01.罪の故に誰一人、生きる事は出来ない
第1章 人は神の似姿に、また、全ての造られたものを神と共に治めるように創造された。
人間はどこから来たと思われますか。進化論が言うように多くの偶然と必然が重なって、サルから発生したのではありません。私たちは神様によって創造され、神様の命を分与されて永遠に生きるように創造されたと神様は語っておられます。そればかりか、最初の人、アダムを御自身の似姿に創造したと神様は語っておられます。「我々にかたどり、我々に似せて」と・・・全ての被造物の中で、このように創造されたのは私たちだけです。とするなら、人はみな極めて特別な存在であり、特別な神様の思いの中で誕生したと言えるのではありませんか。そのことは旧約聖書の創世記に書かれています。創世記1章26節
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」
神様が御自身の事を「我々」と呼んでおられるのは、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」がそれぞれの役割を担いながら、全く融合して一体となっておられる神だからです。聖書には神様がどのような方法で人を自分に似たものに創造されたのかも記録されています。
創世記2章7節
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
「土の塵」と訳されているヘブライ語は「分子」と言う意味を持っています。
事実、人の体は沢山の分子が組み合わさって出来ています。しかしそれ自体には命がありません。
神様は人の鼻を通して、御自身の「息」を体の中に吹き入れられました。人はその時、初めて命を得て「生きる者」となったのです。
ですから「息」が人間の命のそのものなのです。「息」と訳されているヘブライ語は「霊」と言う意味でもあり、最初の人・アダムの体の中に神は「御自身の霊」を吹き込んだのです。「霊」とは神様御自身の命です。神様は朽ちることのない「永遠の命の源」なるお方ですが、私たちは神様のその「命」を分け与えられ、「聖なる霊」を分け与えられた事になりませんか。これはすごい事です。
初めの人はこの「神様の命の力」、即ち「神様の霊の力」によって、人間の「知性」も「感情」も「意志」も神様と同じように、命に溢れて、正しく、清く、気高く、働かせることが出来るようにされたのです。
私たちが神様につながり続け、満たされ続けるなら、分与された「神の命・霊」は、ますます豊かに「知・情・意」の中に満ちて行く。そのように創造されています。
反対に私たちが神様を否み、離れるとき、分与された「神の命・霊」は次第に衰弱し、貧弱になり、命を失い、死んでいくのです。私たちは神様につながっていなければ、神様の似姿を失い、つながるなら、豊かにその似姿を保つように創造されているのです。
自然界に多くの「法則」があって、大自然を保っているように、これは人間が自分の「命・霊の繁栄」を保ち続けていく「命と死の法則」でもあります。この命は礼拝の中で、新たに注ぎごまれますから、礼拝を怠るなら、信仰者であってもその命はやせ細ほり、弱くなり、神様の命を知らない人と大して変わらなくなります。
しかしまことの礼拝者は溢れるばかりの命を得て、表情にも神の栄光の輝きが現われるようになるのです。
ですから毎日の生活の中で礼拝を最優先するべきです。仕事はその後に続くべきです。すると、すべてが正しく治められるでしょう。
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また、私たちは無目的に地上にいるわけではありません。神様は、はっきりした目的をもって人を創造されたからです。人間を全ての被造物の統治者として創造されたと神様は語っています。そのためにこそ、特段に「神様の似姿」に創造する必要があったのではないですか。「神の似姿」がなければ、人はそれぞれの置かれている場所で、全てを正しく管理し、治めることは到底、出来ません。
親は子供を生むだけでなく、その心と体を正しく育て、導く。働いている人はこの世の必要を満たすという大きな意味のために職場を正しく治める。政治家は正しく国を治めるのではないですか。
「正しく治める」その力は、動物的・生物的な存在である人の中には見出せません。それは神様の聖なる御性質を失っていて、強い「自己中心性」「エゴイズム」を持っているからです。自分以外の多くものを思いやり、心をかける、目先の事だけでなく、時には先を見る「広くて、高い知性」を失います。
「全てを正しく育て、守り、治める力」は、神様の命・霊を豊かに受けた「似姿に創造された人」の中にだけあります。神様の命・霊の中にこそ、同時に「本当の正義と愛、真実と公平、知恵と知識」が隠されているのです。
とりわけ、私たちの「心」は、「神様の命の力」を必要としています。人は誰でも「心」が感じ、思い、決めたように、語り、行動するからです。「心」が独善的であり、偏っており、愚かであり、病んでいるなら、自己中心的であり、どうして人や物を正しく育て、治める事が出来るでしょう。
ですから、神様は、心も体も、病むことがないように、また、病むことがあっても、「神様の命の力」によって癒され、健全になるようにして下さいます。信仰に根ざす神様との「交わり」や「祈り」を通して、心も体も健やかになさいます。神様の命と性質、つまり「神の似姿」をますます回復しながら、正しく育て、守り、治める力を増し加えていきます。正しい養育と統治のためには、何よりもその人自身が真っ先に、この命に溢れ、性質に溢れていなければならないのは、当然の事だからです。
信じる者、祈る者、礼拝する者は、この事が事実である事を一つ一つ経験していくようになります。
それは私たちを興奮させ、歓喜させる経験ともなるでしょう。
第2章 善悪の知識の実を食べ、神様のようになろうとしたアダムとエバの堕落
ある日、不幸な出来事が最初の人に起こりました。アダムとエバのことを御存知ですね。神様は、見るからに好ましく、食べるによいあらゆる木を生えいでさせ、また園の中央には、「命の木」と「善悪の知識の木の実」を生えいでさせ、彼に言われました。
創世記2章16節
園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう。
ある日、悪魔の化身である蛇がエバに近づき、しきりに「善悪の知識の木の実から食べるように」「食べれば、神のようになれるから」と、そそのかし続けました。最初エバは抵抗して、言いました。
創世記3章6節
「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
人は神様と共に永遠に生きるものとして、神の似姿に創造されましたが、「善悪の知識の木の実を食べると必ず死ぬ」と言われました。これは神様の摂理であり、掟であり、全ての「死の法則」です。
エバは「死ぬといけないから」と神様の言葉をあいまいにし、悪魔は「決して死ぬことはない」「むしろ神のようになれるのだ」と言いました。「悪魔」は、いつも神の言葉を曖昧にし、反対するために、今日も働いています。そのような人格を持った「悪」がこの世に実在していることも、神様はここで明らかにしています。
アダムとエバはこの木の実を食べるまでに、次のような段階を踏んでいます。
(1)二人は悪魔の言葉を受け入れることによって、「悪」を受け入れました。
(2)二人は、自分たちを創造した神の言葉を無視し、神を否みました。
(3)自ら神になろうとしました。
(4)そして善悪の知識の実を食べて、自分自身の善悪を持つようになりました。
(5)その結果、神様は「必ず死ぬ」と言われた通り、彼らの中に「死」が訪れ始めました。
最大の不幸は、罪とも死とも関わりのなかった人類の中に「悪」即ち「罪」と「死」が入ってきた事です。
今日、ここで、「悪=罪=死」は、アダムとエバが悪魔の言い分を受け入れたことにより、人類の中に入ってきたものである事を知っておいて下さい。
これはそれ以降の全ての人間性の堕落と悲惨と死の始まりです。人の中に入ってきた「悪と死」の実際について、少し詳しく見ていきましょう。
■■■「善悪の知識の木の実」を食べた人が結んだ多くの「悪の実」について
これ以降、すべての人はそれぞれの固有の正しさを持ち続けて、それぞれの固有の思いや判断を神として生きてきました。また分与された神様からの命に死が入ったために、「良心」も死に瀕して、動物的、生物的な命の力によって生きてきました。人は、神様の正義と愛、真理と真実、知恵と知識を知らないで、それぞれの善悪の知識で生きてきました。
それで10人の人がいれば、10人の正しさがあるのです。その結果、人と人の間に、民族と民族の間に、国と国の間に、一致が失われ、争いが生まれました。互いに怒りと恐れをはらみました。これが人の正しさが結んだ実ではありませんか。
神様の正しさは互いに理解し合い、助け合い、支え合い、慈しみ合うものですが、人の正しさは自分の正しさで人を裁くのです。その結果、怒り、嫌悪、蔑視、失望、拒絶の実を結びます。それだけでなく、自分の正しさによって自分自身を裁くのです。すると自己嫌悪、自己卑下、劣等感、罪責感によって苦しむのです。人と人の間だけでなく、自分と自分の間にも平和がなくなりました。自分の中にも、悲しみや、苦しみ、怒りなど、多くの葛藤が生じるのです。人は辛い人生を歩む事になりました。
これは「神の似姿」に造られた真の人間性の喪失であり、堕落です。このように人が「それぞれの善悪の知識」を持ち、正しさを持ち、常識を持ち、言い分を持つなら、人を正しく育て、治める事は出来るはずがありません。それどころか、心の底から仲良くし、心を通い合わせ、交わることさえ出来ません。
神様は変わる事のない「永遠の命と正義と愛の源」であるだけでなく、「全知、全能なるお方」ですが、神様を失った人間の目は世界を、他の人を、いいえ自分自身さえ、よく見えませんし、正しく見えません。また、力が弱く、非力です。出来ることもありますが、出来ないことの方が多いのです。
最も大きな欠陥は人格上の問題です。人を思いやる心を失い、自分の都合、利益をまず追い求める自己中心性がうまれました。その上、確かな命と力の源と力を失い、弱くて、はかない存在になった故に、まず自分の安全を最優先で考え続ける小さくて、狭い自己保存性を持つようになりました。自分を守ることで精一杯だからです。神様が望まれたように、自分の「心の良心」が願うようには全てを、正しく守り、育て、統治するなんてことは、全く出来なくなったのです。
■■■悪魔の言葉を受け入れたとき、人は心の中に「悪魔の性質」「悪(罪)」」と「死」が入った。
悪魔と罪と死の関係について、神の言葉は次のように語っています。
ローマ5章12節
一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は全ての人に及んだのです。 全ての人が罪を犯したからです。
初めの人が善悪の実、死に至る実を食べた時、彼らの心に何が起こったか。すでに、明らかにしました。
聖書がここで語っている「罪が世に入り」という「罪」とは、悪魔の力=悪の力=罪の力のことです。
それがアダムとエバに入り、二人が治めていたこの世(エデンの園)に入ったことを意味しています。
「全ての人が罪を犯した」この「罪」とは、全ての人間が神様をいなんで、自分を神としたことです。
これらが罪の始まり、罪の起源です。一般に「原罪」と言われているものです。
人は誰もこの罪を持っています。生まれながらの罪であり、アダムとエバから受け継いだ人類普遍の「罪の性質」です。
一方、神の似姿も完全に失われ、破壊されたわけではありません。それは全ての人の体の中に「良心」「知性」「心の願い」として残り続けています。しかし、その全てが罪の力、悪の力に覆われ、弱められ、十分に働いていません。自分の「良心」の命じるままに、生き抜いている人、ただの一度も罪を犯さなかった人、心にやましく思った事のない人は一人もいません。最初の罪が入ってきたために、人はさまざまな罪を犯しながら、生きる以外になくなったのです。最初の人は永遠の命である神の霊を受けており、死とは何の関係もありませんでしたのに。
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「死」とは時が来たなら、誰でも死ぬと言う、肉体的な死だけのことではありません。「死」は人間のあらゆる領域の中に入りました。
神様と人の関係の中に入りました。人間の良心の中に、知性の中に、心の中に入りました。人と人の関係の中にも入りました。そして全ての造られたもの(自然)と人の関係の中にも入りました。死は全てのものの上に及んだのです。
最初の人が所有していた、永遠の命、正義と愛、真理と真実、平和と喜び、知恵と知識、力強さも、気高さも、神の似姿を失い、衰弱し、死にはじめました。
世界中で、正義はゆがめられ、愛は冷え、争いが絶えず、真実と公平が失われました。自己中心性、自己保存性、エゴイズムが人間を極めて卑しいもの、愚かなもの、貧しいものにしてしまいました。
体にも病気が入り、癒される事がなく、慢性化し、老朽化し、やがて死ぬようになりました。自然環境もひどく破壊され、死に瀕しています。人の心が死に瀕死、自然を守り育てる心、慈しみ心を失ったからではありませんか。その全て、罪が結んだ実なのです。 神様はアダムとエバが互いに愛し合い、喜び合い、助け合うように創造されたのです。神の言葉はそのことを明かにしています。それはアダムにエバが与えられ時の事ことです。
創世記2章21節
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ、私の骨の骨。私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」
「ついに、これこそ、私の骨の骨、肉の肉」とアダムは喜びの声を上げています。
「ついに」と言う言葉の中にアダムがどれほどエバを必要とし、待ち望んでいたかがよく分かります。このようにアダムの喜びを知ったエバも喜びに溢れたに違いありません。この喜びこそ。神様が人と人の交わりに与えられる本当の関係なのです。二人が罪を犯し、死が二人の中に入るまで、アダムとエバはこのような交わりを持ったに違いありません。素晴らしい事ですね。
しかし、二人が神を否み、自ら神となろうとして、善悪の知識の実を採って食べ、神様にその罪を指摘された時、二人と神様の関係にも、自分と自分自身の関係にも、アダムとエバの関係にも、悪が入り、堕落が入り、死が入りました。その様子が次のように記録されています。
創世記3章8節
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」
彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」
アダムは答えた。「あなたが私と共にいるようにした女が、木から取って与えたので、食べました」
神様に「どこにいるのか」と問われて、アダムは言いました。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから」
神様の似姿に特別な愛を持って創造され、生かされたアダムが神様を恐れ始めています。悪魔にそそのかされ、罪の力を内に受け入れ、自分を裸であると知って、自分自身を恥じています。「恐れ」は神様との喜びの関係を、「恥」は心の平安、自信を壊さないでしょうか。
神様に「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われると、彼は言いました。
「あなたが私と共にいるようにした女が、木から取って与えたので、食べました」
何という言い草でしょう!アダムは自分の愚かさ、責任を棚上げにして、全てをエバの責任にしたのです。エバは自分の夫の言葉をどのような思いで聞いたのでしょう。
こうして二人の罪が、アダムとエバの関係も死に至らせた事が分かるでしょうか。
エバも同じです。神様に「何ということをしたのか」と叱られた時、「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えました。これも責任転化であり、無残な、卑しい発言です。
二人は様々な言い訳をしましたが、最後まで「神様、赦して下さい」と謝罪しませんでした。
どうしてでしょうか。罪によって二人の良心が堕落したからです。また自らを神となった自分のプライドのために、素直に赦しを請う能力さえを失ってしまったのではありませんか。
なんと惨めな姿ではありませんか!また、恥ずべき姿ではありませんか!それだけではありません。
こうして、神様と人の関係も、自分と自分自身の関係も、人と人との関係も、心の通い合う夫婦の喜びも失われたのです。これが全ての人の「罪の性質」となって今日に至るまで受け継がれています。
しかしイエス・キリストはこれらの全てから、私たちの全てを救うために来られました。
ゼファニヤ3章16節で啓示されている通りです。
シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、 お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。 見よ、そのとき私は、お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。私は足の萎えていた者を救い、 追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。 そのとき、私はお前たちを連れ戻す。そのとき、私はお前たちを集める。私が、お前たちの目の前で、 お前たちの繁栄を回復するとき、私は地上のすべての民の中で、お前たちに誉れを与え、 名をあげさせると、主は言われる。
このことは次のセミナーから学び始めます。 そして、私たちもこの救いと全ての関係の繁栄の回復を経験し始めるでしょう。
この教会が実際に受けている救いの目録
永遠にかかわる救い
- 罪が赦され、義とされ、神の子とされる。
- キリストが私たちの内に宿られる。
- 神が共にいて、語りかけ、罪に勝利させ、祝福の人生へ導かれる。
- 神の力、愛、希望、信仰、平安が満ち溢れて来る。
- 永遠の命を受け、死を超えて生かされ、新しい天と地を受け継ぐ。
全ての信仰者の救い
- キリストの命に満たされ、自由と力に溢れるようになる。
- 何が罪であるかが分かるようになり、罪から離れるようになる。
- 古い性質が次第に弱まっていき、神に似た神の子の性質が育ってくる。
- 神に生かされ、神を賛美し、感謝することを知るようになる。
- 多くの不可能が可能になり、諦めていた人生に希望がよみがえる。
- 自分の弱さが分かり、強められ、人に対して情け深くなる。
- 死を超えて生きる永遠の命を受け、死を恐れなくなる。
- 神様の情熱や全てを慈しむ心が心に宿るようになる。
- とりなし祈る事、受けた恵みを語る事によって家族、職場の関係を正しく育て、守り、治める。
- キリストと同じ業を行うようになる。福音を伝え、真理を教える。人々を罪から解放し、人の悲しみを慰め、病人を癒し、悪魔を追い出す。
日常生活の救い
- 敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、思い煩い、恐れ、罪責感、劣等感、独善、高慢、などの古い性質から次第に解放され、自由な清い心が創造される。
- 神様が人生の重荷を背負って下さり、問題の解決に乗り出して下さる。
- さまざまな心と体の病気が癒される。
- 真理の言葉(聖書の言葉)が、心の力となって、力強い日常を生きるようになる。
- 人間関係に赦し合い、平和と喜びの交わりが回復する。
- 信仰と希望、祈る心が与えられる。祈りに対する神の応答を経験する。
- 人のために祈り、問題が解決するのを経験するようになる。
- 神の言葉を聞くようになる。神様の知識や知恵が与えられるようになる。
- 人の本性であるエゴイズムから解放され、利得のためではなく、人自身の喜びのために働き始める。