神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

第133回 外なる人を砕く・2

(1) 「外なる人」と「内なる人」



 神の御言葉はこれらの人について、どのように言っているのか。
私は律法が霊的なものであることを知っています。
しかし私は肉の人であり、罪に売り渡されています。私は自分のしていることが分りません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしているからです。・・
そして、そういう事を行っているのはもはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
私は自分の内には、つまり私の肉には善が住んでいない事を知っています。
善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。
私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。
もし私が望まない事をしているとすれば、それをしているのはもはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで善をなそうとする自分には、いつも悪がつきまとっていると言う法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私は何と惨めな人間でしょう。死に定めれれた身体から誰が私を救ってくれるのでしょう。・・このように、私自身は心で神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。             (ローマ7章)

 「私」と言っているのは神の僕、パウロです。初期のパウロの中には「二人の人」がいました。
 一人は、神の律法を喜んでいる人。律法の実行を望んでいる人。悪を望まない人。善をなそうとする意志を持っている人。そして悪につきまとわれていることを嘆いていいる人。五体の内にある「罪の法則」のとりこになっているのを悲しんでいる人。それが「内なる人」です。それは悲しい人です。
 もう一人は、肉の人。罪の人。罪に売り渡された人。「罪の法則」に仕えている人。「内なる人」が望まない悪を行い、望む善を行えないようにしている人。「内なる人」をとりこにしてしまう人。それが「外なる人」です。
 ここでは、「外なる人」と言う言葉は使われていませんが、Ⅱコリント4章でパウロは私たちの「外なる人」が衰えて行くとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます」と、語っています。
 「内なる人」は神の律法を知っています。その心は喜んで律法に仕えています。しかし「外なる人」は神の律法を嫌って、悪に仕えています。「外なる人」は罪の奴隷です。暗闇の人、破壊の人です。しかもとても強力なのです。「私」の中で「罪の法則」は「心の法則」より強いのです。ですからいつも、「心の法則」は抑圧され、縛られています。「内なる人」はいつも負けています。

(2) 「外なる人」の法則とは何か。



 「法則」とは何でしょうか。
 世界には多くの法則がります。物理の法則、化学の法則があります。それは全てのものに例外なく及ぶ強い支配力です。また全てのものは法則に従って動き、そして反応します。この支配と反応から免れる人はいません。法則とは神の定められた摂理です。
 「罪の法則」とは、神が「受け入れ、愛し、助け、強めよ」と命じられたものを軽蔑し、嫌悪させる反応です。神が「赦し、祝福を祈りなさい」と命じられた者に憎しみを抱かせる反応です。恐れる必要のないものを恐れさす力であり、感謝すべき時に高ぶらせる力です。それは神の律法に決して聞き従いません。むしろ敵対します。それは自己中心的で、愛することを知りません。人を暗闇に閉じこめ、多くの破壊をもたらします。
これが「罪の法則」です。「私」の中に「外なる人」が力を持って生きている限り、「私」は「外なる人」に働くこの「罪の法則」から免れることは出来ません。「外なる人」は神の律法を尊び、罪を憎んでいる「内なる人」をとりこにし、縛り、閉じこめ続けるからです。
 「内なる人」は神を求めている人です。清いこと、気高いこと、愛すべきことを探し求めています。闇を憎み、光の中を歩きたいと願っています。しかし「外なる人」に閉じこめられています。「内なる人」は自由に生きることは出来ません。その命はいつも閉ざされています。これはとても辛い経験です。パウロは苦しみました。
「私」がイエス・キリストにつながる時、神はこの人に絶え間なく御自身の霊を注がれます。御自身の命、愛、清さ、力を注がれます。それをまし加えられます。神はいつも「内なる人」と親しく交わり、その人によって御自身の栄光を世に現わそうとされます。神の命と愛はいつも「内なる人」を通して外側に流れて行き、多くの祝福を世に与えます。
 しかし「外なる人」は依然強い力を持っています。「内なる人」を閉じ込め、縛ろうとします。「内なる人」との間に激しい葛藤が起こります。「内なる人」時に敗北したり、時に勝利したりします。いつも葛藤があり、安定がありません。きわめて不安定です。
 一人は神の命を持っていますが、もう一人は「罪の奴隷」のままです。どうすればいいのでしょう。「内なる人」が解放される道は一つしかありません。
 「罪の力に仕えている外なる人」が砕かれることです。「罪の奴隷となっている外なる人」を壊わされることです。弱められ、力を失うことです。
 ですから神はその都度、「外なる人」を砕かれます。正確には「罪に仕えている外なる人」をその都度、砕かれます。すると、「内なる人」の命、愛、力、清さが「私」の存在全体に満ち溢れ、外に流れ出て、世を祝福します。感化します。神の御栄光が「私」を通して現れます。砕かれたとき、「私」の中にはもはや「二人の人」はいません。キリストの品性を持つ「内なる人」だけがいます。その「人」が全体を支配し、神の御栄光は全体を通して流れて行きます。「私」は葛藤から解放されました。とても自由です。全体が神の内に生きています。世の役に立ちます。ハレルヤ。
 このために神は「内なる人」を御自身の霊によって満たすだけでなく、「罪に渡されている外なる人」をその都度、砕き、死にわたし、墓に葬らねばなりません。神が「外なる人」を徹底的に砕かれない限り、「私」には希望がありません。教会に平和がありません。いつも葛藤があります。砕かれることは「私」の幸せです。教会の喜びです。神の喜びです。教会は砕かれることを心から喜び、尊び、受け入れ、従わねばなりません。教会にとってこれ以上によいものはありません。神が教会を砕き、あなたを砕くとき、最もよいことをして下さっているのです。

(3) 神はどのように「外なる人」砕かれるか。



教会は、今日、十分な聖霊の満たしに恵まれています。しかし「古い外なる人」が十分には砕かれていません。それために「霊の思い」と「肉の思い」の間に葛藤があります。ある時は「内なる人」が教会を支配し、ある時は「外なる人」が支配します。安定した命を教会内部に保つことが出来ません。安定した命を世に注ぎ出すことも出来ません。
 教会に残り続けている「外なる人」が結ぶ実とは、どのようなものでしょうか。
(1)無知と高慢の性質です。
(2)失意と落胆の性質です。
(3)恐れと不安と無力感の性質です。
(4)盲目と無関心と現実逃避の性質です。
(5)自己中心の性質です。
(6)被害者意識と自己愛の性質です。
(7)怒りと嫌悪と蔑視の性質です。
(8)不平と不満の性質です。
(9)怠惰と怠慢の性質です。
(10)目先のことしか考えない近眼の性質です。
(11)へりくだり、生かされてあることを感謝できない性質です。
(12)不信仰の性質です。
これはキリストの性質ではありません。神がキリストによって教会に与えておられる性質ではありません。しかし誰かの性質とよく似ています。サタンの性質です。
「外なる人」は本当は、無色透明なのです。色がないのです。ですから、どのように色にでも染まります。サタンは人間の「肉」を用いて、罪を犯させます。神も人の「肉」を用いてよいことを行わせます。
 ですから神は罪に仕えている「外なる人」を砕かれるのです。そして神に仕えようとする「内なる人」を強められるのです。それは「内なる人」がただ一人の「私」となって、神の御栄光を現すようになるためです。今日、教会にはサタンの性質に染められた「外なる人」が十分には砕かれないまま、残り続けています。ですから、神は「外なる人」を必ず、砕かれます。教会は「外なる人」に影響を与えている罪の法則・性質から解放され、キリストの品性である「内なる人」が力をふるうようになります。私はこれを確信します。

(4) 神が「外なる人」を砕き、「内なる人」の命を解き放つ方法



十字架の意味について、教会は多くのことを学び、多くの恵みを受け取っています。
 今日、新しい意味を加えさせて下さい。
 十字架は身代わりの処刑です。主は、私たちの罪の身代わりとなってむち打たれました。主は私たちの身代わりとなって十字架に釘づけられました。主は私たちの身代わりとなって墓に葬られました。むち打たれ、処刑され、死ななければならなかったのはキリストではなく私たちです。主は三日後に甦られ、聖霊を注ぐために天の上られ、今日、私たちは日毎に聖霊に照らされています。日毎に、「死者の中かキリストを復活させて命の聖霊」を受けています。それは私たちが「神の内に生きる者」となるためです。神の言葉はこのことについて語っています。
私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者とされました。
それは御父の栄光によって、死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命を生きるためです。・・
私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。・私たちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。・・
私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。   (ローマ6章)

私たちはキリストと共に、十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではあません。キリストが私たちの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2章)

 皆さん、これが十字架です。死と、復活の命です。
 「私たちはキリストの死にあずかっている」のです。「私たちはキリストと共に葬られた」のです。「古い自分は十字架につけられた」のです。「罪に支配された身体は滅ぼされた」のです。「私」がキリストと共に生きるためです。キリストの命が「私」の内に宿るためです。「私」は全く新しく創造されたのです。ハレルヤ!
 主は十字架の上で言われました。「全てが終わった」「完了した」と。主の仕事は終わりました。完了しました。それは、罪に支配されている「外なる人」を砕くことでした。
十字架に釘付けられた者はもはや、奴隷にはなれません。
 「外なる人」は罪の奴隷でした。その人が「内なる人」を束縛していたのです。「内なる人」の命を閉じ込めていたのです。しかし「外なる人」は、今日、十字架に釘づけられています。もはや動けません。死に渡されました。もはや発言出来ません。「内なる人」に何も出来ません。ハレルヤ!「内なる人」の命は解放されました。自由です。
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 パウロは「十字架」と「死」と「埋葬」について語っています。しかし、キリストはその前に、卑しめられ、はずかしめられ、その上39回のむち打ちを受けたことを忘れてはいけません。十字架と死と埋葬はその後の来たのです。
 神は私たちの「外なる人」をこの経路に従って砕かれます。神は教会にキリストが通過した全ての地点を通過させられ、教会の「外なる人」を砕かれます。「罪の奴隷」となっている「部分」を砕かれます。「罪に支配されている体」を砕かれます。
 「外なる人」を残し続ける教会は、多くの辱めと卑しめを通過します。教会のその部分はは39回むち打たれます。教会の肉の部分は釘づけられます。死に渡され、埋葬されます。神は必ず、そのようにされます。  「罪の奴隷である外なる人」が辱められ、卑しめられたとき、「私」も「教会」も肉が何の役に立たなかったことを悟ります。悲嘆にくれます。顔を上げることが出来ません。
 これは「外なる人」と「内なる人」の分離です。「内なる人」の独立の始まりです。自由の第一歩です。
「罪に支配されている体」のむち打ちが次に来ます。「外なる人」はむち打ちでは死にません。まだ生きています。歩くことも話すことも出来ます。まだ幾分の感化力を持っています。しかし行動力も発言力も、とても狭くなり、弱くなりました。主の御名をたたえます。これは「内なる人」の平和です。解放と勝利の第二歩です。教会はここを通過します。
 「外なる人」の神の砕きは、まだ完了しません。それは十字架に引き継がれます。「罪の体」は、十字架に釘づけられました。それは、まだ少し発言できますが、息も絶え絶えです。もはや動くことは全く出来ません。動けない人の語りは何の感化力も持ちません。 それは多くの「肉の思い」を語るかも知れませんが、もはや影響力を持ちません。「内なる人」は安全と平和はかつてのように揺るぎません。その支配力は「内」に及んできません。いつでも無視できます。「罪の力」「肉の思い」は死を目前に控えています。死んだも同然です。「内なる人」の解放はほとんど完全です。勝利はほとんど完全です。主の十字架を心からたたえます。
 教会は安定的に主の栄光を現します。「私」から「生ける命の水」が世に向かって溢れ流れて行きます。その水は、世の汚れを清め、世の人々を生かします。ハレルヤ!教会はキリストの体です。「私」は力ある神の祭司です。祝福の源です。主の喜びです。神の子の実質を備えました。キリストの品性が解放されました。主に似るものとしていただいたのです。主と同じ業を行うためです。ハレルヤ!
 十字架はすばらしい恵みです。解放です。回復です。釘付けと死を賛美します。神の砕きを喜びをもってお迎えします。
しかし死の本質は埋葬で完全となります。埋葬は全てを完了します。これは私たちが「肉の衣」をまとっている間には起こりません。私たちの五体が死に、私たちが主の懐に帰って行くときに、現実のものとなるのです。死はキリスト者の完全な勝利の日です。

(5) 信仰によって受け取ること



十字架は単なる教理ではありません。それは現実の力です。
悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。     (Ⅰヨハネ3章)
十字架の言葉は滅んで行く者にとっては、愚かなものですが、私たち救われた者には神の力です。   (Ⅰコリント1章)

 十字架は「神の力」です。単なる教理ではありません。
 罪の奴隷である「外なる人」「罪に支配された体」は「滅んだ」のです。ハレルヤ!「私」は解放され、教会は解放されているのです。ハレルヤ!と主をたたえなさい。  「彼の打ち傷によって、私たちは癒された」と言う、神の言葉を信じて、教会は現実に癒しを受け取りました。同じように、信仰によって「外なる人」がむち打たれ、釘づけられ、死に至った事実を信仰によって受け取りなさい。受け取ったとき、「外なる人」「肉の人」がすでに死んで、動けないことが主の光に照らされて、はっきりと分かります。それは自分の自由に関わる不思議な経験です。先ほどまで力をもっていた「肉の思い」「罪の力」が本当に死んでいるのに気づくのです。何という喜び、自由、平和でしょう。パウロはこの経験について語っています。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなし得なかった事を神はして下さったのです。
つまり肉を取り除くために、御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためでした。                 (ローマ8章)

 十字架は「肉の弱さ」を取り除きました。「御子の肉において罪を罪として処断しました」
キリストにつながる教会の肉の力はすでに処断されています。罪の力は処断されています。
サタンの力は処断されています0。肉に働く罪も、罪の力も、サタンも処断されたのです。
神がキリストに担わせて、処断されたのです。キリストが私たちに代わって処断されたのです。
「罪の力」は砕かれました。「肉の思い」は砕かれました。「外なる人」は砕かれました。「霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです」ハレルヤ!
 主イエス様、ありがとう御座います!教会はあなたの十字架によって、勝利しました。
 今や「外なる人」は「内なる人」に用いられます。「霊の思い」に用いられます。教会の五体は神の栄光を現す器となりました。これは体の回復です。勝利です。教会は今まで辱められ、卑しめられていましたが、教会は世の救いの器となり、この世からも誉れ受けます。今まで支配されていましたが、今度は支配するようになりました。ハレルヤ。  これが神の御計画です。十字架の業の完成です。教会が「肉の思い」を悲しみ、罪を憎むなら、そして十字架を信じるなら、神は教会に残っている「肉の力」「外なる人の性質」を必ず砕かれます。キリストはルカ14章で言われました。
自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。・・だから同じように、自分のも共のを一切捨てないならば、私の弟子ではありえない。
 徹底的な砕きは神から来ます。十字架から来ます。それは恵みです。
しかし人間の果たすべき分もあります。それは「自分の命を憎む」ことです。「憎む」というのは深くて激しい態度です。教会は罪を憎むことに置いて、生ぬるいものであっては生けません。敵を憎むように深く激しく憎みなさい。私たちはすでに「外なる人」の言い分に従い、その命に生きてきて、十分に卑しめられ、辱められなかったのですか。「外なる人」の言い分にいかなる正しさを認めてはいけません。
 ですから、次にように心の底から祈りなさい。そうすれば、教会は十字架の力が現実のものであることを知ります。
主よ、私は十分に卑しめられ、辱められてきました。もう沢山です。私は「罪の性質」を憎みます。肉の思いを憎みます。
「罪の奴隷」となってきた「外なる人」「肉の人」がキリスト共に辱められ、むち打たれ、十字架に釘付けされ、死に渡された事実を認めます。それは瀕死の状態であり、また、死に渡されて活動できないことを認めます。私は自由です。神の栄光を現せます。
十字架が現実の神の力であることを、主よ、あなたの光によって照らして、私の悟りとして下さい。イエスの御名によって祈ります。






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