神の似姿を回復する時
エゼキエル書はひとつの特色があります。主なる神は繰り返し、「私たちはお前たちの神となり、お前たちは私の民となる」それがいつであるのか、繰り返し語られています。
その中でも、今日、エゼキエル36章を開きます。この章はきわめて重要な章です。
主なる神はバビロンの捕囚となったイスラエルの繁栄の回復について語っておられます。しかし、旧約のイスラエルは新約の教会の予表でもあります。ですから、この御言葉は今日の教会に、キリスト者に向けての主なる神の約束と受け取っても間違いではありません。
私が清い水をお前たちの上に振りかける時、お前たちは清められる。
私はお前たちを全ての汚れと偶像から清める。私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。私はお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また私の霊をお前たちの中に置き、私の掟に従って、歩ませ、私の裁きを守り行わせる。
お前たちは私が先祖に与えた土地に住むようになる。お前たちは私の民となり、私はお前たちの神となる。私はお前たちを全ての汚れから救う。
きわめて単純で明快な御言葉の中に偉大な神が与えて下さる偉大な救いの約束と希望が語られています。要約するなら、以下のようです。
1)神が「清い水」を私たちの上に振りかける。すると、私たちは「全ての汚れと偶像の汚れ」から清められる。
2)神が私たちの内に「新しい霊」を置く。すると、私たちの内に「新しい心」が創造される。
3)神が私たちの身体から「石の心」を取り除き、「肉の心」を与える。
4)神が私たちの中に聖霊を豊かに宿して下さる。すると、私たちは神の掟に従う。
また神の裁きを守り行うようになる。
5)私たちは神が与える土地に住む。
6)私たちは神の民となり、神は私たちの神となられる。
7)そして全ての汚れから私たちを清め続けられる。
神は一貫して「お前たち」と言っておられます。「お前」とはいっておられません。
お前たちとはイスラエルのことです。
この神の約束は、イエス・キリストが十字架にあげられた時、成就しました。Ⅱコリント1章に啓示されている通りです。
あなた方の間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方において「然り」だけが実現したのです。
神の約束はこの方において、ことごとく「然り」となったからです。
エゼキエル36章は神の子として新たに生まれた者が、どのようにして栄光の神の子として成長し、成熟していくのか。どのようにして名実ともに聖なる者になっていくのか。どのようにして栄光の神の似姿を回復していくのか。どのようにキリストの体なる教会の中に組み込まれていくのか。そしてどのようにして神の栄光を現すものになっていくのか。
そんな神の奥義が余すところなく啓示がなされているのです。
すでに語ったように、「清い水」は全ての汚れを清める、聖なる清い御霊の予表です。イスラエルは教会の、キリスト者の予表です。
教会が何者であるのか。その使命、その存在理由も明確に啓示されています。神が私たちを清め、満たすのはどのような目的のためであるか。つまり、教会の繁栄が回復されていくのは何のためであるか。それは、教会が神の掟に従って歩み、また、神の裁きをこの地に対して正しく守り行うためです。
神はこの目的のために、教会、信仰者を神の似姿に形作られるのです。その繁栄の回復は、神の力に始まり、神の力によって完成されると断言されています。では人は何をするのか。上からの恵みの全てを受け続けるのです。来る日も来る日も受け続けるのです。ただそのことが神の子の果たすべき分です。
また、神が私たちの神となり、私たちが神の民となるために、主なる神は私たちを一つの土地に住まわせます。旧約において、それはイスラエルの「先祖に与えた土地」でした。神の民は全地に散らされましたが、先祖の土地に帰ってくるのです。そして一つの民となって一つの土地に住むのです。そして神はイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となるのです。
これは新約における神の子と教会を予表しています。神の子は、バビロンによって滅ぼされたかつてのイスラエルのように、散らばってはいけません。教会として集められ、キリストの体として植えられなければなりません。その時、主イエスは私たちの頭となり、私たちはキリストの体として命が与えられます。
現在はきわめて個人主義的な時代ですから、教会のリーダーも個人主義的は風潮の影響を受けています。ですから、「それはあなたと神様の問題です」などと教会として受け止めねばならない問題を個人の問題に還元する癖があります。しかしこれは間違いです。
これはイスラエルの上に最初の栄光を現したへブライの神の考え方ではありません。主なる神は一人の信徒の問題は教会の頭の問題であり、体全体の問題だと言われます。個人主義は教会の体をばらばらにします。そこにイエス・キリストの御臨在はありません。その人はやがてつぶされていくのです。
主なる神は一国の上に御臨在を現し、主イエスは教会の体の上に御自身の恵みを満ち溢れさせるのです。一人一人の恵みがないと言っているのではありません。恵みは個人が教会の体の一部として、教会に組み込まれ、教会として一つとなって、主イエスの御心を行うとき、最大限に溢れるのです。
エゼキエル36章を(1)~(7)にまとめましたが、すでに(5)~(7)がすみました。以下のところで(1)~(4)を通して、どのように主なる神が教会をキリストの栄光を現す教会として、回復していくのかを見ていきます。日本の多くの教会、信徒たちは、主なる神がエゼキエルを通して実現すると約束された基準に達していません。
ですから、この御言葉の通のなるなら、それは事実上、教会のリバイバルであり、一人一人の信仰者のリバイバルとなります。ですから、これは重要な御言葉です。
(1) 神が「清い水」を私たちの上に振りかける。すると、私たちは「全ての汚れと偶像の汚れ」から清められる。
「清い水」とは何か。
民数記19章1節から22節を見れば詳しく分かります。しかし、新約の時代、「私たちの汚れを焼き尽くし、清めて下さる聖霊の炎、もしくは清めて御霊」と理解しておきましょう。(詳しく知りたい人はこのメッセージの最後に「資料」して、添付しておきますから、それをご覧下さい。
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清い霊、焼き尽くす炎として聖霊様が清めようとしておられる「汚れ」とは何かを見ていきます。汚れは二種類あります。「全ての汚れ」と「偶像の汚れ」です。汚れとは何でしょうか。旧約の時代、イスラエルは「汚れ」と言えば、誰にでも分かりました。現在の教会と信仰者は汚れが何か、分からなくなっています。ですから、ここで、時間をとらねばなりません。
なぜなら、全ての神の祝福は「汚れを清める」というところから始まっているからです。
汚れを清めることを抜きにして十分な祝福を受けられないのではりませんか。今日のキリスト者が十分な政令の満たしを受けていないなら、汚れを清める重要性について無知にも一つの原因があると思います。
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罪と汚れとは違います。
罪というのは、律法に対する違反です。汚れは違反そのものではありません。違反によって来たものです。律法を犯すことは罪ですが、罪を犯すと必ず、私たちは汚れに覆われるのです。
汚れとは何でしょうか。レビ記18章で言われました。
「あなたたちは以上のいかなる性行為によっても身を汚してはならない」
「これらの行為によってこの土地は汚され、私はこの地をその罪の故に罰し、この地はそこに住む者を吐き出すのである」
「これらの行為」の中には性的な罪だけでなく、自分の子を火の中を通らせ、モレクの神に捧げる偶像礼拝も含まれています。また、罪によって人が汚れるだけでなく、大地も汚れると、神は言われます。
民数記19章でははっきりと、偶像礼拝から来る汚れについて啓示されています。
「霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない」
民数記35章では殺人の汚れについて語っています。
「あなたたちは自分のいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである」
ここで言われている「血」とは、殺人によって流された血のことです。罪を犯すなら、それが偶像礼拝であれ、性的な罪であれ、殺人であれ、何であれ、人も汚れ、大地も汚れるのです。人間の罪は人と土地に汚れを持ち込むのです。これは罪の結果やってきた覆いです。
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ですから、主なる神が民を救うとき、罪の赦しを得させるだけでなく、罪によって汚れた人と大地を清めねばならないのです。主なる神は、繰り返し言われました。
自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。私はあなたの神、主だからである。私の掟を忠実に守りなさい。私は主であって、あなたたちを聖なる者とする。レビ記20章
あなたたちは私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。私はあなたたちを私のものとするため諸国の民から区別したのである。 レビ記22章
「汚れ」は「聖」に向き合っています。「聖」とはこの世から分離されることですから、「汚れ」はこの世に属していることです。この罪とサタンの支配する「世の性質」です。「聖」は神に属していることです。神の御性質です。ならば、「汚れ」はこの世の性質であり、その支配者である悪魔の性質です。ですから、これは霊的な問題です。霊的な区別です。
汚れとは何かはっきりしました。それは罪そのものではありませんが、罪と共にいつもあるものです。人が罪を犯すとき、人の罪を足場にして覆うサタンの汚れです。それが人と大地を覆い、汚す、霊的な覆いです。聖霊に覆われるとき、聖霊の御性質、聖霊の命に覆われます。しかし汚れに覆われるとき、サタンの汚れに覆われているのです。
私たちが汚れているなら、私たちを覆っているサタンがいるのです。サタンの汚れが汚れら布のように私たちを覆っているのです。
信仰者の告白していない罪があるところ、破棄されていない「肉の思い」があるところ、家系や地域社会にサタンの祭壇、偶像礼拝が残されているところには、いつもサタンの汚れがあるのです。覆いがあり、何らかの支配があるのです。
私たちが罪を犯すとき、神は私たちを悔い改めさせ、罪を赦すだけでは十分ではないと、判断されました。主なる神は「清い水」即ち清い御霊、背入れの炎によって、私たちの汚れを清めねばならないのです。
罪を赦すのはキリストの血潮ですが、罪の汚れを清めるのは「清い水」です。
主の御名をたたえます。私たちの救いは完全です。赦され、清められるのです。ハレルヤ!
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主なる神は礼拝の只中で、この「清い水」をます、注がれます。私たちが罪を犯しているとき、私たちは礼拝の中で、まず、罪を告白しなければなりませんが、罪を犯すというレベルにまで達していなくても、さまざまな「肉の思い」からくる汚れ、また、肉的ない命から来る汚れを主なる神は清めたいのです。私たちが新しい霊を受け、新しい心を私たちのうちに創造するためです。
また、私たちは先祖を拝んだ偶像や地域に置かれている偶像を拝むわけではありませんが、それらの偶像礼拝から来る汚れをも主なる神は清めたいのです。信仰者が自ら拝みもしない偶像の汚れに覆われると言うことは承認しがたいことであり、それゆえに、この御言葉は多くの教会や信仰者にとって絵空ごとになっているのです。
しかし聖書はこの世の支配者が活発に働いていることを啓示しています。また、パウロはⅡコリント5章で語っています。
身体を住みかとしている限り、主から離れていることも知っています。
私たちが積極的に偶像を拝んでいなくても、家系や地域にある偶像の汚れの影響は受けるのではありませんか。なぜなら、私たちは体を住みかとしている限り、完全ではありえないからです。私たちはこの世の支配者の何らかの、汚れ、影響下に置かれているのです。
もちろん、信仰によって、イエスの御名によって、その影響をその時々に砕き、投げ捨てることも出来ます。黄泉の力は私たちに対抗することは出来ないからです。しかし、エゼキエルは主御自身が礼拝の中で、「清い水」によって私たちを清めることについて語っておられるのです。今は、教会の、信仰者の権威について語っているのではありません。
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清くされるのは上からの恵みですが、私たちがすばらしく清められるために、果たすべき分もあります。それは次のようです。
(1) 私たちが清くなりたいという願いを捧げること。そのために聖なる者、聖なる生活に対する願いを持っていること。
(2) 罪の汚れ、肉の思いの汚れ、偶像の汚れから清くして下さいと主を仰ぎ見て、口に題して祈ること。汚されたままで決していたくありません。と告白すること。
(3) 罪も肉の思いも偶像も具体的に告白すること。例えば、この怒り、苛立ちの汚れ、この思い煩い、恐れの汚れ、この高慢、この不信仰の汚れという風に。
このところから主を仰ぎ見るなら、私たちは清くされます。
(2) 神が私たちの内に「新しい霊」を置く。すると、私たちの内に「新しい心」が創造される。
(3) 神が私たちの身体から「石の心」を取り除き、「肉の心」を与える。
(4) 神が私たちの中に聖霊を豊かに宿して下さる。すると、私たちは神の掟に従う。また神の裁きを守り行うようになる。
主なる神が生まれながらの私たちの一人一人は罪にただれた「赤い雌牛である」ことを啓示されますように。そうすれば、あなたたちはエゼキエル36章の祝福の連鎖の中に入れられるのです。 皆さん、自分にとって「汚れ」とは、「石の心」とは何でしょうか。
それを告白しましょう。そして「清い水」の祝福にあずかりましょう。
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添付資料――「清い水」とは何か――民数記19章1節~22節
(A)作り方
(1) 赤毛の雌牛が宿営の外に連れて行かれて、屠られます。
(2) その血潮が臨在の幕屋の正面の方に向かって振りかけられます。
(3) 雌牛は流された血潮と共に、その全てが焼かれます。焼かれないものは一つもありません。
(4) 焼き尽くす時、杉の枝、ヒソプ、緋糸を投げ入れ、一緒に焼きます。
(5) 灰が集められ、清い水を作るために、宿営の外に保存されます。
(6) 汚れを清める必要が生じたとき、灰の一部を取って容器に入れ、そこに新鮮な水を注ぎ入れて、清めの水を作ります。
(7) 身体の清い人がヒソプをその水に浸し、汚れた者、天幕、食器に振りかけます。
(8) 清い水によって身の汚れを清めない者は民の中から断たれます。
(B)霊的な意味
「清い水」の霊的な意味について見ていきましょう。
■雌の赤い牛は丸ごと焼きつくし、「灰」にされました。その「灰」に「新鮮な水」を注いで「清い水」を作ったのです。贖罪の捧げ物の儀式は、動物の雄が捧げられましたが、ここでは雌の牛です。
性には意味があると思います。罪に対して初めに責任を負う者はイブ的な存在であるより、アダム的な存在なのです。ですから、罪の赦しは雄の動物でした。清めは活動する命の清さに関係しています。人の命はイブからのものですから、清めの儀式の捧げ物はイブ的なものである必要があったのだと思います。「赤い」というのは罪の色です。主なる神は人の罪を「緋のよう罪」と言います。緋色は罪の色を表しているのです。
■赤い雌牛だけが灰になったのでありません。雌牛が屠られたときに注ぎ出された「血」も雌牛と共に焼かれました。「生き物の命は血の中にある」と書いてあります。単に雌牛の身体が焼きつくされただけでなく、命そのものである「血」も焼き尽くされ灰になったのです。これは贖罪の捧げ物になかったことです。罪の赦しの時には、血は焼かれませんでした。振りかけ、塗られたのです。清めの時には、焼き尽くされました。サタンの命によって汚れた体だけでなく、「血」である命そのものが焼かれたのです。
(4)「杉の枝」はレバノンの杉の木の枝です。これはこの世に属する、強い生命の象徴です。堅い自我の土壌の中に深く根を下ろして、そびえ立った強い自我の言い分、この世の強さを求める欲望である杉の木、それが赤い雌牛と共に燃やされたのです。
「緋糸」とはそのような自我の内に働く、一筋の罪の力です。罪の始まりは、細い一本の緋の糸が紡ぎ出され、やがて罪の形を一枚の布のように織りなしていくのです。その「緋の糸」も「赤い雌牛」と共に焼き尽くされました。
「ヒソプの枝」とは人が自分を清め、救おうとする自力ではないでしょうか。
旧約の人は罪の汚れをヒソプの枝で祓ってもらいました。しかしヒソプの枝に清めの力があるわけではありません。ヒソプの枝を浸した「清い水」に清めの力あるのです。ですからヒソプの枝は自力なのです。
■それらはみな、赤い雌牛と共に灰になるまで焼かれたのです。「灰になるまで」とは、もうこれ以上、焼き尽くしようがないところまで徹底して、と言う意味です。赤い牛もその血潮も杉の木も緋の糸もヒソプの枝も、全く原形をとどめません。徹底的に、灰になるまで焼き尽くされる必要があると神は判断されたのです。
これが神の生まれながらの人に対する見解です。主なる神はあるがままの私たちの存在、命をこのように、ご覧になっているのです。今日の問題は私たちが神と同じように見るかどうかです。見なければ、心から「清い水」を求めないので、神はその人に水を振りかけません。私たちはいつまでも汚れたままです。
■汚れを清める必要が起こったとき、その「灰」に「新鮮な水」を加えて、「清い水」を作るのです。「新鮮な水」という訳はよくありません。この訳は霊的な意味が分かっていません。新改訳では「湧き水」となっています。新欽定訳ではrunning waterとなっています。湧き出て、流れる水です。ヘブライ語は「生ける水」と言う意味まで含んでいるそうです。これは明らかにキリストの命の水の象徴です。焼き尽くされて「灰」となったものに、キリスト命の水が注がれたとき、全ての汚れを清める「清い水」となるのです。
キリストは十字架の上で、このことも成就なさいました。ヨハネによる福音19章には次のような記録があります。
兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。するとすぐ血と水が流れ出た。
主イエスは私たちの新しい命のために、罪の赦しの血潮を流しただけではなく、清い「水」も注ぎ出したのです。ひどく砕かれた体からです。ハレルヤ!私たちは両面の恵みにあずかるのです。罪の赦しと汚れの清めです。
誰がこの恵みにあずかりますか。求める者です。誰が求めますか。私たちのあるがままの存在、強い自我の言い分、この世に属するものへの強い欲望、罪にまでなっていない一筋の悪の力、自分で自分を助けようとする自力をことごとく、焼き尽くすべきもの、灰になるまでに滅ぼし尽くすべきものであると、主なる神と同じように思っている人です。
このように自分の罪を憎み、嫌悪し、聖なる神と心を一つにする人は聖なる人です。
その人は心から「聖なる者」となることを求め、神はその上に「清い水」を振りかけ、全てのサタンの汚れから人を清くされます。