第47回 臨在の幕屋での礼拝
(1) 臨在の幕屋の構造について

イスラエルはまず、大庭に入りました。そこには捧げ物をする大きな「青銅の祭壇」がありました。次には体を清める「青銅の洗盤」がありました。イスラエルはこの二つを通過して、聖所に入ったのです。聖所に入ったのは大祭司と祭司だけでした。民は大庭の捧げ物の祭壇の所までしか行けませんでした。
聖所には「黄金の燭台」と「供えのパンの台」が並んで置かれていました。その向こうには「香壇」がありました。
香壇には火の点いた炭がおいてあり、その上で香をたいたのです。香壇の向こうには垂れ幕があって、「聖所」と「至聖所」を隔てていました。
イスラエルの中でも、大祭司だけが、それも一年に一度、贖罪の日にだけ、隔ての幕を通って至聖所に入ることが出来たのです。大祭司はイスラエルを代表してこれらの全てを通過して、至聖所に入ったのです。
「神の箱」には十戒を記した二枚の板とかつてアーモンドの花を咲かせたアロンの杖が治められていました。その上を二羽のケルビムが羽を広げて、箱を覆って守っていました。神の箱は、「証の箱」と呼ばれていました。主なる神はここで御自身の栄光を現すだけでなく、イスラエルに直接語りかけられたのです。
この神殿の構造はモーセが神の民、イスラエル民族の形成期に、ホレブの山で主なる神から直接、指示されたものです。このように礼拝は人が勝手に行うものではありません。神の指示に従って行うものでした。
臨在の幕屋、イスラエルの神殿のこのような構造をつぶさに見るとき、新約の時代を生きる私たちも礼拝をどのようにすべきなのか、分かるのです。礼拝に関わる神の原則は変わらないのです。
(2) 大庭(祭壇と洗盤)の意味するもの。
臨在の幕屋の外側は亜麻布の庭幕で覆われています。礼拝する者は正面にある庭幕の入り口を通って、臨在の幕屋の庭に入らねばなりません。詩編の記者はこの門・庭について次のように歌いました。全地よ、主に向かって喜びの叫びを上げよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進みでよ。知れ、主こそ神であると。主は私たちを造られた。
私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入れ。感謝を捧げ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は世々に及ぶ。 詩篇100
主の門を通って大庭に入ると、イスラエルの民はまず、捧げ物の祭壇の前に立つのです。そこで、引いてきた子羊の頭に手を置いて、自分の罪を告白します。それから、喉をナイフでかき切って、屠るのです。すると祭司がその血を祭壇の四隅に注ぎ、子羊を祭壇の上に載せ、焼くのです。そうすると民の罪は赦されました。
皆さん、祭司の仕事は血を注ぎかけること、子羊を祭壇の上に載せること、焼くことです。祭司はこの三つのことをしますが、子羊の上に手を置くのも、罪を告白するのも、屠るのも民自身がしたのです。
民が子羊に手を置いて罪を告白するなら、神が民の罪を子羊に移されるのです。子羊は民の罪を背負った故に、死ななければなりません。罪の報酬は死であると律法に書いてあるからです。子羊を屠るのは民自身です。
イエス・キリストはレビ記に従って、自らを焼き尽くす捧げ物の祭壇の上に登ったのです。それは十字架でした。主イエスは私たちの罪を負い、私たちに代わって屠られ、血を流されました。ハレルヤ!神の子羊を屠ったのは私たちでした。
朝ごと神を礼拝するなら、私たちは臨在の幕屋の前に立ち、まず、主の大庭に入ります。そして罪を告白し、赦しを受け取ります。特別に罪を犯していなくても、主イエスが私たちの罪の性質を担って十字架に上がったことを覚え、十字架の前でへりくだるべきです。
肉は役に立たないこと、肉の思いが神の思いに敵対していること、古い自分の小さいこと、弱いこと、卑しいこと、目がよく見えないこと、愚かであること、とても世の闇を照らす光とはなれないこと、御心にかなうものではないこと、そのことを告白して、十字架の前で、へりくだることです。
しかし主は聖なる方、そんな私たちであるからこそ、深く愛し、受け入れて下さるのです。主は私たちの卑しい現状を受け入れて終わる方ではありません。私たちが求めるなら、清め、満たし、引き上げて下さるのです。神の栄光を現すまでに私たちを形作り、完成して下さるのです。ハレルヤ!栄光から栄光へと主と同じ姿にまで私たちを変えてくださるのです。私たちが求めるなら、です。
私たちはその方を仰ぎ見て、賛美すべきです。
仰ぎ見ると言う信仰があるとき、あるがままの自分理解はけっして自己嫌悪、自己憐憫とはなりません。それは神への感謝となり、賛美となります。なぜなら、主なる神は、
私は高く聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。 イザヤ57章
へりくだると言うのは神様の前で、あるいは人の前で、ぺこぺこすることではありません。それは偽善であり、この世の社交にすぎません。へりくだるとは人間の低さと神の高さに、人間の卑しさと神の聖に対する深い理解から生まれるのです。人が罪深い自分の性質をよく知っているなら、その人はへりくだります。アダムとイブと同じように自分が弱くて、小さくて、愚かで、卑しい存在であることを知っている人はへりくだります。へりくだりとは、そのことに目が開かれていることです。同時に、聖なる神の栄光に目が開かれ、そして、神を見上げることです。
私たちはへりくだりの実質を身につけねばなりません。口先だけへりくだる多くのキリスト者がいますが、そんな偽善者になってはいけません。 祭壇は私たちが神の前にへりくだる所です。
深くへりくだった人ほど、自分の肉が役に立たないことを深く告白した人ほど、肉の思いが神に敵対することを深く認めた人ほど、聖なる神に飢え乾きます。栄光の神を慕い求めます。神様、私たちは汚れています。しかし、あなたは聖なる方です。神様、私たちは小さくて弱いです。しかしこの弱さの中にこそ、あなたの力が満ち溢れることを感謝します。ハレルヤ!主よ、私を清めてください。強めて下さい。引き上げてください。という切実な願いと希望が生じるのです。
主なる神はその人を清め、満たし、力を与え、高く引き上げることが出来るのです。
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そんな人が洗盤の前に立ち、清めの水を振りかけられるなら、その人は非常に清くなるのです。自分の罪を知り、しわを知り、汚れを知り、傷を知っている人だけが、聖堂の洗盤の前で、非常に清くなるのです。神の生ける命の水は、その人を神の聖霊によって豊かに満たすのです。このような自覚のない人は、どれほど長い間、洗盤の前に立ち続けても決して清くなることはありません。時間の無駄です。何の意味もありません。ただ、自分の罪、しわ、汚れ、傷を知って、悲しむ人だけが、聖なる水によって豊かに清められるのです。ハレルヤ!
この水について、主なる神はエゼキエルを通して言われました。
私が清い水をお前たちの上に振りかける時、お前たちは清められる。
私はお前たちを全ての汚れと偶像から清める。 エゼキエル 36章
私たちの罪を赦された神に向かって、私たちはエゼキエル36章の通り、清い水を振りかけて下さるように祈らねばなりません。また、「私はお前たちを全ての汚れから清める」と誓われた神の愛を心から賛美しなければなりません。
なぜなら、この御言葉の故に私たちが清くなるのは既に決まっているからです。私たちを全ての肉と罪の汚れから清くされるのです。私たちのあらゆる肉の覆い、罪の覆いを取り除かれるのです。ハレルヤ!私たちは聖霊の満たしのために整えられるのです。
(3) 十字架のもう一つの意味
私たちは聖所・至聖所へと進むべきです。旧約の時代、イスラエルの民はこれ以上前には進めませんでした。聖所に入れるのは祭司であり、至聖所まで入れるのは大祭司だけだったのです。
しかし、神の言葉は十字架がなさったことについて語っています。
あなた方は選ばれた民、王の系統を引く祭司、神のものとなった民です。それはあなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れられて下さった方の力ある業を、あなた方が広く伝えるためです。 Ⅰペテロ2章
私たちはキリストによって選ばれた、キリストの系統を引く、神の祭司です。これは十字架によるのです。ですから、私たちは大庭に留まらずに、聖所に入るべきです。
マタイによる福音では、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕について、語っています。
さて、昼の十二時、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時頃、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは、「我が神、我が神、なぜ私を御見捨てになったのですか」と言う意味である。・・・イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け・・マタイ27章
神によるイエスの断罪は正午から午後三時におよんだことが分かります。
主は私たちの身代わりとなって、神に見捨てられたのです。それは恐ろしい経験でした。
真昼だというのに全地が闇に閉ざされた。私たちの罪を担った主イエスの存在そのものもがこの時、十字架につけられたまま、闇に閉ざされたに違いありません。それは「なぜ私を御見捨てになったのですか」と、主イエスが叫ばずにはおれないほどの暗闇だったのです。
主が二度目、大声で何を叫ばれたかは、ヨハネによる福音で明らかです。
主はこの時、「成し遂げられた」と言われたのです。主は息を引き取る直前に「成し遂げられた」と言われたのです。救いが完成したのです。十字架が終わったのです。私たちの全ての罪、その赦しが成し遂げられたのです。その時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。聖所と至聖所の隔ての壁が神の手によって切り落とされたのです。
聖所に入ったものは、誰でも、イエスの血によって至聖所にまで入るためです。
イエス・キリストの十字架を褒め称えます。キリストの苦しんだ愛に感謝を捧げます。イエス・キリストの十字架の故に、私たちは今日、誰でも、いつでも、聖所に入り、至聖所にはいることが出来るのです。ハレルヤ!これはすごいことです。
(4) 聖所(供えのパンの台、燭台、香壇)の意味するもの
臨在の幕屋の構造を思い出してください。私たちが聖所に入るなら、至聖所に向かって右側に供えのパンが置かれており、左側に並んで金の燭台が置かれています。そしてその向こうに、香壇があるのです。香壇の前には隔ての垂れ幕があり、聖所が見えないようになっていました。まず供えのパンとは何か。
パンは人の体を生かし続けるものです。私たちが生きるために、これを毎日、食べ続けねばなりません。一週間分をまとめて食べることは出来ません。その日に必要な分をその日のために食べねばなりません。これがパンです。しかし臨在の幕屋はパン屋さんではありません。それは人間の霊的な必要を満たし、人間を霊的に養う場所です。では供えのパンとは何か。まず申命記を開きます。
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。 こうして主は、あなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人がパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった。 申命記8章
人の肉体がパンによって生きるように、人の魂は神の言葉によって生きるのです。供えのパンとは、キリスト者が神の前で「この御言葉をありがとうございます」と告白する真理の御言葉です。主イエスは言われました。
私は天から降って来た、生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。・・私の話した言葉は霊であり、命である。ヨハネ6章
私の話した言葉によってあなた方は既に清くなっている。 ヨハネ15章
神の言葉は人間の言葉とは違います。それは霊であり、命であり、力です。
聖霊に満たされたキリスト者であっても、満たされただけで終わってしまうならば、彼の命は長続きしません。御言葉によって私たちは養われねばなりません。聖霊が私たちの性質を聖なるものに変える命であるなら、御言葉は直面する具体的な問題の前でどのような道を歩むのかという、行いに関わる命です。真理の御言葉に従って一日を歩まないなら、私たちは罪の中におり、私たちの命は持続できないのは当然です。
詩編119は次のように歌います。
私は命を得て御言葉を守ります。・・
私の目の覆いを払って下さい。私の律法の驚くべき力に私は目を注ぎます。・・
御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。
御言葉は、それ自体の光に照らされて、初めて私たちの理解となり、悟りとなるのです。そして神の聖霊に満たされて、その命によって、御言葉を守るのです。ですから、供えのパンのすぐ横に、御言葉を照らす黄金の燭台が置かれたのです。これは聖霊の光です。
聖所に入った私たちは聖霊の光に照らされて、御言葉を読み、悟りを得、「神様、この御言葉は真実です。私の光です」と神に感謝を捧げるのです。
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聖所での礼拝の最後は、香壇です。
香壇には火のついた炭が置かれていました。その上に香を置くと、香しい煙が臨在の幕屋の上に向かって立ち上ったのです。立ち上る煙は私たちの祈りを示していました。
真理の御言葉、救いの御言葉に照らされて、清くなった私たちは祈る用意が十分に調えられています。私たちは御言葉に留まり、御言葉につながり、御言葉にそって一つ一つ感謝と賛美を捧げるべきです。そして御言葉にそって全ての祈りと願いを捧げるべきです。
何故、御言葉に沿うのか。次のように語っている御言葉によって、私たちの祈りと願いが主なる神の届くのは、あらかじめ分かっているからです。ハレルヤ!
何事でも神の御心にかなうことを私たちが願うなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対する私たちの確信です。私たちは、願い事は何でも聞き入れて下さると言うことが分るなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分ります。 Ⅰヨハネ5章
(5) 至聖所の意味するもの
私たちは礼拝の最終段階に来ました。至聖所は神の栄光が現れる所です。神様と私たちが出会う場所です。
私たちの覆いが取り除かれ、神の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと主の似姿にまで私たちが変えられるところです。私たちが神の霊と一つとされる所です。私たちが神の栄光を現すために力を帯びる所です。また神が私たちに親しく語りかけるのを聞く所でもあります。
至聖所は、私たちの汚れが清められ、闇が照らされると言う以上のものです。それは大庭における神の業でした。ここでは、私たちは行いのために十分な聖霊の満たしを受け、力を受けるのです。エゼキエル36章には続きがあります。
私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。私はお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また私の霊をお前たちの中に置き、私の掟に従って、歩ませ、私の裁きを守り行わせる。
主なる神が私たちを清い水で清めた後、このように言われました。私たちが至聖所に入るなら、このことを求めて祈るべきです。神は私たちの内に新しい心を創造するために、新しい霊を置かれます。すると、私たちの石の心は取り去られ、肉の心が与えられます。私たちは冷淡な人ではなく、愛の人に変えられるのです。愛の人だけが全てを望み、全てを信じ、全てに耐えるのです。
ハレルヤ!この御言葉を、一つ一つたたえるべきです。そうすれば、私たちは新しい霊を受け、それによって満たされるのです。
それだけではなく、神の正義が家庭の中に、職場の中に、地域社会の中に貫き通されるように、祈りと行いを通して神の裁きを守り行うように整えられるのです。私たちは「世の光「血の塩」となってあらゆる善い業を行うように整えられるのです。ハレルヤ!
多くのキリスト者が大庭のレベルで満足して、次の至聖所に入らないで、去って行きます。その人は罪が赦されて清くなっただけです。大庭の恵みを受けただけです。聖所の恵みも、至聖所の恵みもまだ受けていません。このようなキリスト者は行いの力に不足します。神の命に不足します。ですから、いつも栄養失調ぎみです。日常生活の行いにおいて決して神の栄光を現せません。
神は全てのキリスト者が聖所、至聖所に入ることを望んでおられます。入るなら、イザヤ42章の御言葉が私たちの内に成就するのです。
主である私は恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光としてあなたを形作り、あなたを立てた。
見ることの出来ない目を開き、捕らわれた人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
皆さん、イザヤ43章は全てのキリスト者に対する神のご計画です。
私たちが救われたのは、人を救うためです。私たちの上に神の栄光が現れたのは、私たちにつながる人の上に、神の栄光が現れるためです。私たちの神は偉大な神です。ですから私たちの可能性はとても大きいのです。ハレルヤ!あなたたちは小さくまとまらないでください。