第147回 この方が神を示した
(1) キリスト・イエスはどのようなお方か。
キリスト・イエスは「人となられた、生ける神」です。
肉眼は神を見ることは出来ません。キリスト・イエスは私たちの目に見えるように、人となられた、生ける神として地上に来てくださったのです。キリストは人間には絶対に来ないことばかりをなさいました。また、人が到底、持つことの出来ない、深い愛を示されました。その愛によって、弱くて愚かな人間をあるがままに受け入れ、愛し、癒し、清め、高められました。
キリストがこの世に来られたことは、世界史を大きく変えました。世界の年代はただ日本をのぞいて、全てキリスト以前とキリスト以降に分けて呼ばれています。
紀元前は、「BC」と言いますが、これはキリスト以前(Before Christ)という意味です。紀元後は「AD」と言いますが、これはキリスト以降(Ano Domini)という意味です。
このように世界はキリスト以降と以前が全く違う世界であることを知っています。キリスト以前には人類の救いの望みはありませんでしたが、以降は救いが訪れたからです。キリストの救いについて、具体的に紹介するなら、聖書には次のように記録があります。
大勢の群衆がイエスに従い、押し迫ってきた。
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れこみ、後ろからイエスの服に触れた。
「この方の服にでも触れれば癒して頂ける」と思ったからである。
するとすぐに出血が止まって、病気が癒されたことを体で感じた。
イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「私の服に触れたのは誰か」と言われた。そこで弟子たちは言った。
「群衆があなたに押し迫っているのが、お分かりでしょう。それなのに、誰が私の服に触れたのか、とおっしゃるのですか」
しかしイエスは触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って、恐ろしくなり、震えながら進み出て、ひれ伏し、全てをありのまま話した。
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。
もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」
この物語は五つのことを語っています。
一つ、女は主が生ける神であること知っていました。そして「この方の服にでも触れれば、癒していただける」と信じていました。彼女が生ける神に触れたとき、十二年間も続いていた彼女の出血が止まったのです。主の体から彼女が願い、信じたとおりに神の命と慈しみが流れ出たのです。
神を見た者は誰もいません。主イエスがこのように、目に見える形で現してくださったのです。ですから、主に触れた者は神様に触れたのと同じなのです。主を見た者は神を見たのです。主の声を聞いた者は神の声を聞いたのです。
二つは、女は十二年間も病気でした。出血は子宮内膜症か、筋腫によるものでしょう。彼女は全財産をなくすほどに医者を巡り歩きました。しかし医者はこの病を治すことが出来ませんでした。大切なことは十二年間もの間、彼女はこの病気を治したいと願い続けてきたことです。
人は大抵あきらめます。一つの願いを持ち続けることは決して易しいことではありません。もし、彼女があきらめて、「仕方がないわ」と思っていたなら、彼女は群衆をかき分けて、主の前に進み出なかったでしょう。そして、主の衣に触れることはしなかったのです。
神の救いは、私たちが心からの願うときに、訪れるのです。
ですから、主は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれるからである」
求めること、求め続けることこそ、全ての救いの始まりです。願いのないところに何一つ善いものは訪れません。今、みなさんの魂の願いが、何かはっきりとしてください。また、神様が私たちの心の中に、健やかな願いを興してくださいますように。
三つは、主は娘に言われました。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」
主は、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。信仰とは何でしょうか。しがみつくことです。主に触れることです。それは依存です。信頼です。その信仰が女を救ったと主が言われるとき、救いを受ける人間の果たすべき分が明らかです。それは、キリストに向かって祈ることです。キリストにしがみつくことです。
四つは、「安心して行きなさい。元気で暮らしなさい」と言われたことです。
主イエス様は、女が元気で暮らすことを望んでおられます。女の人生が安心であることを望んでおられます。これは神様の願いです。神様は私たちが元気で暮らすことを、安心の内に、平和の内に暮らすことを望んでおれます。
主イエスは哀れみ深い神です。その哀れみは人間のものとは全く違います。主は飼い主のいない羊のように弱り果てている人々を見て、何度も何度も、彼らを深く憐れまれ、悲しみを包み、痛みを癒されました。原語(ギリシャ語)の聖書は、主が憐れまれたことを「スパリンクロズマイ」と言っています。
これは「胸がはきさけそうな哀れみです」痛みの直接的な共有です。決して、上から哀れむ、口先だけのものではありませんでした。主に出会った人々はみなこの愛、哀れみによって、癒され、慰められ、包まれることを経験したのです。
五つは、主が「あなたの信仰があなたを救った」という言葉です。
女は出血の癒しを求めてきたのです。そして望みの通り、癒されました。それなら、「あなたの信仰があなたを癒した」と言えばすむことです。「救った」という必要はありません。「救う」というのは「癒す」と言うこと以上です。これは何を意味しているのでしょうか。
ルカによる福音書五章には、中風を患っていた男が戸板に乗せられて、主イエスの所に運ばれて来た話が記録されています。主イエスはこの男に言われました。
「人よ、あなたの罪は赦された」
男は病気の癒しを求めてきただけです。あの女と同じでした。しかし主は「あなたの罪は赦された」と言われ、そして寝たきりの男の病気を治し、立って歩けるようにされました。これは重大なことを意味しています。
主イエスを生ける神と信じて、主の前に来るものは、申し述べた願いが何であれ、その罪まで赦されたのです。これは重大なことです。罪が赦されるとうことは、再び神の民とされ、神のあらゆる守りと養育の中に置かれることです。新しい人生が始まることです。神からの命、愛、清さ、平和、力の中に生かされることです。それは私たちが生まれながらに持ってきた命とは全く違います。それは私たちが全く新しく生まれ変わることです。罪が赦されるとは、そんな意味を持っています。
このようにキリスト・イエスは私たちの罪を赦し、神の民とし、それにふさわしいあらゆる恵みをお与えになるために、来られたのです。私たちが何かを求めて、主の前に立つなら、主は、今日も私たちの罪を赦し、願いを満たしてくださいます。
(2) 罪と罪の結果について
世界の人は「罪とは何か」知っていますが、日本人は「恥ずかしい」ということを知っていても、「罪とは何か」を知りません。罪とは何でしょうか。神の言葉ははっきりと語っています。
彼等は罪に定められる。自分の力を神としたからだ。 (ハバクク1章)
自分を神とすること、自分の正しさによって生きること、神の存在を認めないこと、主なる神は、それが罪であると言われます。私たちは自分の正しいと思うことによって生きるように教育されてきました。しかし主なる神は、神の正しさによって生きるように人をお造りになりました。人間の正しさと神の正しさは、全く違うのです。
人は自分の正しさによって、高慢になります。人を裁きます。嫌悪し、蔑視します。怒り、憎みます。正しく生きている人ほど、人を裁きます。そして人間関係を殺していきます。人の正しさは人を殺すのです。
しかし神の正しさは弱い人を強め、悲しんでいる人に慰め、恐れている人に平和を与え、汚されている人を清くします。闇の中にいる人を光の中に連れ出します。神の正しさには嫌悪がありません。蔑視がありません。憎しみがありません。それは人を殺しません。人を豊に生かします。主の命の中に生きる人は、このようになります。
ですから、主なる神は自分の力(感情、考え方など)を神とすることが罪であると断言されるのです。日本では、多くの人が罪の中に生きていることになります。罪の結果について、神は言われました。
罪のゆえに、誰一人、命を保つ事は出来ない。 (エゼキエル7章)
それは私たちが、やがて死ぬという問題ではありません。生きている間にも命の喜びがないのです。生まれながらの命は年と共にすり減っていきます。必ず、行き詰まりが来るのです。生きる意味を失い、生きる活力を失い、喜びを失ってなっていきます。
神の言葉はそのことも言っているのです。人生がこのようになるのは、私たちが罪の中にとどまり、その中に生き続けているからです。自分の正しさを神として、命の源である神を捨てたからです。ですから、神は言われました。
あなた方が生きているのは名ばかりで、実は死んでいる。
あなたは、私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない、と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
私たちが自分のこのような現状を認め、主の前にへりくだって、神の命と愛の中に立ち帰っていくなら、私たちの魂は癒されます。私たちは新しい神の命の中に生かされる喜びを知るのです。
(3) 罪の赦し・十字架について
罪の結果は死です。罪の中にとどまる限り、全ての人が死んでいきます。それは神の摂理です。私たちが本当の意味で生きるようになるためには、誰かがこの罪を担い、死を担い、取り除いてくれなければなりません。
主イエスは、地上で肉体を持って働かれたとき、助けを求めてきた全ての人の罪を赦し、救いをお与えになりました。時が満ち、全ての人の罪を赦すために、全ての人の身代わりとなって罪と死を担い、死なれました。それが十字架です。
人は誰もみな、自尊心が高く、その上、自らの良心と知性によって神に立ち帰ることが出来なくなるほどに、良心も知性も曇ってしまっているのです。自分の方から神を知り、その懐に立ち帰ることが出来なくなるほどに神を忘れ、また、高慢になってしまったのです。
主はその私たちに代わって、罪の結果が受けるべきもの、即ち死そのものを担ってくださったのです。私たちがただ主の恵みによって神の民とされるためです。私たちが罪とは何の関係もない、新しい命を生きるようになるためです。それは父母から頂いた命ではありません。創造主なる神から頂いた聖なる命です。その命は神の栄光に輝きます。神の清さ、豊かさに溢れています。それはやがて朽ちていく命ではありません。とこしえの命に至る全く新しい命です。この命は実在します。
キリストは十字架の上で、罪の中に死んでいる全ての人々のために祈られました。
「天の父よ、彼らのこの罪を負わせないでください。自分で何をしているか分からないのです」
ある人は祖国の自由のために、ある人は自分の思想を守るために死ぬことが出来ます。しかし誰も罪人のために死ぬことは出来ません。誰が罪ある者の代わりにこのように命を懸けて、とりなすことが出来ません。この祈りによって、私たちの罪は赦されたのです。主の愛は十字架の上にきわまったのです。
キリストは三日目によみがえられ、多くの人に前にその姿を現され、救いの約束を与え得て、地上から天に引き上げられました。全ての人を救うためです。
その約束とは・・・
私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は永遠の命を得、また裁かれることなく死から命へと移っている。
私は世の光である。私を信じる者は闇の中を歩まず、光の中歩む。
私たちの神は御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによってあなた方に必要な全てを満たしてくださいます。
私たちは今日、永遠の命を持っていますか。光の中を歩んでいますか。
全ての必要が満たされていますか。人生の経験を積むごとに、神に似るものとなっていますか。この救いの約束は現実のものです。あなた自身のものです。キリストによって罪が赦され、病気が癒されたあの人たちのように、私たちが主のもとに救いを求めていくなら、主は私たちのそれを与えられます。
(4) キリストは、昨日も今日も変わりません。
キリストは今日、ここに、私たちと共におれます。私たちを愛し、元気で、安心の内にこの世の旅を終え、神の国へと帰っていくことを助けてくださいます。
十八年間も出血が止まらなかった女が主に触れて癒されたように、私たちが今日、自分がどのような者であるかを知って、主に触れるなら、主の命を受けるでしょう。
この命について、主は次のように言われました。
乾いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きて水が川となって流れ出るようになる。
「生きた水」とは、神の命です。「生きた水」が私たちに注がれ、また、私たちの内に置かれると、私たちは神の命の中に生かされます。神の愛、平和、清さ、自由によって満たされます。その時、病気も癒されます。
私たちの魂は深いところで、この命に飢え乾いています。この命は私たちの本当の故郷です。全てのいきとし生けるものは、この神から生まれ、この神に帰って行くように創造されたからです。私たちの魂はいつも永遠なるものに憧れています。それは、私たちが永遠なる方から離れているからです。
主を仰ぎ見ましょう。主に向かって心を開きましょう!主は、私たちに新しい命をお与えになります!その命を知ってください!主はまた言われました。
疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい。
私があなたを休ませてあげよう。・・私に学びなさい。・・
そうすれば、あなたは安らぎを得られる。
この言葉は真実です。重荷を負っている人は主の前に進み出ましょう。あなたは必ず、安らぎを得ます。全ての重荷を主に申し上げ、主を仰ぎ見ましょう。あなたが安らぎを得た後、主の語られた言葉から学び続けてください。そうすれば、安らぎはあなたの日常となります。主は、また、言われました。
全て真実なこと、全て気高いこと、全て清いこと、全て愛すべきこと、全て名誉なこと、また徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。・・
そうすれば、平和の神があなた方と共におられます。
・・私たちの神は御自分の栄光の富みに応じて、キリスト・イエスによってあなた方に必要な全てを満たして下さいます。
神は私たちをこのように清いもの、聖なるものにしてくださいます。罪の故に、私たちがどんなに汚されたとしても、主の命が私たちの中に満ちてくるとき、口で表せないほど清くされます。
汚れとは、嫌悪、怒り、思い煩い、不安、恐れなど全ての善くないものです。
主は、全ての人を御自身の命によって清くされます。気高くされます。
一人一人の必要を満たすために、主は訪れてくださいます。ただ心を主に向かって開いてください。ただ主を仰ぎ見てください。素直に、自分の必要を主なる神に申し上げてください。あらゆる邪念をかなぐり捨てて、祈ってください。
魂の故郷である神なる主よ、全ての命の源である主よ、来てください!
私たちもあなたを見上げます。心を開きます!願いと祈りを捧げます!
(5) イエス・キリストの御名によって
どのように祈るかについて、主は言われました。
あなたが私の名によって何かを願うならば、父はお与えになる。
今まで、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。
そうすれば、与えられ、あなた方は喜びで満たされる。 ヨハネ16章
イエスに御名によって、私たちが願い、祈り、求めるなら、天の父は答えて下さいます。求めることに制限はありません。キリストは言われました。「あなたが私の名によって何かを願うなら」 神は主イエスを通して私たちの、生活の全ての面において、私たちを喜びで満たしたいのです。神の前にへりくだって、祈って下さい。私たちは、キリストの御名によって何も求めませんでした。求めましょう。そうすれば、与えられ、喜びで満たされます。