によって、あなたに願いと祈りを捧げます。私の求めているものを打ち明けます。私たちの事を心にかけて下さっているあなたが聞いて下さいます」と語って下さい。そうすれば、神に向かってお話出来ていることが分かります。

5)すると、思い煩いが去った私たちの心に、不思議な、神からの平和が訪れ、私たちの心を治めて下さっている事が分かります。それは根拠のない平和ではありません。心の中だけの平和でありません。思い煩わせた実際の問題が解決される事が約束されたのです。平和はその徴でもあります。
私たちはやがて神が問題の解決に立ち上がって下さり、現実が変えられて行くのを見るのです。
主イエスの御言葉は単なる言葉ではありません。それは現実に働く神の力であり、救いの力です。
初めから終わりまで、信仰によって実願します。信仰は御言葉を聞くところから始まり、心に受け入れるときに心の力となり、御言葉に従って行うときに私たちの心に根を張るのです。
全ての神の言葉について、聞くだけで終わることをしないで、信仰によって聞き従って行きましょう。
これが私たちの繁栄の秘訣です。勝利の人生の道です。多く人を祝福する道です。他にありません。





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