神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

第93回 二つの現実

?????神の子は世の常識こそ疑え?????


この世には二つの現実があります。
一つはこの世の現実です。「自分の目に正しいと思うこと」によって生きている現実です。もう一つは神の国の現実です。信仰・祈りによって生きている現実です。
 御言葉は「二つの現実」について、次のように語っています。
呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れた人は。
彼は荒地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のより所となられる。
彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、熱さが襲うのを見ることもなく、その葉は青々としている。
旱魃の年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。(エレミヤ17章)


 ここには呪と祝福の現実があります。それは「この世の現実」と「神の国の現実」でもあります。
 神はある時、ある人に向かって、「呪われよ」と言われました。またある時、ある人に向かって「祝福されよ」と言われました。神がそのように言われたのなら、そのようになるのです。人間は誰一人,この摂理から逃れる事は出来ません。
 「呪の現実」を生きるように定められた人とはどんな人ですか。それは「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れた人」です。このような人は祝福を一切受ける事は出来ません。受けるのは呪いだけです。「祝福の現実」を生きるように定められた人はどんな人ですか。それは「主に信頼する人・・主がその人のより所となられる」人です。私たちはこのどちらかの現実を選ばねばなりません。祝福もなければ、呪いもないと言う中間的な現実はありません。どちらかです。
 神は「呪われよ」と言われました。ですから呪いに定められた人の所へ、「呪う者」がやって来て呪うのです。神がお赦しにならなければ、「呪う者」は呪うことは出来ません。神は全てをその支配下においておられるのです。
 「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だがその1羽さえ、あなた方の父がお許しにならなければ、地に落ちる事はない。あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。だから恐れるな。あなた方は、たくさんの雀よりも、はるかに勝っている」とキリストが言われた通りです。
 主なる神は、呪いの許可を与えられましたが、神ご自身が私たちを呪うのではありません。父なる神は、ただの一度も私たちを呪われた事はありません。父はそのような事がお出来になりません。父は私たちを忘れる事も、棄てる事も出来ません。私たちがいつも父を忘れ、離れ、捨て去り、その心に逆らってきたのです。すると何者かが神の許しの中でやって来て私たちを呪うのです。
 私たちを呪い、災いをもたらし、破壊し続ける者とは誰でしょうか。呪いはどこから、またどのようにしてやって来るのでしょうか。


(1) サタンの存在について


 この事を知るために私たちはどうしても、自分の背信・不従順・罪と、それを足場にして私たちを支配するサタンの存在について知らねばなりません。
 聖書はサタンについて次のように言っています。
「堕落した天使」「強い人」「暴君」
「誘惑する者」「欺く者」「偽る者」
「主の道を曲げる者」「御言葉を奪う者」「福音の輝きを覆う者」「不法を働く者」
「羊を盗む者」「破壊する者」「死をつかさどる者」「殺す者」
「暗闇の世界の支配者」「この世の神」「この世の支配者」「この世の霊」
「私たちの敵」「神の敵」「キリストを恐れる者」「神の報復を受ける者」
「キリストによって断罪された者」「敗北した敵」「キリストの捕虜」
 サタンは堕落した天使です。神のようになろうとして、愚かにも神に戦いを挑んだ天使です。神はこの反逆を裁かれ、彼をこの地に落とされたのです。そして今、この地の支配者として居座っています。サタンは悔い改める能力がありません。ですから赦される事がありません。
 サタンは人を憎んでいます。主なる神が人をご自身の似姿に創造された時、全地を支配させようと定められ、この地の支配者として立てられたからです。
 サタンは人をだまし、誘惑し、神と共に歩む事から離れさせ、人間から支配権を奪い、出来るなら自分を礼拝させようとしています。サタンは人を破壊し、殺そうとする者です。破壊と死は人に闇と恐れを持ちこみます。サタンはそれによって人を支配し、礼拝させるのです。人はみな、その影響下にあって何らかの支配を受けています。
 サタンはどのように人を誘惑し、破壊するのでしょうか。創世記3章は、その事をはっきりと教えています。最初の人アダムとエバが造られ、エデンの園に置かれたその時、サタンはすばやく動いています。サタンはエバに目をつけました。


(2) サタンの手口について


 蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」
「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」 蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は御存じなのだ」
 女が見るとその木はいかにも、おいしそうで、目をひきつけ、賢くなるようにそそのかしていた。女は実をとって食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
 主なる神はアダムとエバに、次のように言われていたのです。
「園の全ての木からとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」

 エバは「死んではいけないから」と神の言葉を受け取りました。これは「死ぬかもしれない」ということです。しかし神は、「食べると必ず死んでしまう」と言われたのです。必ず、です。「善悪の実」を食べると、今日も私たちは必ず死ぬのです。人が自分の善悪の基準を持つと、人は必ず死ぬのです。ですから、申命記でも神は語られました。「今日あなた方は自分の目に正しいと思うことを決して行ってはならない」と。
 人は「自分の悪」のためだけで死ぬのではありません。「自分の善」のためにも死ぬのです。
 御言葉を曖昧にする事は全ての罪、災い、死の始まりです。エバのように御言葉を決して曖昧にしてはいけません。エバの心に御言葉が確かあったなら、彼女は蛇の誘惑に負ける事はなかったのです。
 誘惑の第一歩は、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と蛇がい言う事から始まりました。多くのものの中でも、とりわけ「園の木」に彼女の関心を向けさせることです。そして神に対する不信感を彼女の思いの中に植え付けようともくろんだのです。エバは反論しましたが、その態度は曖昧でした。それを知った蛇は初めの慎重さをかなぐり棄て、一挙に彼女を誘惑しようとしました。
 蛇は言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は御存じなのだ」
 蛇はまず神の御言葉を全面的に否定したのです。たとえ曖昧であっても御言葉が心にあれば、蛇はエバの誘惑に成功できないのです。
 私たちの思いの中に一つの言葉しかなければ、その言葉が私たちの全ての思いとなります。私たちはその思いの通り行動するのです。しかし私たちの思いの内に、あれこれの思いがあるなら、私たちは迷い続けて行動できません。ですから蛇がエバを誘惑するためには、神の御言葉を全く奪い去る必要があったのです。「決して死ぬことはない」蛇はこのように、臆面もなく断固として偽りを言う事が出来るのです。
 今日、私たちがこのように御言葉を否定しなくても、自分の思いの中に神の御言葉がなければ、私たちはどのようにでも誘惑され、どのような人間にでもなるでしょう。
 蛇が「神のように善悪を知る者となる」と語った時、エバは「善悪の実を食べれば、神のようになれる」と言う思いを持ちこまれたのです。そして創世記は、それがいかに彼女自身の欲望となったかを、見事に描いています。
 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目をひきつけ、賢くなるようにそそのかしていた。女が実をとって食べ、男にも渡したので、彼も食べた。
 彼女はじっと「善悪の木の実」を見つめたのです。彼女は食べたくなったのです。神のように賢くなりたいと思い始めたのです。エバは神の言葉を完全に忘れました。今は、おいしそうな木の実のことで頭がいっぱいです。彼女の思いはたった一つの言葉でいっぱいになりました。「あの実がほしい!あの実がほしい!」
 人は誰もみな、心に思ったことを行うのです。彼女はとって食べました。
 彼女と共に蛇の話を聞いていたアダムも、食べました。アダムは何の抵抗もしていません。この男はまるでアホウのようです。エバと共に蛇に惑わされただけでなく、エバを愛していたので拒めなかったのです。
 創世記3章はサタンの手口を全く明きらかにしています。
① サタンは神の子が関心を持ってはいけないものに目を向けさせます。
② サタンは神の子が持つてはいけない思い・欲望を心に植えつけます。
③ サタンは御言葉に疑いを持たせます。
④ サタンは御言葉を否定し、取り去り、忘れさせます。
⑤ サタンは自分の思いが神の子の思いになるまで誘惑し、惑わします。
⑥ サタンは神の子に独自の善悪を持つように誘惑し、神の恵みの支配からだまし取ります。
 今日、あなたの中に神の言葉に反する思いが湧いてくるなら、またその思いが神の言葉を退けるほどにまで、あなたの心をいっぱいにするなら、あなたはエバと同じ立場に立たされていると思いなさい。あなたはその時、間違いなく、サタンの誘惑と惑わしに直面しているのです。
 あなたは神の言葉に反する思いが、決して自分の本当の思いだと思ってはいけません。本音だと思ってはいけません。嘘だと思うなら、エバと同じように、行ってその思いを実行に移しなさい。あなたは必ず不幸になります。闇の中に閉ざされます。あなたは必ず後悔します。
 後になって後悔するような事は、あなたの深い魂から湧いてくる本当の望みや願いではないのです。あなたは何度もそれを経験して知っているでしょう。ですから神の言葉に反する思いや望みは決して私たちの「魂の真の願い」ではない事を知りなさい。
 私たちは神の子です。「神の似姿」に造られたのです。ですから、私たちの魂は清さを求め、慈しみを求め、正しい事を求め、平和を求め、尊び合う事を求め、理解し会うことを求め、真に生きる事を求め、永遠を求め続けるのです。
「神の似姿」に作られた魂の願いに反するものは全て、私たちの中にもともとなかったのです。全ての「悪の源」であるサタンの思いが、私たちの中に持込まれて、私たちのものであるかのようになったのです。創世記はその事を語っています。
 今日、私たちは次の事をはっきりしていなければなりません。
 サタンは私たちの「思い」をまず支配します。
 サタンはまず、「エバの心と思い」を「自分の思い通りに」したのです。このことを決して忘れてはいけません。サタンが私たちの思いを支配しない限り、私たちをどのようにも支配する事が出来ないのです。ですから、サタンの攻撃は私たちの「思い」に集中して向けられます。一つ思いを置く、誘惑する、惑わす、嘘をつく、そして罪に誘うのです。こうして私たち神からを奪い取るのです。
 私たちの「思い」、それがサタンの最初の標的です。ですから私たちの思いはいつもサタンとの戦場となるのです。聖霊はⅠペテロ5章で私たちに警告しています。
「身を慎んで、目を覚ましていなさい。あなたがの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食いつくそうと探し回っています。信仰にしっかりと踏みとどまって悪魔に反抗しなさい」
 また、ヤコブの手紙では、
「神に服従しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます」と言っています。


(3) 呪いの現実・サタンの現実


 神に罪を指摘された時、エバは「蛇がだましたので、食べてしまいました」と責任を転嫁して、更に自らを汚しました。アダムはエバを与えられた時、「これこそ、私の骨の骨、私の肉の肉」と喜びの声を上げ、エバを尊び、一つとなって暮らしていたはずでしたが、「あなたが私に共にいるようにして下さった女が木から取って与えたので、私も食べました」と、エバと神の責任であるかのように言ったのです。
 アダムと神との関係の破壊、アダムとエバとの関係の破壊が同時に起こりました。アダムもエバも自分の言い分を持ち、自分の正しさを主張し、その正しさのゆえに、神の前に素直に罪を認め、悔い改めて、立ちかえる能力をも失ったのです。「善悪の実」を食べる事、人が自分自身の正しさを持つ事はこのようになることを意味していたのです。私たちが神から離れると、こうして清い心をも失って行くのです。これは心にとどめておく事ではありませんか。こうして最初の罪が更に次の罪を産み、自分を汚し、神と人の関係を汚し、人と人の関係を汚し始めるのです。
 それだけではありません。エバは二人の子を産みましたが、長子であったカインが弟アベルを嫉んで殺害すると言う悲惨な出来事が続いて起こりました。神はカインをエデンの東・ノドの地に追放しました。家族関係が崩壊したのです。
 主なる神はこのような人間の悲惨を、不幸を、災いを「呪い」と言われているのです。


(4) 神の祝福の現実


 使徒言行録26章でイエス・キリストはパウロに語られました。
私はあなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは彼らの目を開いて闇から光に、サタンの支配から神に立ちかえらせ、こうして彼らが私への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。
 アダムとエバ以来の呪いは打ち砕かれました。恵みと祝福だけが準備されたのです。十字架によって私たちは再び栄光の神の子とされたのです。サタンはもはや私たちを支配する事は出来ません。私たちに対していかなる権利も主張する事は出来ません。サタンが神の子とされた私たちを呪うことを神がお許しになりません。私たちはサタンのものではなく、再び神のものとなったからです。これは十字架によるのです。十字架がどれほど偉大な神の救いであり、キリストの愛であるかを知って下さい。途方もない祝福の大きさを知って下さい。
 イザヤ53章で、主なる神はキリストの十字架の意味について語られました。
彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった…
彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。
彼が受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼が受けた傷によって私たちは癒された。

 キリストは私たちの罪を担われたのです。私たちに罪の赦しを得させるために、刺し貫かれたのです。キリストのゆえに私たちの全ての罪は赦されています。キリストは私たちの痛みを担い、病を背負われました。私たちの呪いを背負われたのです。そして私たちに平和を残されたのです。祝福を残されたのです。ハレルヤ!
 「呪われよ」と言われた神の言葉は取り消されたのです。今、私たちの前にあるのは「祝福されよ」と言う言葉だけです。平和だけです。十字架の何と尊い事でしょう。十字架の何とうれしい事でしょう!イエス様、あなたこそ私たちの救い主です。全ての祝福の源です!また聖霊はキリストについて語っておられます。
(ヨハネ1章)私たちはみな、この神の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にも更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
(エペソ1章)神は私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました。
(エペソ2章)哀れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし…キリスト・イエスによって共に復活させ共に天の王座につかせて下さいました。
(コロサイ2章)あなた方はイエス・キリストを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根をおろして、作り上げられ…信仰をしっかり守って、溢れるばかりに感謝しなさい。 ・・・キリストの内には満ち溢れる神の性質が余すところなく見える形で宿っており、あなた方はキリストによって満たされているのです。
(フィリピ4章)私たちの神は御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによってあなた方に必要な全てを満たして下さいます。

 これが神の現実です!ハレルヤ!なんと喜ばしい事ではありませんか!信じて受け取りなさい!キリストを救い主として受け入れた信仰にゆえに、私たちは神からの恵みと祝福によって満たされているのです。ただ信じなさい!
 信じない者は既に裁かれています。呪いの中にとどまり続けています。世の暗闇の深さを御覧なさい。しかし私たちの上には主の栄光が輝き出でるのです。それは私たちが「世の光」となるためです。
 これが「神の現実」です。「祝福の現実」です。
 しかし多くのキリスト者がこの祝福を受け損ねています。依然として呪いの現実を生きています。多くの痛みがあり、病があります。「サタンの現実」に敗北し、恥を受けています。なぜこのような事が起こるのですか。
 それはとてもはっきりとしています。
 第一の理由は、キリスト者自身が十字架の全ての意味を知らないからです。また、知っていても、かつてのエバと同じように、御言葉を曖昧にしているので、問題に直面した時に、問題そのものが心に溢れかえって、御言葉を思い出す事が出来ないのです。
 十字架の意味について、御言葉について無知であれば、サタンの策略に対抗しようがありません。こうして私たちはいつまでも、敗北し続けるのです。しかし、神の言葉がキリスト者の思いの中にりんとして立っているなら、神の国は速やかに来るのです。あなたはキリストにあって勝利するのです。御言葉はあなたの命です。決しておろそかにしてはいけません。
 私たちが言葉の上に立って祈る時、どんなに祝福を受けたかを思い出しなさい。それは数え切れません。サタンの現実は敗退し、御国の現実が進軍してくるのを私たちは何度も何度も経験したのです。私たちは清くなり、痛みは癒され、健やかな体を与えられ、人間の関係は回復されたのです。サタンの支配下にある現実が栄光の神の現実によって突き崩されて行くのを、この目で見たのです。ハレルヤ!キリストは全地の王でした!キリストこそ真の支配者でした!
 肉の目には、この世は闇としか見えませんが、私たちは「全地は主の栄光に輝いている」という神の言葉が真実であることを知ったのです。この世の現実は信仰のない目にはいかに厳しく動かしがたいものに映っても、信仰の目で見る時、それが本当はいかにもろいものである事が分ったのです。神の現実が来る時、サタンの現実は嘘のように崩壊して行ったのです。


(5) 世の常識を疑ってみること


 第二の理由があります。これも大切な事です。
 それは「常識」の問題です。
 人間の日常は「常識」によって動いています。常識とは何ですか。それは「この世の経験に基づく知恵・法則」です。一方では「神の国の常識」があります。それは「神の恵みの経験に基づく常識」です。
 あなたに何か問題が起こった時、あなたはどうしていますか。恐らく、「世の常識」に従って反応しています。「神の国の常識」に従って反応しないでしょう。それは神の子のすることではありません。フランス人にはフランス人特有の反応があります。日本人には日本人の特有の反応があるでしょう。あなたが神の子なら、神の子特有の反応を持たねばなりません。
 私たちは多くの恵みを受けてきました。それは例外的な、特異な祝福ではありません。恵みと祝福は全ての人に人に及んできました。またほとんど全ての生活分野に及んできました。それは積み上げられた膨大な経験です。それらの祝福の経験が、なぜ、「神の国の常識」とならないのですか。
 一つの理由は一人の人の経験を自分を含めて教会の経験として聞いていないからです。人の証言をよそごとで聞いているのです。教会全体の恵みとして聞いていないのです。
 もう一つは、神の言葉を信じてはいるのですが、同時に「世の常識」も信じているのです。「世の常識」を疑うと言う心、つまり批判精神が希薄なのです。批判的に見る目が欠けているのです。世の人々は理屈に合うかどうかを大切にします。そして信仰の世界を「合理的でない」と思っています。これもこの「世の常識」の一部です。
 しかし私は違います。神の存在の現実、恵みと祝福の現実を考えに入れないで作り上げられた常識こそ,「不合理だ」と思います。それはこの世の経験にしか基づいていないからです。
 ですから、世の常識に安易に従うことを止めましょう。私たちは神の子です。神を知っています。どうして神を知らない世の子どもと同じように、いつまでも「世の常識」に縛られ続けているのですか。
 今までのあなたは、世の「厳しい」と見える現実の前に立たされて、圧倒されて、神の言葉を忘れてきました。そして「世の現実」を安易に受け入れてしまいます。神の言葉は、「神の常識」はあなたの中にありません。すると「神の現実」はあなたの現実にはなりません。
 すべきことは正反対です。「神の言葉」の上に立って、「世の常識」こそ疑ってみましょう。神は真実なお方です。この世の神であるサタンは偽りものです。惑わす者です。あなたはどちらの現実を信用するのですか。
 十字架は歴史的事実です。その意味をしっかりと認めなさい。曖昧なまま分ったような気になってはいけません。十字架はあらゆる「祝福の源」です。これがどれほどの祝福かまだ分らないのですか。キリストの十字架によって罪は赦され、私たちは栄光の神の子とされたのです。神の子です。それが罪を赦された事の意味です。その尊さを知って、喜び踊りなさい。
 私たちは病む必要がありません。私たちは思い煩い、心を痛める必要がありません。
私たちの人間関係は破壊され、汚される必要はありません。ハレルヤ!
 今は祝福の時です。恵みの時です。キリストの十字架の業によって、私たちの前には祝福と恵みしか置かれていません。私たちと呪いと何の関係もありません。私たちは災いと何の関係もありません。呪いはキリストの血潮によって砕かれたのです。それは過ぎ去ったのです。サタンは私たちを呪うことが出来ません。私たちは祝福以外のものを一切受ける必要がありません。主の御名をたたえます。
 あなたがこのことを知って確信していなければ、自分の無知に付け込まれます。あなたにとって十字架はないのと同じです。サタンは十字架を知って、恐れおののいていますが、あなたが十字架の意味を知らないことも知っています。サタンはあなたを侮り、呪いの攻撃をかけてくるのです。
 聖書は語っています。
「私たちの従順が完全なものとなる時、全ての不従順を罰するよういが出来ているのです」
 御言葉を知らないで、どうして従順になれるのですか。どうして聞き従うことが出来るのですか。そう言うわけですから、今日私たちは御言葉を決して曖昧にしてはいけません。必要な御言葉を明瞭に、あなたの思いの中に蓄えて置かねばなりません。必要に応じて、それを取り出すようになるためです。サタンの言葉がエバを惑わしたのなら、まして神の御言葉は苦難の時、あなたの心に力となり、希望となり、命となるのです。私たちを御国の恵みの中に、祝福の中に踏み込ませるのです。







TOP