第99回 人間の救済
(1) 放蕩息子の話し***ルカ15(139)
イエス・キリストが「神の国は近づいた」と言う時、「神の国とは何か」について解説しようとされたのではありません。「神の国」とはキリスト御自身のことだからです。キリストは神の救いの力そのものです。キリストが世に来られた時、神の国が来たのです。神に立ち返った人はキリストによって、罪が赦され、朽ち果てることのない新しい命が与えられ、病気が癒され、あらゆる圧迫から解放され、心に不思議な平和を獲得しました。これが「神の国」です。
しかしキリストは御自身がもたらす「神の国」について、多くの説明もなさいました。全ての人がそれを求めて、幸いを得るようになるためです。ここでは、語られた一つのたとえ話を通して、それがどのような所であるかを示したいと思います。イエスは言われた。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前を下さい』と言った。それで父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたない内に下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たした時、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べる物にも困り始めた。その地方に住むある人の所に身を寄せたところ、その人は彼に畑をやって豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるイナゴマメを食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。
そこで彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、余りあるほどのパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここを立ち、父の所に行って言おう。
お父さん、私は天に対しても、又お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれるしかくはありません。雇い人の一人にして下さい』と」
そして彼はそこを立ち、父のもとに行った。
ところがまだ遠く離れているのに、息子を見つけて、哀れに思い、走りよって首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、又、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』
しかし父親は僕たちに言った。『いそいで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、靴をはかせなさい。それから肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』そして、祝宴を始めた。
私たちもこの放蕩息子と同じように、神の家から離れて、自分の思うままの人生を歩んできました。すると父からもらった命を使い果たしてしまうのです。初め新鮮だった命が次第にすり減って行くのです。そして、その上、災いが襲ってくる時、もはや自分の力では生きていけないことが、ますますはっきりとするのです。人生に行き詰まっていることにはっきりと気づくのです。
災いが起こらなくても悟る人は、幸いです。早く本当の命を求めるようになるからです。
放蕩息子と同じように、全ての人は自分の中に「生きる力」「命そのもの」がなくなっていることに気づく時が必ず来ます。早い人は青年期にそれを自覚します。どのように生きていっていいのか、何のために生きているのか、分らなくなります。生き生きと生きる力が自分の中にないことに気づくのです。
主なる神は、人それぞれの方法を用いて、神から離れた人生がいかに力なく、命なく、空しく寄る辺ないものであるかを悟らせます。放蕩息子が、立ち返ったように、私たちが主なる神の命に立ち返り、豊かに生きるようになるためです。
一見、何不自由なく暮している富んでいる人に向かっても、主なる神は言われます。
あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。・・
あなたは、「私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない」と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分っていない。 (黙示録3)
命の源である神から離れて生きている人は、誰であれ、放蕩息子と同じように、外見上の繁栄に関係なく、一人一人が「惨めの者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者」なのです。そう思っていては一日も生きていけないので、一人になった時に意識している自分の空しさを、仕事や趣味に対する情熱で、何とかごまかしているのです。
全ての者は神から生まれ、神に返って行くのです。返らない限り、「生まれてきてよかった」と喜ぶほどの命はありません。放蕩息子が父の家に帰って始めて、滅ぶべき命が新しくされ、平和を得たように、私たちも神に立ち返り、神の内にあって、神によって生きるように創造されているのです。
放蕩息子は幸せでした。飢饉によって、我に返ったからです。人が人生に行き詰まるのは、神の摂理です。私たちがまことの神に立ち帰るようになるためです。
(2) 放蕩息子の罪は、立ち返ったその時に赦されていた。
放蕩息子の父は、息子がまだ遠くにいる時に息子を見つけ、走りよって抱きしめました。
毎日、息子の帰りを待ちわびて、地平線を見ていたのです。ですから、息子が返って来た時、いち早く彼を見つけることが出来たのです。それは父の愛です。
返ってきた息子は、父の前で悔い改めました。しかし父は、その言葉をろくに聞かないで、抱きしめたのです。そして「この子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と言って、喜んだのです。
この世にあって、生きているのは名ばかりで、実は死んでいる人こそ、父の家に帰る時、父の愛の内に抱きとめられるのです。キリストは言われました。「私は失われた者を探すために来た」神が私たちを探しておられるのです。どうして神の胸に飛び込んでいかないのでしょう。自分の貧しさ、惨めさを知らないからです。目が見えないのです。
神は人の思いをはるかに超える愛です。受け入れです。赦しです。無条件に受け入れ、喜び祝って下さいます。立ち返る私たちを一切咎め立てされません。父の子を思う気持ちが切実であり、真実であればあるほど、父に背いた子の罪は重いはずです。父はどうして、あの放蕩息子の弁明を聞こうとしなかったのでしょうか。不思議なことです。神は義なる方でもあります。神は人間の罪について、次のように語ったおられます。
彼等は罪に定められる。自分の力を神としたからだ。 (ハバクク1)
呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、
その心が主を離れ去っている人は。
彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、
炎暑の荒れ野を住まいとする。 (エレミヤ16)
罪とは何かはっきりとしています。
あれこれの罪が生じ人が自分を汚すのは、弱くて、小さくて、愚かな人間が自分をあたかも神であるかのように考えて生きるからです。まことの神がおられることを知らずに、自分の正しいと思うことを神としているのです。私たちは人間であって、神ではありません。これが最初の罪です。この罪の故に人は行き詰まり、「荒地の裸の木」となるのです。「恵みの雨を見ることもない、人の住めない不毛の地」となるのです。多くの人を傷つけ、自らも傷つけるのです。
人間の力に信頼するものは呪われます。呪いとは、神の一切の恵みから切り離されると言うことです。神を神とせず、自らを神としたからです。これは罪の結果です。それは神の摂理です。世の法則です。誰もこの法則から、免れることは出来ません。とするなら、放蕩息子の扱いは、全く特別であったことが分ります。なぜこのような特別な赦しが先立ったのでしょうか。
この物語はキリストの十字架、身代わりの死、それによる赦しを前提としているのです。
放蕩息子の罪はキリストの十字架によって既に背負われ、赦されていたのです。それゆえに彼が立ち上がって、父のもとに帰ろうとしたその時、無条件に、受け入れられ、愛され、息子としての地位を回復出来たのです。これが「福音」です。良い知らせです。私たちの罪はキリストの身代わりの死によって、十分にまた、全く赦されているのです。十字架を信じる者は裁かれることなく、いつでも神の子としての地位を回復できるのです。そして新しい命に満たされ、養われて行くのです。放蕩息子と同じです。
(3) 神の子羊・イエスの十字架の意味するもの***ルカ23(158)
主なる神はキリストの十字架の死の意味について、多くの預言者を通して語っています。その一人、イザヤはキリスト降誕、およそ750年前の神の人です。彼はキリストによる来るべき人類の救いについて預言して次のように言いました。十字架は歴史的事実です。それも世界史に大きな救いをもたらしました。
この人(イエス・キリスト)は主(神)の前に育った。
見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。・・
彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、
彼の受けた傷よって私たちは癒された。
私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かっていた。
その私たちの罪を主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に
物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。・・
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、私の民の背きの故に、
彼は神の手にかかり、命ある者の地から絶たれたことを・・。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、
彼は自らを償いの捧げ物とした。・・
私(神)の僕(キリスト)は多くの人が正しい者とされるために、
彼らの罪を自ら負った。・・多くの人の過ちを担い、
背いた者のためにとりなしたのは、この人であった。 (イザヤ53)
キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから
贖い出して下さいました。「木にかけられた者はみな、呪われている」
と書いてあるからです。 (ガラテヤ3)
これが十字架の意味です。私たちの罪は赦されました。私たちの病は癒されました。私たちの痛みは取り除かれました。私たちの呪いは打ち砕かれました。私たちはもはや、これらのものを一切自分で背負う必要はありません。キリストが既に担って下さったのです。私たちはこれらの全てから解放されています。そしてキリストの十字架によって、再び神の子とした「父の家」に帰ってくるように招かれているのです。
神の子の地位を回復されることが、どれほど大きな恵みであるか、今日、知って下さい。私たちが放蕩息子と同じように、自分の力では生きていけないことを真っ直ぐに認め、神に立ち返るなら、この恵みは現実に、実際的に私たちのものとなります。
キリストの救いは、短なる言葉ではありません。架空の話しではありません。私たちが父なる神に立ち返るなら、神の子としてのふさわしい一切のものを現実に受け取るのです。私たちはそれを経験して、驚き、喜びます。
父なる神はキリストによって、私たちに何をお与えになるのでしょうか。
それは次のようです。
(4) キリストの恵みの約束
神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世を救うためである。御子を信じるものは裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。 (ヨハネ3)
信じるとは、信頼することです。依存することです。
自分の人生を神に依存しない者は裁かれたままです。赦しを受け取らなかったからです。罪の中に死んで行きます。しかし信じるなら、永遠の命を受けます。それは信じた時に与えられます。決して死後ではありません。キリストは次のように言われました。
私が与える水を飲む者は決して乾かない。
私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。 (ヨハネ4)
「水」が湧き出るのは今です。「永遠の命」に至るのは、死を通過してです。古い命に死ぬのは新しい命に生きるためです。「水」とは、神の言葉です。神の言葉は永遠の命に至る門です。神の御言葉を受け入れて下さい。私たちの中に新しい命が湧き出るのを知るようになります。それははっきりと体験されます。その時、私たちは生まれながらの古い命がどれほど貧弱で、貧しいものであったかを知るのです。それは新しい命の豊かさ、清さを知ったからです。主の御名がたたえられますように。
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。
私を信じるものは、死んでも生きる。生きていて私を信じるものは、
誰も決して死ぬことはない。 (ヨヘネ11)
御言葉に注意して下さい。キリストは「常しえの命に至る道」を説かれているのではありません。キリスト御自身が「命」だと言っておられるのです。キリストが与える「水」を飲む者は、「永遠の命に至る水」が湧き出るのです。御自身が「復活」であり、「常しえの命」であると言われたのです。「水」とは神の言葉であり、それは霊であり、命です。それは単なるコトバではありません。現実の力を持っています。人間の言葉とは全く違います。
この命を受け、生きるのに、私たちはどのような修行も必要としません。神がキリストによって与えて下さるものを、心から「欲しい」と言い、受け取ればいいのです。
主の御名を呼び求める者は、みな、救われる。
と約束されているからです。しかし私たちが「欲しい」と言わず、口を開けて飲まなければ、与えられることはありません。私たちが望み、神が与えられるのです。望むことが私たちの果たすべき分です。
あなたが私の名によって何かを願うならば、父はお与えになる。
今まで、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。
そうすれば、与えられ、あなた方は喜びで満たされる。 (ヨハネ16)
何と大胆な約束でしょうか。
この約束には限定がありません。キリストは「何かを願うならば、父はお与えになる」と言われました。私が始めてこの神の言葉を見た時、こんな約束をしていいのか。与えられなかったらどうするのか。キリストの言葉は当てにならないと、思われるのに、と思いました。しかしやがて、この言葉が真実であることを知りました。
あなたには何が必要でしょうか。平和でしょうか。愛でしょうか。生きる力でしょうか。清さでしょうか。知恵でしょうか。希望でしょうか。生きる喜びでしょうか。人間関係の回復でしょうか。病気の癒しでしょうか。何であれ、あなたの望むものが神の正義と愛に反しない限り、与えられます。
心から求めて下さい。あなたは与えられます。キリストの御名によって、私たちは今まで何一つ願いませんでした。心から願って下さい。与えられ、喜びに満たされます。
心からです。これが鉄則です。私たちが本当に必要としているなら、願い求めるでしょう。キリストの約束は、絵空事ではありません。今日、神の前にひざまずき、あなたの必要をことごとく語り、キリスト・イエスの御名によって、「神様、私に答えて下さい」と祈って下さい。神は真実を持って、あなたに答えられ、御自身が実在の生ける神であることを示されます。
あなたは今日、部屋に一人こもり、神の前に一人で立って下さい。一切のプライドを捨て、迷いを捨て、願いと祈りをキリストに御名によって捧げ、神の応答を待ち望んで下さい。
あなたは何が欲しいのですか。はっきりと、言って下さい。
確信を持って、神の前に立てないのなら、次のように祈ることを、主なる神が赦して下さいますように。
神様、あなたは本当におられるのですか。おられるなら、そのことが私に分るように示して下さい。
私は今から、あなたに向かって、心から私の必要を申し上げます。私の必要を満たして下さい。そのことによって、あなたがおられる事を示して下さい。イエス・キリストの十字架の愛と赦しと受け入れの中で、祈ります。
あの放蕩息子を喜びの内に受け止められたように、私の願いを受けとめて下さい。祈りをを受けとめて下さい。私自身を受けとめて下さい。
後は、あなたが最も必要としていることを、心を注いで、一つ一つ、心から申し上げて下さい。あなたはキリストの御言葉の通り、「神の国」があなたの手の届くとこまで近づいているのを知るでしょう。あなたの内側を満たすのを経験するでしょう。
神の真実を心からたたえます。キリストの十字架をたたえます。