神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

第144回 この川の流れる所

(1) 決断するだけが信仰ではない。



 イエス・キリストの戒めは、どれをとってみても人の力で実行出来るようなものはありません。主は私たちに出来ないことを要求されました。例えば、次のように。
「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。・・自分にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。罪人でも愛してくれている人を愛している。また、自分に善よくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。・・あなた方は敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は恩を知らないものにも悪人にも情け深いからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」                   (ルカ6章)
 神のみ言葉は、祝福された人と人の関係を結ぶために、神のものとされた人が、どのような人でなければならないかを語っています。また人間の関係の中に恵みを受け、報いを受けるための取り決めが書かれています。
悪口を言う者や侮辱する者の祝福を私たちが祈らない限り、私たちは主の命・平和・喜びに満たされることはありません。しかし祝福を祈るなら、主の命の中に生きるようになります。これが恵みです。
また、自分に悪意を持つ人に善いことをしない限り、私たちは報いを受けません。しかしするなら、その人との間に互いに尊び、支え合う関係が回復されるのです。これが報いです。
 主は人と人との関係の中に、恵みと報いを与えようと、私たちをどんな時でも、清くしておきたいのです。この恵みは清い私たちを通して実現するのです。主は私たちを愛されているように、私たちを侮辱した人をも愛されているのです。
 私たちはこのことを既に知っています。知っていてもその者を赦し、祝福を祈ることは簡単には出来ません。侮辱する者を憎み、愛する者を愛するのは人間の生まれながらの性質です。その性質は強い力を持っているので、私たちは主の御言葉に決して自分の力で従うことは出来ません。それを人の「罪の性質」と言うのです。
 しかし、私たちが御言葉に聞き従うことを願い求め、「罪の性質」を捨て去ると決断するなら、そして聖なる主を心の内にお迎えするなら、主の命と清さによって満たされ、自分の力では、出来なかったことが出来るようになるのです。
 ですから「信仰は決断」であると、言ってきました。これは間違っていません。パウロは次のように、自分の経験を語っています。
全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめながら。このイエスはご自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右におすわりになったのです。あなた方が気力を失い、疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
あなた方はまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したこがありません。(ヘブライ12章)

 信仰は決断であることが、このパウロの言葉から分かります。
 しかし、神の言葉は異なる信仰の道も説いています。今日そのことを学ぶのです。
まことにイスラエルの聖なる方、我が主なる神はこう言われる。
「お前たちは立ち返って、静かにしていれば救われる。安らかに信頼していることにこそ、力がある」と。           (イザヤ30章)

 主なる神は、信仰とは、「静かにしていること」だと言っています。「安らかに信頼していることにこそ力がある」と言っておられます。これは主を仰ぎ見て、全ての全てをゆだねることです。決断という言葉の強さがここにはありません。これは自己放棄です。
 この道は、私たちの安心です。救いです。決断は強い意志の力を必要とします。「ゆだねる」のは、決断する力さえないほどに、私たちの力が弱くなったときです。主はその私たちをも喜んで建て直してくださいます。
主イエスが私たちの弱さをどのように御覧になっているか、パウロ自身、同じヘブル人への手紙の中で次のように言っています。
この大祭司は私たちの弱さを同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。だから憐れみを受け、恵みあずかって、時宣(じき)にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
・・・大祭司は御自身も弱さをまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることが出来るのです。                    (ヘブル5章)

 私たちの救いの道は完全です。私たちは力あるとき決断します。しかし力ない時、主は「そのままのあなたを私にゆだねなさい」と言ってくださるのです。主に感謝します。


(2) この主の愛と救いの力に、ゆだねること



イザヤが「お前たちは立ち返って、静かにしていれば救われる。安らかに信頼していることにこそ、力がある」と語ったのは、北イスラエルがその罪のゆえにアッシリヤに滅ぼされようとしていた時です。神の裁きが目前に迫っていたのです。しかし民は主に立ち帰る心も能力もありませんでした。その民に向かって主は言われました。
この罪はお前たちにとって高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ。
破壊は突然、そして瞬く間に臨む。その破壊のさまは、陶器師のつぼが砕けるようだ。
容赦なく粉砕され、・・破片も残らないようだ。
まことにイスラエルの聖なる方、わが主なる神はこう言われる。
「お前たちは立ち返って、静かにしていれば救われる。安らかに信頼していることにこそ、力がある」と。しかしお前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。
「そうしていられない。馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「早い馬に乗ろう」と言った故に、お前たちを追う者は速いであろう。
それゆえ主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ主は哀れみを与えようとして立ち上がられる。

イスラエルは罪の極みの中で、一国が滅びるほどの裁きを受けました。しかしなお、罪から離れ、主なる神の名を呼ぶことができませんでした。神はその弱さを御覧になって言われるのです。
「それゆえ主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ主は哀れみを与えようとして立ち上がられる」
私たちの神はこのようなお方です。神の裁きは裁きのためにあるのではありません。罪から離れ、主の所に帰ってくるためにあるのです。ですから、帰ってくる心さえなくしたイスラエルの愚かさと弱さの故にこそ、神御自身が恵みを与えようと待ち、憐れみを与えようと立ち上がられるのです。
私たちの神はこのようなお方です。ここに全ての信仰の土台があります。信仰は決断です。切断する力もないとき、主にゆだねることです。それも出来ないとき、主御自身が恵みを与えようと立ち上がられるのです。主なる神の人の知恵を遙かに越えた愛と救いが啓示されるとき、私たちはこの神を信じるのです。
エゼキエルは同じことを次のように言いました。
まことに主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧舎が自分の羊がちりじりになっている時に、その群れを探すように、私は自分の群れを探す。・・私は彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。・・
私が私の群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。私は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする。私は彼らのためにひとりの牧者を起こし、彼らを牧させる。・・
私は彼らのくびきの棒を折り、彼らを奴隷にした者の手から救い出す時、彼らは私が主であることを知るようになる。             (エゼキエル34章)

 「一人の牧者」は既に起こされ、この世に来られました。主イエス・キリストです。
主イエスは私たちに代わって神の全ての裁きを受けて下さり、十字架は私たちの罪の完全な赦しとなりました。十字架は私たちの癒しとなり、再建となりました。イザヤ、エゼキエルを通して主なる神が約束された救いの約束はことごとく今、現実となっています。
 この神の愛、十字架の愛に信頼するなら、私たちはどのような罪の力の中にあっても神の救いを得るのです。清くされ、新しくされ、神の命に溢れるのです。
 とするなら、私たちはルカ6章の御言葉に従えない弱い自分のまま、主の前に進み出るべきです。そして主を信頼して、イエスの御名によって、言うべきです。
「主よ、この罪の力から私を自由にして下さい。私の汚された心を清くしてください。
あなたの御言葉に従えるように私の受けた全ての傷、その痛みを癒してください。包んでください。慈しみ深い御手に、私はゆだね、静かに信頼しています。私はあなたの民、あなたは私をとこしえの命へと導かれるまことの神です」
 私たちがこのように真実の神の御手に、全てゆだねるなら、主が私たちの傷を包み、癒し、清め、強め、引き上げてくださるのです。


(3) この川の流れるところでは全てが生きる。



見よ、水が神殿の敷居の下から沸き上がって、東の方へ流れて行った。・・
これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、即ち汚れた海に入って行く。
すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所では、どこでも、全ての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。・・この川が流れる所では全てが生き返る。    (エゼキエル書47章)

 この水、この川とは、神の「命の水」のこと、聖霊のことです。
 私たちが受ける聖霊は神殿から流れ始めるのです。神殿はどこにあるのですか。それはイエスの十字架の赦しを信じた人の体の中にあります。主イエスの罪の赦しを信じるなら、誰でも再び神の子となるのです。聖霊はその証印です。私たちの体は聖霊の宿る神殿です。ですから、私たちは外にある人間の作った偶像を拝む必要がありません。主なる神は私たちの内におられるからです。
 「神からの命の水」は、私たちの存在の深い所から流れるのです。
どこに向かってでしょうか。「これらの水は東の地域に流れ、アラバを下り、海、即ち汚れた海に入って行く」のです。「命の水」は、清い所を選んで流れて行くのではありません。「命の水」は川となって、私たちの魂の最も汚れた海へと流れて行くのです。ハレルヤ!主よ、ありがとうございます。
十字架も同じです。それは清い場所に立ったのではありません。「サレコウベの丘」の上に立ったのです。それは犯罪者が処刑された場所です。イスラエルの中で最も呪われた場所です。十字架はそこに立ったのです。十字架は、私たちの心の罪深い腐葉土の中に深く突き立ち、私たちの罪を赦し、私たちの打ち傷をいやしたのです。全ての呪いを祝福に変えたのです。主よ、ありがとうございます。
 ですから、「命の水」も私たちの最も罪深いところ、弱いところ、深い闇につつまれた所を選んで流れ出てくださるのです。その水の流れる所では、全てのけがされた思いが清くなり、全てのものが生きるようになります。これが「命の水」です。それは神の聖霊です。
 キリストの十字架が立つまでは、この世は聖霊を知りませんでした。「命の水」を知りませんでした。しかし私たちは今日、「命の水」を持っています。聖霊を持っています。それは、私たちが生まれながらの罪に死んで、新しく神の命に生きるようになるためです。
 この霊によって満たされ、この水によって生かされるなら、私たちはルカ6章の掟を「神の力」によって実行できるようになります。生まれながらの人間の能力によるのではありません。
そして「命の水」に満たされ、生かされてて、その力でルカ6章の御言葉に聞き従い、私たちの悪口を言い、侮辱した人を赦し、祝福を祈ると、その人は清くなるのです。私たちを尊び、愛するようになるのです。ハレルヤ!
私たちの神は回復の神です。祝福の神です。私たちの拒絶と嫌悪のくびきをこのようにして砕いて、自由にしてくださいます。これが恵みです。これが報酬です。
それゆえに、私たちはただこの神を信頼して、仰ぎ見るのです。この神に全てをゆだねて、静まるのです。悪いことをした人に善いことをするのです。
私たちが聖霊を受け、「命の水」に溢れるためには、私たちは清くなって、その上で神の前に出るのではありません。私たちは汚されたまま、弱いまま、小さいまま、主を仰ぎ見るのです。いいえ、むしろ、それだからこそ主を仰ぎ見るのです。闇が深まった後、曙が訪れるのと同じ確かさで、私たちを御自身の「命の水」によって清め、満たしてくださいます。
私たちのなすべきこと、それは主を仰ぎ見て、静まることです。ゆだねることです。
私たちの持つべき心、それは神の清さへの飢え渇きです。ハレルヤ!主は立派な人のために来られたのではありません。自分の正しさを主張する人のためにこられたのではありません。
神の正しさは悪を善に変えます。人の正しさは悪を嫌悪し、きって捨てます。それは人を孤独にします。暗くします。しかしか耳の正しさは平和と親愛をもたらします。ですから、神の正しさを知った者は自分の正しさを価値のないものとして捨て去るのです。
神のものとされた私たちはこの正しさを追い求めるのです。飢え乾くのです。主なる神は「聖なる者になれ」と言われました。聖なるものとは神の正しさを知っているものです。自分の正しさを放棄するものです。
 全てのキリスト者の魂は「聖なるもの」への憧れを持っています。飢え乾いています。
 もしそうなら、全てのキリスト者は神の命を受けます。聖霊を受けます。全てを清くし、全てを生かす命の水を受けます。そしてルカ6章を実行するようになります。そして恵みを受けます。報酬を受けます。 ここにキリスト者の喜びがあります。命があります。






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