神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

第152回 あなたは何者か



(1) 自分を知らないことを知る



これは神の人、ダビデの祈りです。
主よ、あなたは私を究め私を知っておられる。
座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け、私の道にことごとく通じておられる。
私の舌が一言も語らぬさきに、主よ、あなたは全てを知っておられる。・・
神よ、私を究め、私の心を知って下さい。私を試し、悩みを知って下さい。
ご覧下さい、私の内に迷いの道があるかどうかを。
どうか私をとこしえの道に導いて下さい。            詩編139

主なる神は彼を心から愛されました。
神に愛された彼は、主なる神に向かって祈りました。
「神よ、私を極め、私の心を知ってください」
「ご覧下さい。私の内に迷いの道があるかどうか」
「どうか私をとこしえの道に導いてください」
この祈りは何を意味しているのでしょうか。
一国の王であり、神の預言者でもあった信仰の人、ダビデでさえ、「自分が何者であるか」をよく知らなかったのです。私たちも自分が何者であるか本当は知りません。
自分を知らないと言う点で、私たちは同じです。
私たちと彼の違いは、ただ一つです。彼は自分が自分を知らないことを知っていました。一方、私たちは自分が何者であるか分かっていないことを分かっていないのです。今日、これは教会に残されている一つの問題です。
これは紙一重の違いですが、やがて東と西ほどの距離を生んでいく、決定的な違いです。


(2) 人間とは何者かを知る――救いの第一段階



私たちは自分が自分にとって何者か。人にとって何者か。又、人が自分にとって何者かを知りません。自分について、人について知ることは、祈りの始まりであり、救いの始まりです。人は自分を知らないでは、祈ることさえ出来ません。
多くの神の人は、主の前に裸になって立ち、切実な願いと祈りをささげました。そして約束の恵みを受けました。
イザヤは神の約束について預言して、御言葉を語りました。
主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。
私を遣わして、貧しい人に良い知らせを告げるために。
うち砕かれた心を包み、捕われた人に自由をつながれている人には解放を告知させるために。
主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、・・灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。         イザヤ 61章

主は何のためにこの世に遣わされたのですか。
主は「貧しい人」に良い知らせを告げるために来られました。
この言葉は真実です。確かに主は「貧しい人」を心から愛し、豊にされます。
問題は、あなたが貧しいのか、それとも富んでいるのか、です。あなたが富んでいて、大した不自由もなく、暮らしているなら、主の良き知らせは、あなたに何の意味もありません。あなたと主とは何の関係もありません。
もし、あなたが自分の本当の姿を知り、自分が裸であること、いかに貧しかを知るなら、主はあなたを満ちあふれる豊さの全てによって、満たすことがお出来になります。「貧しい人は幸いである。天の国はその人のものである」と主が言われるとき、自分の貧しさを知った人は幸いである、という意味です。
              ○
主は「うち砕かれた心」を包むために来られました。 一つの災いがあなたを訪れます。主はその不幸を通して、あなたをうち砕こうとされますが、あなたはうち砕かれるとは限りません。
あなたは「人生はこんなものだ」と諦めようとするなら、あなたはうち砕かれません。あるいは、「今は悪い時だ」と言って、やりすごそうとするなら、あなたはうち砕かれません。あなたの内には「諦め・忍従」という力がまだ残っています。
あるいは又、あなたが心で「こうなったのは、あの人のせいだ!」と言うなら、あなたはうち砕かれていません。「あの人さえいなければ・・」と怒りをはらむなら、あなたはうち砕かれていません。「神に向かって祈ってきたのに、なぜ・・」とつぶやくなら、あなたはうち砕かれていません。
あなたは、まだこのように主張する古い、生まれながらの,自我の力を十分に持っています。あなたのかたくなな自我は生きています。しかし、生まれながらの自我が主張する力さえ失うなら、あなたは砕かれた人です。
どんな人が主の砕きを受け入れるのでしょう。
それは、自分の小ささや弱さや愚かさを知って、なお、清い希望を捨てない人です。人の小ささや弱さや愚かさが見えて、なお、それを悲しむことの出来る人です。その人は誰も責めることが出来ません。人を呪うことが出来ません。その人は全ての古い主張を失って、砕かれた人になります。
その人は涙の人です。ただその人だけが、神に向かって「助けてください」と言うのです。これは砕かれた人です。砕かれた人はへりくだるのです。
この人は清い希望を捨てることの出来ない人です。求めずにはおれない人です。
主はこのように「うち砕かれた人を包む」ために来ました。砕かれた人は幸いです。
悲しみの人は幸いです。「悲しむ人は幸いである。その人は慰めを受けるからである」と言われている通りです。
その人は、求め続け、神の愛に包まれ、癒され、神の光に照らされて起きあがります。
              ○
主は「捕らわれた人に自由を、つながれた人に解放を告知する」ために来られました。主はこのような人を放置することが出来ません。問題は、あなたが何に捕らわれ、つながれているかです。
もし、あなたが何かに捕らわれているなら、喜びなさい。主があなたに解放と自由の喜びを与えられます。しかし、もしあなたが捕らわれていることを認めないなら、あなたの将来に可能性はありません。あなたの未来に希望はありません。
人が何にもつながれていないことなど決してありません。人は多くのものにつながれています。人は、いつも、なってはいけないものの奴隷となっています。完全な自由人は存在しません。完全に自由な方は、神様お一人です。
奴隷とはどのような人でしょうか。――――
昔一人の下僕がいました。
主人に書状を託されました。他領にいる友人にそれを届けるように命じられました。彼は忠実な下僕でした。書状を懐に入れて、渡し船に乗りました。多くの人が乗船してきました。万が一にも、取られてはいけないと心配し、それを手にしっかりと握りしめました。
一人の乗客が立ち上がり、その不注意から、渡し船が大きく傾き、―手で揺れる体を支えた彼はその書状を濡らしてしまいました。彼が書状を広げて乾かしているとき、隣にいた一人の武士がその文面を読みました。
「お前は、誰に頼まれて、それを持っていくのか」
「ご主人様です」
「何が書いてあるのか知っているのか」
「とんでも御座いません。私は文字が読めませんし、又、仮に読めても、ご主人様の書状を盗み見るような不作法を働くものでは御座いません」
「船が向こう岸に着いたなら、お前はその手紙を捨てて、他国に逃げなさい。お前の主人の友は多額の金を払って、名刀を買い入れた。試し切りをしたいが、適当なものはないか、と言ってきたので、お前の主人はこの書状を運んだ者で、切れ味を試せばよかろうと、書いているのだ」
この下僕は親切な武士に出会うまで完全な奴隷でした。下僕はどこに行くのかさえ、知らなかったのです。真の奴隷は自分が奴隷であることさえ知らないのです。あなたはこのようであってはいけません。
人が一つの奴隷状況から解放されるためには、自分が何に捕らえられているかを知らねばなりません。自分をつないでいるものが何であるかを知るときだけ、人は自由を求め、解放を求めるのです。あなたは自分を偽ることがあってはいけません。
しかし、あなたが自分を捕らえているものが何であるかを知るなら、あなたは自由にされます。神が私たちを奴隷にしていたものに、報復を告知されたからです。あなたのくびきは折られ、縄目は解かれています。
私たちが何かに捕らわれていることは大した問題ではありません。何につながれているのか知らないことが重大な問題です。自分が何者かを知らないことこそ問題です。知れば、多くの願いと祈りが立ち上がってきます。すると、自由になり解放されるのです。
このようにして、「貧しい人」「砕かれた人」「捕らわれた人」の嘆きに、喜びの香油が注がれ、暗い心に賛美の衣をまとわせられます。
これらのことは救いの第一段階です。
神は私たちの救いについて、ご計画を持っておられます。これは神のご計画の第一段階です。私たちは速やかにこの段階を終えるべきです。終えれば次の段階へ進むことが出来ます。


(3) 「正義の樫の木」――救いの第二段階



第一段階の恵みを受けた人は、喜びに溢れています。信じる者に働く神の力がどれほど人間を変えることが出来るのか、知りました。このような人が世の多くの不幸を見るなら、じっとしておれません。この人は働き始めます。教会の中で、家庭の中で、職場の中で、働き始めます。
彼等は主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。
彼等はとこしえの廃墟を建てなおし、古い荒廃の跡を興す。
廃墟の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。           イザヤ61章

        主なる神にとって「正義」とは何か、分かりますか。
それはあなたが「主の輝き」を現すことです。主の栄光を現すことです。
主の栄光とは何でしょうか。
あなたの悲しみが神の愛に慰められたなら、それが主の栄光です。
あなたの暗い心が喜びに溢れたなら、それが主の栄光です。
何かに捕らわれていたあなたが解放されたなら、それが主の栄光です。
私たちの敵が報復されたとき、主の栄光が現れたのです。
ハレルヤ!これが主の栄光です。
あなたの上に何であれ、主の栄光が現れること、それが主の正義です。
全ての人に救いを与え続けること、全ての人に救いの手をさしのべ続けること、それが主の正義です。
あなたの正義は人を嫌悪しますが、神の正義は人を救うのです。ハレルヤ!
大いなる神の御名をたたえます。
あなたが悲しんでいる人、闇に閉ざされている人、捕らわれている人の上に主の栄光を現すために祈り、語り、行動するなら、主はあなたを「正義の樫の木」と呼んで下さるのです。世もあなたのことを同じように呼ぶのです。
こうして神は私たちの真実の味方です。そのことを知ることがあなたの希望と信仰です。
あなたは、主なる神によって――――
「とこしえの廃墟」を建て直し、
「古い荒廃の跡」を興し、
「廃墟の町々、世々の荒廃の跡」を新しくするのです。
この目的のために、主はあなたを派遣されています。
あなたは自分が派遣されていることを知っていますか。
あなたの前に、神の救いの必要な人は、一人もいないのですか。
たくさんいるはずです。一方では、それはあなたが可哀想に思う人です。他方では、それはあなたを嫌悪させる人です。あなたが嫌悪する人ほど、神の救いを必要としている人はいません。あなたはその人の救いのために派遣されているのです。
あなたは一度でもいいから、一人の人の救いについて最後まで、全責任を負うべきです。あなたがその責任を引き受けないなら、主のご計画は実現しません。
あなたは一度でいいから、とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興すために、真実を持って祈り、語り、行うべきではありませんか。
この信仰による戦いの中で、あなたはますます、神を知り、ますます清くされ、生きるものとなるのです。聞くだけに終わることなく、あなたは決断すべき時に来ているのです。熱くも冷たくもない状況があるなら、今日それと決別してください。そうしないと後に来るものが先になるでしょう。
これがあなたに対する主なる神の第二段階のご計画です。


(4) 誰でもキリストのある者は新しく生まれたのである。



あなたたちは主の祭司と呼ばれ、私たちの神に仕えるものとされ、国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする。
あなたたちは二倍の恥を受け、嘲りが彼らの分だと言われたから、その地で二倍のものを受け継ぎ、永遠の喜びを受ける。・・
彼らを見る人は全て認めるであろう。
これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。       イザヤ61章

御言葉の通り、私たちは肉の思いに従って生き、多くの恥を受け続けました。
嘲りが彼らの分だと言われてきました。しかし、それ故にこそ、主はこの地で二倍のものを受け継がせたいのです。御自分の民が辱められ、侮られることは、主の深い悲しみだからです。主は世の人々に言わせたいのです。彼らこそ、神の祝福を受けた人々だ、と。
二倍のものとは何でしょうか。
あなたが神の似姿に回復されるなら、あなたは一倍の祝福を受けたのです。
あなたが人の廃墟を建て直し、荒廃の跡を興すなら、あなたは世の誉れを受け、二倍の祝福を受けたのです。すべてのキリスト者は二倍のものを受け継ぐために派遣されています。
実際、この教会は多くの一倍の祝福に恵まれてきました。多くの証言がそれを語っています。あなたは全てを読み直すべきです。
私たちは一度でも恵みに不足したことがあるでしょうか。決してそんなことはありません。私たちに不足しているものは、受けた恵みにふさわしい感謝と信仰です。そして二倍のものを受け継ごうとする意欲です。
これが今日、教会のもう一つの残された問題です。

イザヤは神の栄光を知りました。そして知った者にふさわしく語りました。
シオンのために私は決して口を閉ざさず、エルサレムのために私は決して黙さない。
彼女の正しさが光となって輝き、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。・・
エルサレムよ、あなたの城壁の上に私は見張りを置く。
昼も夜も決して黙してはならない。主の思い起こしていただく役目の者よ、決して沈黙してはならない。又、主の沈黙を招いてはならない。
主が再建にとりかかり、エルサレムを全地の栄誉として下さるまでは。 イザヤ62章

ここにキリスト者としての特権的義務があります。責任があり、働きがあります。
あなたがキリスト者として、この特権的義務を果たすなら、あなたは神の栄光を見るのです。あなたは神をますます深く知り、その栄光によって照らされ、その満ちあふれる豊かさによって満たされていくのです。
あなたは、この地で二倍のものを受け継ぎ、永遠の喜びを受けるのです。あなたは世の誉れを受けるのです。世の栄光を受けるのです。
あなたは何者でしょうか。
あなたは最早、古い,生まれながらの,人ではありません。あなたはキリストにあなたって新しくされたのです。
これがあなたに対する神のご計画です。
あなたは神に対して、怠惰であってはいけません。不実であってはいけません。
あなたは勤勉であり、よく努力する人でなければなりません。
あなたは持てる最も清い信仰を神に捧げ続けねばなりません。最も深い感謝と従順を捧げ続けねばなりません。それは苦痛でしょうか。それは重荷でしょうか。
もし、そう感じるなら、あなたは今日までただの一度も、最も清い信仰、感謝、従順を捧げたことがないのです。ですから、その喜びや幸せを知らないのです。捧げなさい。そうすれば、あなたはますます喜びと感謝に満たされます。
あなたはある日とりなし祈るが、次の日祈らない人であってはいけません。あなたは自分の気分に左右されるようではいけません。あなたが気分で生きるなら、あなたは朝笑い、昼思い煩い、夜落ち込むでしょう。あなたの心は猫の目のように変わり続けます。少しもあてに出来ません。人はあなたを信頼できません。
ですから、あなたは自分の気分に屈服することなく、闇があなたを覆うときこそ、御言葉に立って、全てを働かせて益としてくださる真実の神に、感謝と願いを捧げねばなりません。こうしてあなたは神のすべての言葉に対して誠実であり、人の目にも信頼に足る人になるのです。
あなたは又、熱くも冷たくもない、生ぬるい自分を奮い立たせ、からみつく不信仰の罪、現状に妥協しようとする自分をかなぐり捨てようとしなければなりません。
あなたは自分の都合ばかりを考えてはいけません。あなたは人の必要を考えるべきです。主の喜びのために、人の喜びのために。これは神の子の特権的な義務です。責任です。
あなたがこの義務を果たそうと心に決めるなら、主は喜んで、そうさせて下さいます。あなたの道は御言葉の光によって照らされます。また道を歩く力が与えられます。
あなたの祈りは、以前にもまして聞かれるようになります。
あなたの祈りに答えて、神があなたのためになさることを見て、驚き、喜びます。
あなたは何者ですか。
あなたは最早、生まれながらの古い人ではありません。あなたは新しい人です。
あなたは「とこしえの廃墟」を建て直し、「古い荒廃の跡」を興しました。あなたは「主が輝きをあらわすために植えられた正義の樫の木」と、呼ばれます。
これがあなたに対する主のご計画です。
ですから、怠惰のものとならず、勤勉でありなさい。誠実でありなさい。努力を惜しまない人でありなさい。ものを考えない人ではなく、最も大切なことを見分ける人になりなさい。信じない人ではなく、信じる人になりなさい。信仰は決断です。絶え間ない決断です。そこに上からの信仰が注がれるのです。
かつて、お腹のすいた群衆に食事を供給するために、持っていた「五つのパンと二匹の魚」を主イエスの命じるままに、捧げた少年がいました。少年の持っていたものはとてもしいものでしたが、彼はもてる全てのものをささげたのです。
あなたも主の奇跡を期待するなら、持てる全ての善いものを、それがどれほど小さなものであっても、主に捧げねばなりません。もし、少年が「五つのパンと二匹の魚」を捧げなかったなら、主は5000人の人に食事を供給できなかったのです。あなたが主に信仰を捧げ、願いを捧げなければ、主はあなたに何一つ与えることが出来ません。
しかし捧げるなら、あなたは多くのものを受けるのです。






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