神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

第137回 とりなしの確信(1)

私たちが正しいからではなく、聖なる御名の故に


今日、教会はとりなしの祈りについて、二つの問題を持っています。
 一つは確信の不足です。もう一つは特権的使命感の不足です。
 とりなしは、神が備えて下さった救いの道です。祝福の道であり、守りの道です。それは特別な祝福の道です。「キリストの福音は初めから終わりまで信仰を通して受け取る」のが神の摂理ですが、私たちがとりなす人については、主はいかなる信仰も従順も飢え渇きも救いの条件として求められません。その意味でとりなしは特別な祝福の道です。
主なる神はとりなすキリスト者にだけ確信を求められます。
キリスト者は神の祭司です。私たちは神の祭司です。あなたは神の祭司です。祭司とは民に代わって、とりなすものです。あなたは自分の捧げるとりなしを通して教会を祝福し、家族を災いから守り、神を知らない多くの人に救いをもたらすことが出来ます。とりなしは神の現実を動かす力です。ハレルヤ!とりなしの祈りは教会と家族と社会に多くの実際的な利益をもたらします。
主は祭司である私たちに「確信」を求められます。とりなすとき、祭司に「確信」が要求されています。では、「確信」とは何に対する確信でしょうか。今日、そのことを明らかにされますように。
 もう一つ、明らかにならなければならないのは、私たちのとりなし祈ることについての「特権的使命」の自覚の問題です。私たちは神を知らない者ではありません。私たちは神を知り、また神によって知られています。ハレルヤ!私たちは神の祭司として立てられています。祭司は普通の人ではありません。神に仕える人です。それが祭司の任務です。そのことによって生かされ、生活しているものです。
 私たちだけが、神の救いに選ばれ、祭司に任命され、神を知るようになりました。私たちだけが神に語りかけることが出来ます。また神の語りかけを聞くのです。これは特権的恵みです。ハレルヤ!神を知らない人の幸せのためにとりなせるのです。私たちは有益な存在です。祭司には、神の愛と真理の言葉を取り次ぐ、それ以上に本質的な仕事はありません。私たちを通してしか、私たちの家族や友人が神の祝福を受け、神を知ることは出来ません。私たちが救いの鍵を握っているのです。私たちが祭司としてのこの「特権的使命」を果たさないで、私たちの人々が神を知り、確かな人生を歩むことは決してありません。神を知らない人たちの幸・不幸は、私たちがこの使命を果たすことにかかっているのです。
 教会もまた、互いの弱さのために、とりなし合うことによって強められ、特別な神の養育の中におかれます。互いにとりなし合っている教会は、特別な祝福の中に置かれます。そして速く成熟します。もしあなたの祈りが神の速やかに聞かれたなら、もしあなたが神の御臨在を思いもよらず親しく感じたなら、もしあなたの暗闇に神の光が突然、差し込んだのなら、あなたのために心を注いで、とりなしている人が教会の中にいると思いなさい。そのことで、主に感謝しなさい。
私たちはとりなしの祈りをしてこなかったわけでありません。しかし、この二つがはっきりされなければ、私たちのとりなしは極めて気まぐれなもの、安定のないものとなります。私たちはある時とりなし、ある時とりなしません。全く信頼出来ません。主の役に立ちません。祭司として極めていいかげんであり、怠慢です。それゆえ、主なる神は、今日、以降、私たちの一人一人をご自分の祭司として固く見前に立てられます。ハレルヤ!


(1) ダニエルの祈りから学ぶ



北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされて100年後、南ユダもバビロンによって滅ぼされました。民は偶像を拝み、聖なる神の公正に逆らい、あらゆる悪の中にとどまりつづけ、神に立ち返ることがなかったからです。民は捕囚となって祖国からバビロニアの地に強制移住させられました。ダニエルはその捕囚の中にいて、ただ一人イスラエルの罪の赦しのために、断食してとりなし祈りました。
ダニエル9章
主よ、・・私たちは罪を犯し、悪行を重ね、背き、逆らって、あなたの戒めと裁きから離れました。・・私たちは・・あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民が恥をこうむっているのです。・・
私たちの主のなさる事は全て正しく、それに対して、私たちは御声に聞き従いませんでした。・・神よ、耳を傾けて下さい。目を開いて、私たちの荒廃と御名をもって呼ばれる都の荒廃をご覧下さい。
私が正しいからではなく、あなたの深い哀れみのゆえに、伏して嘆願の祈りを捧げます。
主よ、聞いて下さい。主よ、お赦し下さい。主よ,耳を傾けてお計らい下さい。私の神よ、御自身のために救いを遅らせないで下さい。あなたの都、あなたの民は御名をもって呼ばれているのですから。

 ダニエルは不従順の民、それゆえに恥をこうむっている民のためにとりなしたのです。主はダニエルの祈りを聞かれました。バビロンはペルシャによって滅ぼされ、ペルシャの王キュロスは奴隷であったイスラエルの民を解放したのです。それだけでなく、バビロンによって破壊された神殿の再建を保障し、援助しました。信じられないことがおこったのです。これがとりなしの力です。
 ダニエルの「とりなしの確信」は、どこにあったのでしょうか。ダニエルは民の中に何らかの可能性を見ていたのでしょうか。そんなことは決してありません。民の中には神に立ち返る心も、信仰も、祈りもありませんでした。むしろ身の不幸の故に、神を恨みさえしていたのです。神の救いを受けるべきどのような条件も民は持っていませんでした。ダニエルの「祈りの確信」は民の中に全くありませんでした。
 このことは、今日、私たちのとりなしの確信をどこに置くのか、という問題にとって極めて重要です。
 私たちが誰かのために一週間とりなします。しかし祈りは聞かれるようすがりません。私たちの心はなえて、とりなしを止めてしまいます。その原因について心で思い図ります。ある時、自分のような者の祈りは聞かれないのだと思います。ある時、とりなした人の心がかたくなであり、神の救いについて何も望んでいなからだと思います。こんな人はいくらとりなしてあげても、意味がないと思います。
 これはカインの祈りです。私たちがこのような心で祈っているから、神は私たちの祈りが正しくなるのを待っておられるのです。また、正しい祈りに導こうとあらゆる機会を捉えようとされているのです。これが祈りの応答が遅れている理由です。しかし私たちは祈りを止めてしまったのです。
 何故こうなるのでしょうか。
私たちは神の愛を信じていません。神がとりなしをどれほど喜んでいるかを知りません。
私たちは神の祭司であって、取りなすことは神からの使命であることを知りません。ですから、「私の祈りなんて・・」と思うのです。
もう一つは、私たちのとりなしの確信は「人がどれほど良質か」に置かれているからです。神の救いに値する人がどうか、神でない私たちが判断しているのです。これは僭越(せんえつ)です。
 ダニエルはイスラエルの民の中に、どのような救いの条件も見出せませんでした。民は今日の日本の民と同じように、かたくなであり、神を求める心がありませんでした。
ダニエルの確信は、その民の中にではなく、神の中の置かれているのです。ダニエルの祈りをよく聞いて下さい。
「神よ、耳を傾けて下さい。目を開いて、私たちの荒廃と御名をもって呼ばれる都の荒廃をご覧下さい。私が正しいからではなく、あなたの深い哀れみのゆえに、伏して嘆願の祈りを捧げます。
主よ、聞いて下さい。主よ、お赦し下さい。主よ,耳を傾けてお計らい下さい。私の神よ、御自身のために救いを遅らせないで下さい。あなたの都、あなたの民は御名をもって呼ばれているのですから」

 ダニエルは民の罪にもかかわらず、その真実な、慈しみ深い御名を確信したのです。罪を赦す聖なる神の愛を信じたのです。「私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみの故に」と、ダニエルは祈っています。
 私たちは今日ダニエルの祈りから学ばねばなりません。神は私たちが正しいから私たちを救われる神ではありません。99人の正しくない者を1人の正しい者の祈りによって救われる神です。ダニエルはそのことを確信していました。
 また、ダニエルは「御名をもって呼ばれている民の荒廃」に耐えられませんでした。
 御名をもって呼ばれる民が、罪の故とは言え、卑しめられ、辱められていることに耐えられませんでした。ダニエルは愚かで、かたくなな民の不幸と悲惨に心を痛めたのです。「あなた方が罪の中にとどまり続け、神に立ち返る心がないのだから、仕方がないゎ」とは言えなかったのです。
また、神の民が卑しめられることで、神の御名が卑しめら得ることに耐えられなかったのです。彼は神を愛していたからです。自分の神を誇っていたからです。ダニエルは愛の人でした。正しい人でした。神の慈しみを信じた信仰の人でした。彼は正しい人でした。
それゆえに、その祈りは速やかに聞かれたのです。
 正しい人の祈りは聞かれるのです。効力を持つのです。正しい祈りが聞かれるのではありません。正しい人の祈りが聞かれるのです。私たちが正しい人であるなら、私たちがとりなしている人の不信仰や汚れや固くなさは、神の目に問題ではありません。神の目にはとりなす者の正しさだけが問題です。
民は正しいから救われたのではありません。神が正しいお方だから、ダニエルの正しい祈りを通して、正しくない者を救われるのです。ハレルヤ!人が正しくなければ、救われないのなら、誰一人救われる者はいません。神が正しい神だから、正しくない者が一人の正しい者の祈りによって救われるのです。ハレルヤ!
私たちはとりなしの確信を人の中に置いてはいけません。聖なる神の真実の愛の中にこそ、とりなしの確信を見出すべきです。聖霊はキリスト者の役割について語っています。
Ⅱコリント5章
神はキリストを通して私たちを御自身と和解させ、又、和解のために奉仕するつとめを私たちのお授けになりました。つまり神はキリストによって御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。

 聖霊は「人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられた」と断言しています。ハレルヤ!私たちの罪がキリストの十字架によって、あがなわれる以前さえ、主はダニエルの祈りを聞かれました。ましてキリストの十字架によって、私たちの罪が全て赦されている今日、神が私たちのとりなす人の「罪の責任を問われない」のはなおさらです。
 ですから、今日、私たちは人々の不信仰、かたくなさ、汚れの深さを指差し、とりなしを止めるようなことがあってはいけません。私たちはあだかも神のように人を罪に定めてはいけません。キリストの十字架による「和解の言葉」が私たちにゆだねられているからです。今日この御言葉が私たちの「確信」となりますように。主は罪人を裁くためではなく、救うために来られたのです。ハレルヤ!主は言われました。
マタイ9章
医者を必要としている者は丈夫な者ではなく病人である。
「私が求めているのは憐れみであって、いけにえではない」とは、どういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。


(2) 教会に対する特別啓示から学ぶ。



主なる神は、藤原を通して、とりなしにかかわる多くの啓示を与えられました。私たちはそのほとんどを心に留めることもなく、無視して来ましたが、今日、私たちはその光に照らされたいと思います。
人の心はとらえがたく病んでいる。
お前たちの心がそうであったように、多くの者が病んでいる。
お前たちはその者に代わり、祈り続けよ。私を知らぬ者に代わり、祈れ。
心なえ、希望を失った者のために。深く傷つき、闇を歩く者のために。
お前たちのとりなしの祈りにより、私は愛と慰めをこの地に注ぐ。
一つとなって祈れ。この闇を打ち砕け。
ほめ歌え、高らかに。お前たちの歌は勝利の歌。豊かに歌い、私の霊を喜びで満たせ。
お前たちの喜びが私に伝わる。お前たちの喜びが私の喜びとなる。(1995・4・4)

 とりなしは、神を知らないその人に代わって、その人の必要を祈ることです。これは神の目に常識だったのです。主は私たちのためにこのようにして下さいました。
今は闇。混沌としているこの地。この地に輝かせ、私の光を。
一人一人の心に私の光を照らせ。暗黒の中に私の光を。
人はすぐ変わる。人の心は移り行くかげろうのよう。光と闇の中を行き交う。
私と悪の中を行き交う。私は見る、人の心に私が入れるかどうかを。
お前たちは知るまい、私の計画。ひたすら祈れ。とりなせ。
闇の世界からはい出るように、祈り続けよ。今は私の喜びを与える時。
私の光を与える時。伝えよ、私の名を。多くの者に伝えよ。(1995・5・3)

 聖霊様は、あだかも、人が「光と闇を行きかい」「神と悪の中を行きかう」のは、「闇の世界」が関係しているからだと語っておられるようです。サタンの惑わしと覆いと攻撃の中で、人の魂は永遠なるものに向かって静まれないのです。そのお方がどこにおられるか、遠くを見つめられないのです。聖霊様はそのように言っておられるようです。
 ですから、とりなしは、人々がこの闇の世界から這い出るように祈ることを含むのです。
その闇の世界を打ち砕くことがどうしても必要なのです。
お前たちは今、私の道を歩き始めた。私が全ての人を赦したように、お前たちも赦せ。
いと高き方の愛を見よ。赦しがたき人の罪を、お前が背負え。
そうすれば、私がその罪を背負い、赦そう。お前たちが赦さなければ、私は赦すことが出来ない。私の救いを与えることが出来ない。
自分に与えられたその岩を、喜んで受けよ。そうすれば、豊かな祝福がある。
お前たちは嘆け。もっと嘆け、闇に中にいる人のことを。
私を知らない者のために、もっと嘆け。     (1999・1・22)

 キリストの十字架は完全です。全ての人の罪を赦しました。しかし十字架の効力が及ばないときが二つあります。一つは聖霊を冒瀆する時です。もう一つはキリスト者が罪を赦さない時です。
 一人の人がキリスト者、神の祭司であるあなたに対して罪を犯します。あなたを深く傷つけ、悲しませます。もし、あなたがその人を恨み、嫌悪し続け、赦さないなら、その人は救われません。主はその人を赦すことは出来ません。キリストの十字架の効力はどこにもありません。その人は罪に定められます。その人の救いは未来永劫にわたってありません。神の祭司であるあなたが人の罪を赦さなかったからです。
この啓示はそのように語っているようです。藤原は神の啓示を取り損ねて、言いすぎているでしょうか。決してそんなことはありません。主御自身が次のように言われました。
ヨハネ20章
父が私を御遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。そう言ってから彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でもあなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」

 人がキリスト者に対して罪を犯すことは特別な意味を持つのです。神の祭司は保護されているのです。主の御名がたたえられますように。しかし、これは恐ろしい特権です。あなたは自分の赦せないという思いために、一人の人を地獄の追いやりたいですか。主の苦しんだ十字架の愛を無駄にしたいですか。それほどあなたの赦せない心は、」価値があるのですか。
 主は「赦しがたき人の罪を、お前が背負え。お前たちは嘆け。もっと嘆け、闇に中にいる人のことを。そうすれば、私がその罪を背負い、赦そう」と言われました。
イスラエルが主を十字架につけ、その上「お前が神の子なら、そこから降りて来い。そうすれば信じてやろう。人を救ったのに自分を救えない王なのか」と罵倒した時、主はそれらの人々のために「父を彼らの罪を彼らに負わせないで下さい。自分で何をしているのか解っていないのです」と、十字架の上で釘づけられながら、とりなされました。
私たちもこのとりなしの祈りによって救われたのです!それでも私たちは赦せないでしょうか?十字架のこの愛を知って、なお私たちは自分の思いや言い分に価値を見出すのでしょうか。ハレルヤ!私たちは決してそんなことは出来ません!私たちがいくら赦さないと言っても、この神の愛が私たちの心に迫ってきます!主よ、あなたの愛が赦す心を与えて下さいます!ハレルヤ!誰が主の愛から私たちを引き離すことが出来るでしょう?!






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