第135回 外なる人を砕く・4
(1) キリスト者の品性と力
スティブ・ケイラーは「キリストの品性」について語り、教会はキリストの品性を身につけない限り、神の役に立たないを言い切りました。キリストの品性とは、「愛と信仰と希望」です。それはキリスト御自身のことです。主なる神はキリストの品性を通して、教会にすべてを支配させます。「罪の力」に打ち勝たせ、サタンを支配させ、多くの罪に捕らわれた人を解き放ちます。
教会に必要なものは、まずキリストの品性です。それから力です。品性がよくなければ、力は役に立ちません。教会は力だけを求めてはいけません。むしろキリストのように感じ、思い、考え、行えることを求めるべきです。主なる神の最大の望みは、私を「この世から区別された者」「完全な者」「聖なる者」「キリストに似る者」とすることです。教会を通して御自身の栄光を世に現すためです。
キリストの品性を身につけるためには、汚れた自分の品性が放棄されねばなりません。
ケイラーは自分の歴史を振り返って、語っています。
「キリストの品性を身につけさせるために、神はリーダーを砕かれます。神は私たちを荒野に導かれます。リーダーは一人でこの荒野を通過しなければなりません。そこで多くの余計なものを捨てて来なければ、主の役に立つ者になれません」
キリストの品性を通して、聖霊の感化力が働くのです。キリストの品性が私たちに平和と安定を与えるのです。教会が古い自分の品性で、善いことを語り、行っても何の感化力もありません。天然の自分、肉の自分に感化力はありません。感化力は聖霊にあるのです。
私が神への愛と神に対する信仰と神からの希望をもたないで、何百回深い感動的な説教をしても、それは徒労です。感化力を持ちません。しかしわたしに愛と信仰と希望があるなら、説教が少々まずくても、強い聖霊の感化力を持ちます。ですから、あなたたちも気を付けなさい。あなたが何を語り、行うかが大切なのではありません。あなたに聖霊の感化力があるかどうかが大切なのです。
ケイラーは試練をくぐりました。神の試みを経ました。砕かれ、削ぎ落とされ、多くの学科を学びました。そして主の者として聖別されたのです。
「私は、昼ほこりまみれになって、人の家の縁の下に潜って家族を養ってきました。私はくたくたになって、夜、教会の奉仕のために出かけました。私はそのような時を知っています。私は自分の子供がお菓子を欲しいと言っても、50円のお菓子を買ってやれなかった時を知っています」
主は心をこめて彼を砕き、清められたでしょう。彼は涙と共に主に従い通し、主の訓練を終えたのです。私は主と彼の間にある「愛の関係」の厳しさと喜びを見ました。私はこの神の人を尊びます。主もこの人を尊ばれていることが、彼の語る言葉に聖霊が共におられることで解ります。私たちもこのように主を愛し、主に尊ばれるべきです。
教会が自分より主を愛するなら、主にどこまでも従っていくなら、主は教会に対して全てのなさりたいことが出来ます。人間的な品性は関係ありません。教会の人間的な力量は関係ありません。主は教会の品性や能力の足らない部分を補われるのではありません。全く新しくされるのです。ハレルヤ!主の品性と能力が私たちの品性と能力となります!あなたの家柄は関係ありません。あなたの学歴は関係ありません。あなたの過去は関係ありません。主を愛し、主に従う者は、誰であれ、主に似る者とされるのです。ハレルヤ!これが私たちの主です。主はただ、一つのことを要求されます。それは「シモン・ペテロ、あなたはこれらの者たちよりも私を愛するか」と言う私たちの心です。
私たちは主以外に、主よりもよいものを持っていません。教会が誰より主を愛し、尊び、喜んで聞き従うことは難しいことではありません。ですから、主は私たちを高めて、豊かにして下さいます。ハレルヤ!
(2) 一粒の麦は地に落ちて死なないなら
夏のリバイバル聖会が終わった後、アメリカ・ニューヨーク市の牧師、A・W・トウザーの著書、「神への飢え渇き」に出会いました。トウザーは言っています。
「イエス・キリストの十字架によって、聖所と至聖所を隔てていた神殿の幕は、裂けて、取り除かれた。私たちが主なる神と交わる上で、神の側にいかなる障害も、もはや存在しない。神は御自身との深い交わりに私たちを招き入れるために、至聖所を開け放たれた。神は私たちが至聖所に入ってくるのを待っておられる。それなのに、どうして私たちは神との麗しい交わりを持ち、その中にとどまり続けられないのか。
問題は私たちの側にある。問題は私たちの内側にある垂れ幕にある。キリストの十字架が、神殿の垂れ幕を完全に取り除いた。しかしキリスト者の内側に神の御顔を見上げさせない垂れ幕が取り除かれないまま残っている。それは自我という幕である」
トウザーはあれこれの罪について語っているのではありません。彼は人間の存在そのもの、性質について語っているのです。
教会は何と自分を愛していることでしょう。何と自分を尊んでいることでしょう。何と自分に聞き従っていることでしょう。これが全ての人のありさまです。これが自我です。「自我」について、神の言葉は次のように言っています。
私について来たい者は自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、私のために命を失う者はそれを救うのである。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
(マルコ8章・マタイ16章・ルカ9章)
自分の命であろうと、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。(ルカ14章)
「自我」は「自分」です。「自分の古い命」です。この世に属する自分の思いです。生まれながらの「私自身」のことです。
トウザーは「自我は垂れ幕」であり、主なる神との親しい交わりを隔てている、と言います。神は「私」を放棄せよと言われます。十字架につけよと言われます。トウザーは自我の垂れ幕を取り除けば、生ける命の川が私たちの中に流れ込むと言います。神は教会が「自分の命」を憎み、それを捨てるなら、「自分の命」を救うと言われます。神は「自分の命」を少しはましな者に改善せよ、とは言っておられません。十字架につけよ、と言っておられるのです。神の目に私たちの「命」は改善の余地はありません。それは放棄されるべきものです。放棄した時、「得る命」があるのです。
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それなのに教会はなかなか「自分の命」を捨てようとはしません。未だに、多くの価値を認めています。神の言葉は私たちが「罪人」であることを語っています。しかし私たちの目には「罪人」である私たちの中にも多くの善いものがあるように見えるのです。
私は自分の中のよいものに依存して、五十年生きてきました。そして神の中にもっと善いものがあることを知りました。それだけが善いものであることを知りました。私がかつてよいと思ったものは、本当はよいものではないこと、むしろ悪いものであることを知りました。
例えば、私たちの中には人間的な親切、善意、誠実、思いやり、情熱、努力があります。これは善いものです。神の似姿です。しかし「性質」が悪くて善くないので、人はこれらの人間的な力を自分の満足のために使います。自分が認められ、尊ばれるために使います。
キリスト者になってからもこの性質は残っています。ですから、病気を癒しても主の喜びのためではありません。自分の満足のためです。人の悩みや苦しみを聞いて、祈って上げても、主の喜びのためではありません。自分の満足ためです。多くのキリスト者は主の喜びために働けません。主の喜びとは何でしょうか。それは、はっきりしています。
マタイ25章で主は言われました。
「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」
自分の満足のためではなく、自分が尊ばれるためではなく、人を愛し教会を愛して、人のために教会のために、人の満足のために教会の満足のために働くなら、私たちは主の喜びのために働いているのです。
「古い命」は自分の満足しか求めません。その性質が悪いので、神様からいただいた美しい能力さえ、自分の利益のためにしか使えなくなっているのです。古い命は「自我」であり、「自我」とは「エゴ」です。この命は必ず死にます。何時ですか。自分の思うように行かなくなった時です。見返りが期待出来なくなったときです。
私は今日、あれこれの罪や汚れた肉の思いについて語っていません。生まれながらの命、古い自我、父母から引き継いだ天然の命の実際について語っているのです。 主はあれこれの罪だけでなく、悪い性質に染まりきってしまった「命」を「捨てよ」「憎め」「十字架につけよ」と言われるのです。この性質がある限り全てのよいものが、主なる神から増し加えられても、教会の命は輝けないのです。人を生かせないのです。
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主なる私たちのために神がキリストを十字架につけた時、次のように言われました。
私たちはキリストと共に洗礼によって葬られ、その死にあずかる者となりました。それはキリストが御父によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。・・
私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配される体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷とならないためであると知っています。・・私たちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 (ローマ6章)
主なる神がキリストによって十字架に釘付けられたのは、罪だけではありません。罪を宿し、罪の支配下にある「古い自分の性質」であり、「命の性質」です。それは「私たち」そのものでした。罪の性質を持った存在そのものが釘付けられたのです。
この罪に性質のゆえに、全てのよいものが、卑しくなったのです。
神の目に、私たちの生まれながらの愛は卑しく、誠実は卑しく、善意は卑しく、努力は卑しいのです。私たちの愛は罪人の愛です、私たちの誠実は罪人の誠実です。私たちの善意は罪人の善意です。なぜなら、それは絶えず自己の満足を求めているからです。
「古い人」「外なる人」は自分が愛され、尊ばれ、与えられ、満足することばかりを考えています。人が愛するのは自分を愛した人です。その人が尊ぶのは自分を尊んだ人です。その人が与えるのは又もらいたいからです。
そのようなキリスト者の説教も、癒しも、とりなしも、賛美も、預言もみんな自分の満足のためです。決して隣人を愛したためではありません。隣人の不幸を泣いたためではありません。していることは善いことですが、心が曲がっています。
そしてこの自己中心の命、古い自我こそ「教会内部の垂れ幕」です。主の命が流れ込むのを妨げています。この垂れ幕が存在する間、主の満ち溢れる豊かさの全てによって満たされません。主ではなく、「自己中心」を自分の命として保っているからです。
このエゴは改良や改善の余地はありません。悪いところだけを削ぎ落とし、良い所だけを残しておけばいいという程度のものではありません。ですから、私たちの主は「私の命」を十字架につけ、墓に葬られる以外にありませんでした。
主の御名をたたえます。主は私たちの身代わりとなって、十字架に御自身を釘付けられました。そして、私たちの全ての罪の性質、私たち自身を十字架につけ、死に渡し、埋葬して下さいました。ご自分の満足のためではなく、私たちの幸せのためにです。
(3) 多くの実を結ぶ永遠の命・乾くことのない生ける命の水
一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って、永遠の命にいたる。 (ヨハネ12章)
この水を飲む者はまた乾く。しかし、私が与える水を飲む者は決して乾かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命にいたる水が湧き出る。 (ヨハネ4章)
私たちは今日、あれこれの罪の力だけを十字架にかけるのではなく、私たちのあるがままの命をも十字架につけるように要求されています。人の目によいと見える命も捨てよ、と要求されているのです。もっとよい命を得るためです。もっと完全な命を受けるためです。自己満足以外の実を結べない「天然の肉の命」「遺伝的なアダムとイブの命」を、神は多くの実を結ぶ「キリストの命」「神の命」と入れ替えたいのです。これが神のご計画です。
それは既に実行に移されました。キリストの死と復活です。それは私たちの死と復活です。
私たちはこの罪の性質に、もはや支配されません。その必要がありません。それは十字架の上ですぎて言ったのです。教会が自分よりも主を愛し、自分の命よりも主の命の中に「まことの命」「満ち溢れる豊かさの全て」を見出すならば、それゆえに主に聞き従っていくならば、教会は「自己中心の命」「エゴの命」が、過ぎ去っていることをその時々に見るのです。
教会が自己を放棄するなら、信仰によって「主よ、古い私は十字架の上であなたと共に釘付けられました。埋葬も終わりました。ありがとうございます」と言うなら、そして、「主よ、あなたの満ち溢れる豊かさの全てにあずからせて下さい」と言うなら、教会は自分の中に満ちてくる「永遠の命」を知るのです。「生ける水が泉となって湧いてくる」のを見て、主をたたえるのです。
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一昨年あるリバイバル聖会のロビーで、一人の意気込んだ青年に出会いました。私は混雑した会場を見ながら、「すごいなぁ。盛況だなぁ」と独り言を言ってました。すると、その青年が私の方をわざわざ振り返って、「そりゃそうですよ!大先生方が、こんなにたくさん集まって下さることは、めったにないんですから!」と叫びました。
青年はとても喜んでおり、とても興奮していました。彼は会場係りとしてこの聖会の一翼を担っているのが、腕にはめている腕章によって解りました。青年は好ましい、明るい人でした。熱心な奉仕者であり、多くの犠牲を払って、聖会の成功のために尽くして来たに違いありません。
しかしこの青年も十字架につけなければならない「自分の命」を持っています。青年は事大主義を持っています。奴隷根性を持っています。私たちがひざを屈めるべき方は、ただ神お一人です。私たちはどのような人間の権威に対しても、たとえ最も偉大な神の人に対してさえ、決してひざを屈してはいけません。あがめてはいけません。人々はキリストを求めて来るべきです。大先生に会いに来るべきではありません。
また別な聖会で、一人の教会のリーダーらしき人が、奇跡の神が生きて働いていることを興奮気味に語った後、もう一人の人に話していました。「私も、一度でもいいから、死人を蘇らせてみたいなぁ」死者が蘇ることは特別な神の愛です。それを求めることはとても良いことです。しかしこのリーダーにも十字架に付けなければならない「自分の命」が残り続けています。
もし、主なる神がこのリーダーの祈りに答えられて、死者を生かす恵みの業を行われるとするなら、彼は自分の信仰を価値あるものと思うでしょう。自分の祈りには力があると確信するでしょう。自分は大きく主に用いられる器だと思うでしょう。彼は「主よ、栄光をあなたにお返しします!」と言いますが、本当は自分がたいした者だと思うのです。彼が望んだのは自分の喜び、自分の実績、自分の満足だったからです。死者を哀れんだのではありません。家族の悲しみを共に泣いたのではありません。自分はこのようの用いられていると、満足したかったのです。
お分かりでしょうか。主は、それゆえに、「古い自分」を捨てるように、「自分の命」を憎むように、それを十字架に釘付けるように、何度も何度も言われるのです。
主は自分の命を持ち続けている人を何時までも用い続けることは出来ません。この人はどんなよいことを語っても、また行っても、自分の満足のためにしているのです。自己実現のためにしているのです。決して主を愛し、主の喜びのためにしているのではありません。彼の意欲は卑しいのです。彼の従順は卑しいのです。彼の信仰は卑しいのです。
主は愛の命を私たちの与えたいのです。自分が生かされるだけでなく人をも生かす命を与えたいのです。必要としている全てのものの所へ流れて行く、生ける命の水を与えたいのです。そしてこの「古い自分の命」こそ、生ける命の水が溢れ出るのを阻んでいるもっとも強い力です。
もし私たちが「古い自分の命」に死に、「主の新しい命」に満たされ、生かされるなら、神の似姿に作られた私たちの命の可能性は最大限に実現します。「キリストと共に死んでキリストと共に復活させられた命」以上に豊かな命はありません。主は十字架でこのことをして下さったのです。
全ての古いものを砕くのは神の清い命です。豊かな愛です。神は御自身の命と清さと愛をもって、私たちの全ての「古い人」「外なる人」「肉の命」を砕き、削ぎ落とされます。
その時、私たちは知るのです。神がどれほど私を愛しておられるか。神の命がどれほど私を豊かに生かしているか。私たちがどれほど清くされうるのか。私たちは知るのです。それに比べ、「古い自分の命」「外なる自分の命」がどれほど貧弱なものであったかを知るのです。どれほど乏しく困窮していて、裸であったかを知るのです。
そして、「主よ、御赦し下さい。私は知らなかったのです。何も知らなかったのです」と言うのです。主が下さる命・清さ・愛を知らないで、「生まれながらの命」に生きてきたことを悔やむのです。申し訳なくて、申し訳なくて、嬉しくて、嬉しくて悔やむのです。
主の御名をたたえます!主よ、あなたこそ全ての賛美と誉れを受けるのにふさわしい方です!
あるがままの人は、神の命の豊かさを知りません。愛の深さがどれほど深いかを知りません。神の清さの輝きを知りません。あるがままが癒されることが、どれほどの自由と喜びもたらすのか知りません。ですから、教会は「あるがままの自分が何者であるか」を自分でも知って悔い改めるべきです。
この悔い改めの喜びを知りなさい。それは私たちの幸いです!あるがままの自分がどれほど貧しい者、裸の者であったかを知りなさい。それは豊かな命の始まりです!もらうことばかりを考えていた、私たちは与えるようになります!自分の満足ばかりを求めていた私たちが人の満足を喜ぶようになります!勝利の人生の始まりです!それは主の大いなる喜びです!