神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

第106回 死後の世界

(1) 霊は永遠に存在する


 人間は死ねば、無になると考えている人がいますが、そんな人でも、親しい人が亡くなったときには、無意識の内に「御霊前」で、手を合わせて、死後の冥福を祈ります。頭は「死は無になること」だと思っていても、人格全体は死を越えて存在し続ける人間の「霊」を知って、自然に手を合わせているのです。
 神の言葉は、人間は肉体的、情緒的、知的、社会的存在であることを見せていますが、同時に霊的な存在であることを語っています。創世記2章は次のように人の命が創造されたことについて語っています。
主なる神は土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。主なる神はエデンに園をもうけ、自ら形作った人をそこに置かれた。
 神はまず、人の肉体を土の塵(分子)を組み合わせて造りました。神が命の息(御自身の聖霊)を吹き入れると、人は生きるものとなったのです。他の生き物は皆、神の御言葉によって創造されました。ただ人だけが神御自身の命の息である聖霊を分与されて生きるようになったのです。それは神が人を御自身の似姿に、つまり神の子として創造しようとされたからです。
こうして私たちの身体の最も深い所には、神から授かった霊を持っています。この霊は朝ごとに、神の命である聖霊の補給を必要としています。絶えず神につながり、聖霊を受け続け、満たされ続けて生きるように造られています。これが礼拝です。ですから、礼拝のない生活をするなら、人は誰もみな、霊的な命を失って、生きているのは名ばかりで、死んだようになるのです。
この霊は決して死ぬことはありません。それは永遠の存在であって、決して消滅することはありません。問題はそれがどのような世界に行くのか、です。

(2) 死後の世界―――陰府について



神はすべての人が死ねば、その人の霊が陰府に行くことを旧約のあらゆるところで語っています。ヤコブは愛する末の息子、ヨセフを失ったとき、次のように嘆き悲しみました。
「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。
「ああ、私もあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう」父はこう言って、ヨセフのために泣いた。                             創世記37-33

死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。                                   詩編 6-6


 人が死ねば陰府に行くというのは、神の民であったイスラエルの共通の知識でした。主イエス御自身も陰府の世界について語っておられます。ルカ16章19節です。
 ここでは、毎日、贅沢に遊び暮らしていた一人の金持ちと、その門前で金持ちの捨てる残飯を食べながら、病気の生涯を終えたラザロという人の死後の世界が明らかにされています。
 この話はたとえ話ではありません。これは霊の世界で実際の起こったことだと信じます。
なぜなら、主イエスがたとえ話をするとき、主人とか、王とか、乙女とか、僕とか、農夫とか、言われ、固有名詞をつかいません。しかしここでは貧しくて病んでいた乞食はラザロという固有名詞で呼ばれています。ですから、これはたとえ話ではなく、陰府の世界をご覧になった主イエスが、そこで実際に起こっていることを語っておられる。そのように受け止めるべきだと思います。
このことを念頭に置いて、この話から、いくつかの真理が導き出すことが出来ます。
1. 人は死ねば、富んでいる人も貧しい人も陰府に行く。
2. 死を通して霊が身体から離れると、天使たちがやってきて、その霊を陰府に導き、アブラハムとの宴席に着かせる。別な人が死ぬと、その人は陰府で霊の炎に焼かれてもだえ苦しみながら、目を覚める。
3. 陰府には慰めの場所と苦しみの場所があって、一様ではない。
4. 慰めの場に入る人は、罪を犯すことの少なかった、貧しかった人。悲しんできた人。病気がちだった人。苦しみの場に置かれる人は、贅沢をして遊んで暮らした人。そして自分の富で貧しい人、病んでいる人を助けようとしなかった人。
5. 二つの場所は遙かに離れていて、大きな淵があって行き来できない。
6. 罪深い金持ちでも、肉体を脱ぎ捨て、霊だけの存在になると、悔い改めることが出来ることが分かる。そして自分の家族が罪から離れて、悔い改めて欲しいと願うようになる。
7. 神は公平な神であって、この世での行いを通して正しい裁きを行い、陰府のどの場所に行くかを決められる。
アブラハムは神を信じて義とされた人ですが、ラザロはイスラエルの民であるから、神を知っていたに違いないが、アブラハムのように信仰に人であったとは書かれていない。ラザロは神の公儀によって信仰の人・アブラハムと同じ場所に置かれ、慰めを受けたと思われる。

○○○

 主なる神の公平について新約では次のように言われています。
貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。 今、飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今、泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。                                     ルカ6―20

神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者はみな、この律法と関係なく滅び、また律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によって裁かれます。
・・たとえ律法を持っていない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。             ローマ2―11

神の律法を知っている人はその律法によって、律法を持っていない人はその良心によって、死後の行き先が決定される。これが神の言葉です。旧約の時代は全ての人が陰府のどこかに行きました。しかしイエス・キリストの十字架がカルバリの丘に立ち上がってからは、陰府に行かないで、天の国に導かれる人々が出てきました。十字架を信じる者の、全ての罪がキリストによって、贖わ、赦されたからです。

(3) 死後の世界―――天国について


イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。その時、神殿の垂れ幕が上から下までまっ二つに裂け、墓が開いて眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
そしてイエスの復活の後、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震や色々な出来事を見て、非常に恐れ、「本当にこの人は神の子だった」と言った。   マタイ27―51

 十字架の贖いが完成した瞬間です。全ての人々の罪が赦されました。全ての人々が生きている人も既に死んだ人もこの赦しを受け取り、神の子とされ、天の国に入れるように主なる神との間に和解が成立しました。
 聖所と至聖所を隔てていた神殿の垂れ幕が二つに裂けました。かつては、大祭司一人が年に一度、贖罪の日にしか入ることが赦されていなかった至聖所、神の御臨在のただ中にキリストを信じる者は誰でも入れるようになったのです。
主の十字架が成し遂げられたとき、「多くの聖なる者たちの体が生き返った」そして主が三日後に蘇られたとき、彼らは主と共に墓から出て、「多くの人々に現れた」のです。百人隊長を初め多くの人がそれを目撃し、非常に恐れたと書いてあります。
現実に見たのでしょうか。それとも、幻で見たのでしょうか。いずれにしろ、「本当にこの人は神の子だ」と言わねばならないほどの、衝撃を受け、復活の証人として聖書の中に記録されたのです。
「聖なる者たち」とはキリストの待ち望んでいた人、陰府の中の「慰めの場所」にいた人ではないでしょうか。ノア、モーセ、ヨシュア、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ゼルバベルなどが蘇り、その中にあの乞食のラザロも含まれていたのではないでしょうか。
主イエスは言われました。
私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。 また生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。 ヨハネ11―25
このことはパウロも聖霊に啓示されて、証言しています。
「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。
この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。                                  エフェソ4―8

 ここで言う「捕らわれた人」と言うのは陰府に捕らわれていた人です。彼らはキリストと共に天に昇ったのです。墓から蘇った人はキリスト共に天国に連れて行かれたのです。
キリストも、罪のためにただ一度、苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作らていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。      Ⅰペテロー18
主は息を引き取られた後、直ちに陰府に下って行かれました。そこに三日間、留まり、陰府の中の「苦しみの場所」にいる霊に向かって宣教されたのです。キリストは神に従わなかった多くの人々に福音を語られたのです。その後、陰府の「慰めの場所」にいた人と共に復活されたのです。すると、現在、陰府では、「慰めの場所」は空っぽです。誰もいません。「苦しみの場所」しかありません。そこには神に従わなかった人がまだ、捕らわれたままでいます。
「苦しみの場所」で、福音を聞いた人たちは、金持ちラザロが悔い改めたように悔い改めるでしょう。すると、彼らは終わりの日にどのように裁かれるのでしょうか。地獄に行くのでしょうか。天国に帰れるのでしょうか。神の言葉は、それについてはっきりとは語っていません。

○○○

 十字架以降、イエスをキリストと信じ、告白する者は陰府に行くことはありません。蘇りの主が、私たちを死から引き出して、天の国に連れて行かれます。死は最早、死ではありません。死は卑しい体、朽ちていく体を脱ぎ捨てる通過点にしかすぎません。
 キリスト者は天の国にキリストに伴われて凱旋していくのです。神の言葉はキリストによる死の勝利について、次のように書かれています。 死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげは どこにあるのか。                                 Ⅰコリント15―54
 パウロは疑い深いテサロニケの信徒たちのために、次のように言いました。 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。                Ⅰテサロニケ4-14
主イエス御自身が、ルカ23章で、主を信じる者が天の国へ行くことについて明確に語っています。主イエスと共に、二人の強盗が十字架につけられていました。一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とキリストをののしりました。しかし、もう一人はそれをたしなめて、
「イエスよ、あなたが御国においでになる時、私を思い出して下さい」と言った。するとイエスは、「はっきりと言っておく。あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われた。 ルカ23―43
 主イエスは「あなたは今日、私と共に楽園にいる」と言われました。
「楽園」「天の国」「天のエルサレム」、これらはみな同じ意味です。
 この人は十字架の上にいました。彼の人生は処刑の内に終わろうとしていました。しかし、主はただ彼の信仰と告白によって、天の国を彼に与えたのです。私たちは救われ、永遠の命を受け、天の国に帰って行くのは、ただ信仰と告白によることが、これ以上はっきりと語られているところはありません。
 この死刑囚は伝道して、一人の人を救う暇もありませんでした。貧しい人に施す暇もありませんでした。善い行いを何一つすることが出来ませんでした。ただ「あなたが御国においでになる時、私を思い出して下さい」と祈り、主を礼拝したのです。その彼に向かって主は「あなたは今日、私と共に楽園にいる」と言われたのです。
 皆さん、救いはこのように単純です。ただ信仰と告白によるのです。
前回のメセージでは、千年王国の直前で、キリスト者はその行いによって裁かれると学びました。Ⅱコリント5章でも次のように書いてあります。
「私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」
それは教会を清めて聖なる者とするための最後の裁きです。約束された救いが取り消されるわけではありません。私たちは誰であれ、イエスをメシアと信じて義とされ、告白して救われるのです。この救いの道を心から賛美します。天の国、それがどのような至福の世界か私たちが知るなら、神に感謝せずにおれないのです。神の言葉は次のように書いてあります。
見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もなない。最初のものは過去ったからである。             黙示録21―3


正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。        マタイ13―43
 ハレルヤ!私たちは神の栄光に包まれて、太陽のように輝くのです。神が私たちと共にいつもおられるからです。悲しみも嘆きも労苦もない世界。病も死もない世界。ただ神の栄光に照らされ、自らも太陽のように命の輝きながら、喜びと感謝と賛美に溢れた世界。それは神と人、人と人の真の交わりの世界です。
 天の父よ、あなたの御名があがめられますように。
 御国が来ますように。御心の天になされているように、この地にもなされますように。
 我らの糧を今日も与えて下さい。我らの罪を赦してください、私たちも罪ある者を赦しましたから。私たちを誘惑に遭わせることなく、悪よりお守り下さい。
最早、このように祈る必要のない世界です。アーメン。
私たちはこの国に信仰を守ってはいるのです。アーメン。







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