神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

第73回 罪の法則について



(1) 従順と反抗

 モーセに率いられたイスラエルはエジプトの奴隷の家を出発しました。そして第三月にシナイの山に到着しました。エジプトからほぼ600キロの旅路である。そこで神はイスラエルにご自身の言葉(律法)をお与えになりました。そして日常生活を御言葉に聞き従って生きるように訓練されました。御言葉によってイスラエルを神の民として一つにし、その上で「乳と蜜の流れる土地」に導かれようとしていました。神の御言葉に聞き従って、神の民となり、神の国を建設し、ついに幸いを得るようになるためです。それは一年をようしました。
ところが、モーセがシナイ山で四十日に渡り、主なる神と交わり、その神の御言葉(律法)を受け取っている間、イスラエルは荒野での生活を恐れ、モーセの帰ってくるのを待ちきれなくなりました。そしてエジプトの奴隷時代の神である「金の子牛」を造り、再びエジプトの奴隷の地に帰ろうとしたのです。
モーセはそれを見て、激しく怒り、十戒の刻みつけられた石の板を地にたたきつけて壊した。神はモーセの祈りに答え、イスラエルを赦し、再び十戒を与えるためにモーセをシナイ山に呼びました。
 エジプトの奴隷の時、イスラエルは激しく神の名を呼び、モーセを通して行われる神の救いの業を何度も目を見張る思いで見てきました。そして、驚くべき神の救いの業によって奴隷状態から解放されたのでした。  しかし四十日の間、シナイの荒野に置かれると、不安になり、あれほど苦しかったエジプトを懐かしんで、そこに戻ろうとしました。これはイスラエルだけでなく、すべての人の性質です。
 イスラエルは自分たちの失敗から学び、主なる神とモーセ前で、律法を守り行うことを誓約し、神の民となりました。
民数記9章は、神の訓練を終えたイスラエルが「乳と蜜の流れる土地」に向かって旅だったことを物語っています。彼らの信仰と従順は新しい旅立ちにふさわしく、全く新たにされたものです。それは次のようです。
幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。いつもこのようであって雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えた。
この雲が天幕を離れて昇ると、 それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所に留まると、そこに宿営した。イスラエルの人々は、主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が長い日数、幕屋の上に留まり続けることがあっても、イスラエルの人々は主の言いつけを守り、旅立つことをしなかった。
雲が幕屋の上にわずかな日数しか留まらないこともあったが、その時も彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅だった。
雲が夕方から朝までしか留まらず、朝になって雲が昇ると、彼らは旅だった。
二日でも一か月でも、何日でも雲が幕屋の上に留まり続ける間、イスラエルの人々はそこに留まり、旅立つことをしなかった。そして雲が昇れば、彼らは旅立った。
彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅だった。
彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った。 民数記9章

 神の臨在の象徴である雲は時に何ヶ月も幕屋にとどまることがありました。イスラエルは荒野を旅していたのです。それは人の住める場所ではありません。水もなく、食料もない場所です。イスラエルはその荒れ野に何ヶ月もとどめおかれたのです。主なる神は何の説明もされませんでした。また、夕方、ある場所に雲がとどまり、幕屋を設営すると、朝方、幕屋から離れると言うこともありました。成人男子だけで70万の部隊です。幕屋の設営、撤収は簡単なことではありません。しかしイスラエルは神に向かって「どうしてなのか」と呟くことをしませんでした。彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守りつづけたのです。
民のこの信頼と従順に触れるとき、私たちは深い感動を覚えずにはおれません。
この信頼と従順の初々しさ、その美しさを見よ!主なる神とイスラエルの心が一つに結び合わされています。ですから、何の質問もありません。何の説明も必要がありません。イスラエルは深く神に信頼し、黙って従うことが出来たのです。
イスラエルが「乳と密の流れる土地」に向かって旅立ったのは、第2年の2月でした。目的地までは直線距離で400キロ足らずでした。二十日もかからなかったはずです。ところがその後、イスラエルは40年に及んで、荒れ野を行き巡ることになったのです。
 どうして、でしょうか。
 民数記11章で、イスラエルは主なる神に不満を言い、主を怒らせた記録が残されています。彼らの信頼と従順はそんなに長くは続かなかったのです。
民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った。主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を端から焼き尽くそうとした。 民はモーセに助けを求めて叫びをあげた。モーセが主に祈ると、火は鎮まった。・・
民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、ネギや玉ネギ、ニンニクが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナ(天からのパン)ばかりで、何もない」
 民数記12章では、モーセの兄アロンと姉ミリアムが神の僕モーセに反抗して言いました。
ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。 彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか」主はこれを聞かれた。
モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。 主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。「あなたたちは三人とも、臨在の幕屋の前に出よ」彼ら三人はそこに出た。
主は雲の柱のうちにあって降り、幕屋の入り口に立ち、「アロン、ミリアム」と呼ばれた。二人が進み出ると、 主はこう言われた。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。 口から口へ、わたしは彼と語り合う。あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず、わたしの僕モーセを非難するのか」
主は、彼らに対して憤り、去って行かれ、雲は幕屋を離れた。そのとき、見よ、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。アロンはミリアムの方を振り向いた。見よ、彼女は重い皮膚病にかかっていた。

民数記13章では、「乳と蜜の流れる」カナンの地にイスラエルが近づいたとき、主なる神は偵察隊を出すように命じられました。帰ってきた偵察隊はヨシュアとカレブを除いて誰一人、カナンを占領できるとは思いませんでした。カナンはそびえ立つ城壁都市であり、戦車さえ持っている強大な軍事国家であり、イスラエルは貧しい羊飼いの群にすぎなかったからです。この戦いは人間的に見るなら、万に一つも勝ち目のないものだったのです。
恐れた偵察隊は民の中に、悪い情報だけを流し、民の心をくじきました。その結果、民全体がモーセとアロンに言い逆らい始めました。
共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。 どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ」
そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう」
 モーセのとりなしにより、主なる神は怒りを収められたが、神は言われました。この不信仰な世代が一人残らず、死に絶えるまでイスラエルは決して「乳と密の流れる土地」に入ることはないと。こうして四十年の間、イスラエルは荒野をさまよわねばなりませんでした。主なる神は反抗を知らない第二世帯をおこし、彼らはヨシュアとカレブに導かれて「乳と蜜の流れる」カナンの地に入ったのです。
これは私たちへの教訓です。今日、神を信じないと言うこと、聞き従わないと言うこと、反抗することは、同じように人生の荒野で滅びる以外にないことを示しています。しかし聞き従うなら、神の国は速やかに私たちの上に来るのです。
ホセヤ2章に次のように書かれてあるとおりです。
それゆえ私は彼女をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう。
その所で私はブドウの園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。
「それ故」とはイスラエルの不信仰・不従順のゆえに、と言う意味です。神は私たちを荒野に導かれます。私たちがそこで、再び神の名を呼んで、神に立ち返るようになるためです。神は荒野をそのままブドウの園として、また深い苦悩の谷を、そのまま希望の門に変えられます。そして「乳と密の流れる土地」へと再び私たちを導かれるのです。
なんと厳しいそして優しい、神と人のドラマでしょうか。
主の御名を心からたたえます。主の真実を心からあがめます。
 私たちはイスラエルの四十年に及ぶ訓練の旅路から、神の厳しさと優しさを学ぶのです。
 人間の信仰と不信仰について、従順と不従順について学ぶのです。人間の移ろいやすい心を学ぶのです。それを導き続ける神の変わらない真実の心を学ぶのです。


(2) 反抗の根について 


 旧約の時代、どうして、あれほど神の偉大な奇跡を見続けたイスラエルの民が神に聞き従い通すことが出来なかったのでしょう。あれほどに美しい信仰と従順を示した民の麗しい性質はなぜ、「あっ」という間に消えてなくなったのでしょう。
 どうして、神の民は問題に直面すると、必ず、と言っていいほど、神の約束の御言葉を省みることなく、どこまでも自分の言葉を主張し始めるのでしょう。聖霊はパウロを通して、次のように語っています。
私は肉の人であり、罪に売り渡されています。私は自分のしていることが分りません。
自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしているからです。・・
そして、そういう事を行っているのはもはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
私は自分の内には、つまり私の肉には善が住んでいない事を知っています。
善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。
私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。
もし私が望まない事をしているとすれば、それをしているのはもはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
それで善をなそうとする自分には、いつも悪がつきまとっていると言う法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。・・このように、私自身は心で神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。                     ローマ7章


パウロの言っていることに注目します。 「私は肉の人であり、罪に売り渡されています」
「私は自分が望む善は行わずに、望まない悪を行っている」
「私を五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが、分かります」
「私自身は神の法則に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」
 パウロは「罪の法則」の存在について語っています。
 この法則の故に、パウロは内なる人が望む善を行わないで、望まない悪を行っているのです。そして罪のとりこになっていると語っています。法則ですから、誰一人、この悪の力から自由ではありません。心で善を望んでいても、気がつくと必ず、望まない悪を行っているのです。この法則のことを、罪の力、罪の性質、原罪と呼ぶことも出来ます。
 パウロは「なんて惨めなことでしょう!」と、嘆き叫びました。

○○○

「罪の法則」とは具体的に何でしょうか。
それはエデンの園でアダムとイブの中に入ったものに他なりません。
エデンの園で起こったことを思い出してください。
彼らは神の言葉を捨てて、蛇の言葉に従ったのです。
あなたが神の言葉に従って聖霊を受けるなら、蛇の言葉に従えば、悪霊を受けるのです。
どうして、このようなことが起こったのですか。
彼らが蛇の誘惑を受け入れて、自分も神のようになりたいと望み、「善悪の知識の木の実」を取って食べたからです。蛇は悪魔の化身であり、イザヤ41章は悪魔について次のように言っています。
―――ああ、お前は天から落ちた、明けの明星、曙の子よ。かつてお前は心に思った。「私は天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に上って、いと高き方のようになろう」と。しかしお前は黄泉に落とされた。墓穴の底に。
 アダムとイブはこのように自らを神になろうとする悪魔の心を自分の心として、それを満足させたのです。彼らは神の正しさを捨てて、自分の正しさを持つという方法によって、神となろうとしたのです。
二人の最初の人の中から、神の言葉が出て行き、神の聖霊が出て行き、悪魔の言葉が入り、悪魔の霊が入りました。神の清さが出て行き、悪魔の汚れが入りました。神の命の力が出て行き、罪の力が入りました。神の善悪は退けられ、人間の善悪が入りました。
悪魔の支配下の中で、人間は自分の正しさを獲得し、それによって生きるようになったのです。人は誰であれ、最初の人が罪を犯してからは、自分が正しいと思うことによって生きてきたのです。自分のものの考え方、自分の感情、自分の主義主張、自分の信念、自分の常識です。それらが人の正しさです。それは決して、神の正しさではありません。
そして命を失いました。
主なる神はそれを厳しく禁じられました。
あなたたちは、我々が今日、ここでそれをしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない。         申命記12章
これは信仰者には理解できますが、他の人には理解できません。
信仰者は自分の正しさの中にこそ、最大の罪があることを知っています。一人一人の人の正しさこそ、すべての悪の始まりであることを知っています。
あれこれの罪は誰の目にも罪であり、悪であることが分かります。しかし人間の正しさの中にこそ、深い、最初の罪がある。そこにこそ命ではなく、避けることの出来ない死がある。「善悪の知識の木の実を食べるものは必ず死ぬ」という神の言い分を受け入れません。ただ信仰者だけがそれを理解し、真実として受け入れます。
世の人々には、それぞれの正しさこそ生きる力であり、道しるべであり、それがなければ、どうして生きることが出来るだろうか、と思うのです。神の正しさを知らないなら、人は誰であれ、自分が正しいと思うことによって生きるしか方法がありません。
しかし、神の正しさがどのようなものであるかを知っている者は、人間の正しさこそ、悪の根源であり、罪の根源であると認めることが出来るのです。人間の正しさが人を真に豊かに生かすことを出来ないことを知って、神の正しさに立ち返ったからです。

○○○

人間の正しさこそが罪と悪の根源であることは、次のような現実的な視点からも明らかです。
1)神の眼が全てをあるがままに見通しておられるのに対して、人の目はほとんど見えません。神の目は人の身体、心、また霊まで見通しておられます。過去も現在も未来も見通しておられます。しかもありのままに、見通しておられます。しかし人間の目は、形のあるものしか見ることが出来ません。心眼と言っても、推測にすぎません。
また、人はいつも自分の価値観や経験という色眼鏡を通してしか、ものを見ることが出来ません。ですから、人の判断はいつも独善的になり、正しく物事を判断することが出来ないので、間違いを犯し、罪を犯さざるを得ないのです。
2)肉の人は極めて自己中心的です。芥川が「羅生門」で描いたとおりです。いつも自分の満足、喜び、安寧を獲得し、守るという立場からものを考えます。心理学はこの人間の性質を「自己保存の本能的欲求」としてとらえています。自分の言い分が人の言い分と対立しないときは、問題はありませんが、いったん対立するなら、強い人が弱い人をやりこめて、自分の言い分を言い張り続けるのです。
ですから、人の正しさはいつも争いを生み、離反を生み、真の意味でもう一人と交わることを妨げるのです。正しさと言っても自分の利益を守るための正しさに過ぎないことが多いのです。ですから、正しい人ほど、自分の考え方に確信のある人ほど、人を支配し、軽蔑し、拒絶し、傷つける罪を犯すのです。


○○○

神の正しさは罪ある者の罪を赦し、清め、癒すことです。弱い者を強め、汚れた者を聖なる者に変え、壊れた人の関係の中に和解と平和を創造することです。恐れている人に勇気を与え、慢心している者をへりくだらせることです。悲しんでいる人を慰め、虐げられている人に平和と安息を与えることです。
そのために神は何でもなさるのです。なぜなら、神の正しさは愛だからです。
愛はすべてを望み、すべてを信じ、それ故にすべてを忍耐するのです。
愛は不義を喜ばず、真理を尊ぶゆえに、すべてを清め、満たし、引きあげるのです。
神の正しさはすべての人を生かすことです。
人の正しさは、いつも人を殺してこなかったでしょうか。

○○○

クリスチャンであっても、アダムとイブの中に入った「罪の法則」、罪の力、原罪に十分に対処してい人は、この性質を残し続けます。すると、「内なる人」と「外なる人」の間に、いつも葛藤があります。
礼拝し、神を賛美しようとすると、それを嫌がる自分が出てきます。心に葛藤が生まれます。内なる人は礼拝を望みますが、肉の人を支配している「罪の法則」がそれを阻むのです。それ故に、神と十分に交わるいことが出来にくくなります。
すると祈りと願いを捧げ、神に聞き従うことも困難になるのです。
御言葉の意味を悟ることも難しくなります。
このような信仰生活は、喜びのキリスト者、勝利のクリスチャンを創造することが困難です。日本はこのような名ばかりのクリスチャンで溢れています。それは「罪の法則」原罪の問題をどのように対処すればいいのか、教えられていないからです。


(3) 救いの完成―――十字架の死とキリストの復活



パウロは「私は何と惨めな人間だろうか」と、ある時まで、嘆き悲しんでいました。ある時とは、十字架の意味を深く知ったときです。また、キリストに出会って、聖霊を受けたときです。ローマ6章・ガラテヤ2章は語っています。
私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています。私たちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。                  ローマ6章

私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは私を愛し、私のために身を捧げられた神の子に対する信仰によるのです。ガラテヤ2章


 ここには十字架があります。釘付けがあります。罪に支配されていた体の滅びがあります。肉の人の死があります。キリストの十字架は古い私たちの十字架でした。キリストの釘付けは肉の私たちの釘付けでした。キリストの死は罪に支配された私たちの死でした。
 十字架は「諸々の罪」を赦しました。主イエスの血潮は「あれこれの罪」の汚れから私たちを清めました。しかし、それだけではありません。
十字架は私たちの「罪の法則」「罪の性質」「罪の力」「原罪」そのものを釘付け、引き裂き、滅ぼし、死に渡したのです。罪の根を取り除くためです。罪の源を取り除くためです。私たちが最早、罪の奴隷とならないためです。私たちはキリストと共に生きるようになるためです。キリストが私たちの内に生きるようになるためです。
主なる神は古い私たちの存在、「肉の法則」に支配されている「肉」の私たちについて、「忌むべきもの」「滅ぼし尽くすべきもの」「焼き尽くすべきもの」「神に敵対するもの」「死をもたらせるもの」であると言われました。
私たちも全ての悪と罪の源である「自分の正しさ」を「忌むべきもの」「滅ぼし尽くすべきもの」「焼き尽くすべきもの」「十字架に釘づけるべきもの」「処断すべきもの」「死に渡すべきもの」であると、本当に認めるなら、その認識の深さに応じて、神の豊かな命、清さが私たちを満たすのを知るのです。
 徹底した死があり、徹底して新しい命があるのです。完全な死があり、完全な新しい命があるのです。中途半端はよくありません。古い私たち、肉の人の「罪の法則」、罪の性質の死が徹底的であればあるほど、全く新しい聖なる命が生まれるのです。ただその人だけに神の命が完全な形で宿るのです。キリストの命が豊かに宿るのです。キリストの霊が満ちあふれるのです。
私たちにとって最も重要なことは、いかに完全に、深く、古い自分の死を望むか、です。全てがそこから始まるのです。主イエスは言われました。
私について来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、私のために命を失う者はそれを得る。
人はたとえ世界を手に入れても自分の命を失うなら、何の益があろうか。マタイ16章

 では、信仰者はどのようにして自分の命に死に、神の命に満たされるのでしょうか。


(4) 救いの道―――ただ信仰によって



福音はユダヤ人を初め、ギリシャ人にも、信じる者、全てに救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで、信仰を通して実現するのです。                         ローマ1章

イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
何故ですか。イスラエルは信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えたからです。彼等はつまずきの石につまずいたのです。   ローマ9章

私が今、肉において生きているのは私を愛し、私のために身を捧げられた神の子に対する信仰によるのです。                     ガラテヤ2章

 福音の全ての受け取りは信仰によるのです。
 天の国では、古い私たちは既に、十字架につけられ、釘づけられ、死に渡され、墓に葬られました。罪の法則、罪の力、罪の性質である原罪はもう私たちを支配することは出来ないようにして下さっています。古いものはことごとく過ぎ去ったのです。私たちを新しく支配しているのは、イエス・キリストの聖霊です。イエス・キリスト御自身です。かつて「罪と死の法則」が私たちを支配していましたが、今日、「命と平和」の法則が私たちを支配しているのです。救いは既に成就しています。この事実を信じる信仰によって、天の国の救いが地上に降りてくるのです。

○○○

信仰によって、とは具体的にどうすることですか。神の言葉は語っています。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に人は心で信じて義とされ、口で公に 言い表して救われるのです。                 ローマ10章
 信じるだけでは現実の救いは来ることがありません。心で信じて口で公に言い表すなら、人は実際的に救いを経験するのです。
ですから、御言葉に基づき、例えば次のように祈りましょう。
 まず、最も問題であると思う自分の「罪の性質」を告白します。その上で、
天の父よ、私は自分の正しさが悪の源泉であり、罪の源泉であることを認めます。
そこからあらゆる拒絶、嫌悪、蔑視、失望、落胆、思い煩い、不安、恐れが出てくることを認めます。あらゆる不信仰、不従順、反抗が出てくることを認めます。あらゆる汚れに覆われることを認めます。
また、天の父よ、これらのものがサタンの支配の足場になることを認めます。罪と汚れが所にかならず、サタンの支配が及んでくることを認めます。
それ故、天の父よ、私は私たちのそのような肉の性質を「忌むべきもの」「嫌悪すべきもの」「滅ぼし尽くすべきもの」「焼き尽くすべきもの」「神に敵対するもの」「死と滅びに至るもの」と言われました。 私はこれに同意します。
主イエスよ、罪の法則に支配された肉の私を、自分の正しさを主張し続ける、生まれながらの私を、ことごとく十字架につけて、引き裂き、死に至らせ、墓に葬って下さいました。古い私の性質は最早、今日の私を支配することが出来ないことを感謝します。私は十字架によって、あらゆる罪の法則、罪の性質、罪に力、自らを神とするアダムとイブからの一切の原罪から自由になり、解放されていますから感謝します。
十字架がこのように霊的な世界において、救いを完成してくださっているので、私も地上において、イエス・キリストの御名によって、古い私を、肉の私、生まれながらの私を、十字架に釘付けし、死に渡して、キリストによる自由と勝利を感謝します。
なぜなら、私もそれを「忌むべきもの」「滅ぼし尽くすべきもの」「焼き尽くすべきもの」「十字架に釘づけるべきもの」「処断すべきもの」「死に渡すべきもの」「神に敵対するもの」「人の関係を破壊するもの」「私の幸せと命に敵対するもの」と見なすからです。

○○○

そして、主よ、信じます。
古い私、肉の私がキリストと共に死んだのは、私がキリストと共に生きるようになるためであったことを。
主よ、信じます。あなたを救い主と受け入れたその日から、あなたが私の内に宿って下さっていることを。
主よ、信じます。私の身体は聖霊が宿る聖なる神殿であることを。
主よ、あなたの内には神の満ちあふれる性質が目に見える形で満ちあふれておられます。
そして私はそのあなたによって満ちあふれていることを信じます。
生きているのは私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。
そのことを信仰によって信じます。
内におられる主よ、あなたこそ私が命の源、何にも勝って聖なる方。
あなたこそ愛の源。私をこの世の霊からもっと分離して、更に、あなたの聖なる者とならせて下さい。
私をあなたの真理の光によって満たして下さい。知恵と知識によって満たしてください。
あなたの祈りが私の祈りとなりますように。あなたの信仰が私の信仰となりますように。
あなたの従順が私の従順となりますように。
あなたの喜びが私の喜びとなり、あなたの力が私の力となりますように。
私の上にあなたの輝きを現してください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。

 あなたが告白した「罪の性質」は、確実に、そして日ごとに、砕かれ、死に渡されていきます。あなたは次第に自由を獲得します。あなたの体も心も自由になります。アダムとイブ以来の罪の力から解放され、清められて行くからです。
古代イスラエルの前に十字架があり、彼らが信仰によって「天におけるあらゆる霊的な祝福」を受け取る道を知っていたなら、シナイの荒野を「乳と密の流れる土地」に向かって旅立ったときの、あの麗しい信仰と従順を失うことはなかったのです。そして、約束の地に入ることが赦されずに、荒れ野で滅んでいくこともなかったのです。
 今日、私たちの前には十字架が立っています。主の血潮が流され、私たちの「諸々の罪」はことごとく赦され、その汚れらか清められています。そして原罪に支配された古い私たちは釘づけられ、罪の力は墓に葬られたのです。私たちの完全な救いのために不足しているものは何一つないのです。
 主イエスの御名をたたえます。 十字架の救いの完成を感謝します。
 私たちは「自分の正しさ」という原罪を捨て、神に反抗する性質を捨て、ますます御言葉につながり、聖霊に満たされ、キリストに似るようになるのです。キリストと同じ業を行うためです。
私たちは礼拝を喜びとするでしょう。
 私たちは主との交わりを喜びとするでしょう。
 私たちは喜びのキリスト者です。勝利のキリスト者でです。
 目の見えない人を見えるようにするために、捕らわれている人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために、ますます建て上げられて行くのです。

○○○

この祈りと共に、先に学んだ家系の中に残り続けてきた偶像礼拝の罪、それを足場にして、私たちの家族を束縛し、圧迫するサタンの力を主イエスの血潮の力と御名にある権威によって、「縛り、抜き、壊し、滅ぼし、投げ捨てる」祈りを折に触れて、行ってください。
また、天におけるあらゆる霊的は祝福によって、既に満たされている私たちですから、主イエスの御名によって、その時々に必要な祝福を、私たちの人の中に深く、「植、育て、建て上げて下さい」と祝福を祈り続けて下さい。
 十字架は神の力です。それは始めから終わりまで、信仰によって受け取るのです。
信仰とは心で信じて義とされ、口で公言い表して救われることです。







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