神戸の小高い丘にある小さなプロテスタント教会
クライストチャーチ神戸

第37回 続・御言葉について



私たちは信仰・祈り・礼拝について学んできました。今日、「神の御言葉」について、学びます。



(1) 二つの言葉

この世には二つの思いがあります。神の思いと人の思いです。
この世には二つの言い分があります。神の言い分と人の言い分です。
この世には二つの言葉があります。神の言葉と人の言葉です。
この世には二つの正しさがあります。神の正しさと人間の正しさです。
キリスト者とは「キリストに属する者」と言う意味です。自分の思い、自分の言い分、自分の正しさ、自分の言葉に聞き従って、なおキリスト者であり続けることは出来ません。キリスト者は神の思いに包まれて、神の言い分の内にとどまり、神の言葉に聞き従い、神の正しさを行うのです。人を生かす命はその道にしかないことを知っているからです。ついに人を幸せにするのは神の真理の御言葉であることを知っているからです。主なる神は言われます。
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。
こうして主は、あなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、即ちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人がパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった。    申命記8章

 私たちの神は啓示の神です。「人がパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と神は真理を啓示して下さいました。真理とは私たちが生きる道です。 ついに幸せになる道のことです。
 主なる神に感謝します。もし、神が真理の御言葉を啓示してくださらないなら、私たちは「人はパンによって生きる」と思い続けて、生きているのは名ばかりの存在にとどまり続けるでしょう。しかし主なる神は、「人は主の口から出る全ての言葉によって生きる」という真理を啓示してくださったのです。私たちが真の命の道、喜びの道、勝利の人生を歩むようになるためです。

この世にはパンの中にだけ喜びがあるかのように思って、パンだけを追い求めて生きている人が沢山います。世が追い求めているパンとは何か。それは一言で言えば、欲望の充足です。金、名声、地位です。それを生み出す学歴です。
神の言葉は、人がこれらのものによってだけ、生きることは出来ないことを主張しています。
人を真に生かすものは、「神の口から出る全ての言葉」です。御言葉に照らされない限り、また聞き従って行かない限り、どれほどの欲望の満足を得ても、「人は生きているとは名ばかり」となります。真の命の力を内に持つことは決してありません。
御言葉に聞き従うことが魂に命を与えるだけでなく、実生活に祝福を与えることも出来るのです。主なる神は私たちの魂を豊かにするだけでなく、私たちの実生活も豊かにしたいのです。ですから、その道を私たちの啓示されたのです。
「主が喜ばれるのは、焼き尽くす捧げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえに勝り、耳を傾けることは雄羊の脂肪に勝る。・・主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる」  サムエル(上)15章
「あなたは王位から退けられる」と、言われているのは、イスラエルの初代の王・サウルです。彼はある日、おごり高ぶって、神の言葉を軽んじ、又、侮り、自分の思い通りに振る舞いました。その結果、彼は神によって立てられた王位から退けられました。彼は命を失っただけではなく、実際的な祝福も失ったのです。私たちも御言葉を軽んじ、侮るなら、決して喜びに人生を送ることは出来ません。
 一方、ダビデの子・ソロモンがイスラエルの三代目の王についたとき、神は神を畏れ敬うソロモンの祈りに答えて、次のように約束されました。
「神なる主よ、あなたは父ダビデになさった約束を今実現し、地の塵のように数の多い民の上に私を王としてお立てになりました。今この私に知恵と識見を授け、この民をよく導くことが出来るようにしてください。そうでなければ、誰がこの大いなる民を裁くことが出来るでしょう」
神はソロモンに言われた。「あなたはこのことを望み、富も財宝も宿敵の命も求めず、また長寿を求めず、私があなたをその王として立てた民を裁くために、知恵と識見を求めたのだから、私に知恵と識見が授けられる。また、私は富と財宝、名誉をあなたに与える。あのような王はかっていたことはなく、これからも居ない」     歴代誌(下)1章

キリストをとおして与えられる神の約束は決して魂を満たすだけのものではありません。
それは実生活の祝福を含んでいるのです。主なる神は私たちを全ての天で、祝福したいのです。ハレルヤ!神は私たちをそのように愛しておられるのです。


(2) 御言葉が人を照らすとき

人間の知性は御言葉の意味をとらえることは出来ません。キリスト者は、そのことを知っていなければいけません。文章としての意味なら、何度も読めば理解できるでしょう。しかし主なる神が私たちに伝えたいのは、文章としての意味ではなく、御言葉の内にある命の輝きそのものなのです。人間の知性は、これをとらえることは出来ません。
又、人間的な意志、誠実さで御言葉に聞き従うことは出来ません。しかし御言葉の命の輝きが私たちの存在そのものを照らすならなら、御言葉の命が私たちを満たして下さるなら、私たちは喜んでこれに聞き従うことが出来るようになるのです。
ですから、詩編の記者は次のように祈りました。
あなたの僕のためにお計らい下さい。私は命を得て御言葉を守ります。
私の目の覆いを払って下さい。あなたの律法の驚くべき力に、私は目を注ぎます。・・
あなたの御言葉は私の道の光り、私の歩みを照らす灯火。・・御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解が与えられる。                 詩篇119

私たちも神の言葉の前で、このように祈るべきです。
神様、私をあなたの命によって満たして下さい。そうすれば、私はあなたの御言葉を守ることが出来ます。
神様、御言葉の意味を開いてください。御言葉が光となって私の闇を照らす時、私はその命の意味を理解するのです。
神様、私の心の覆いを取り去ってください。私の心を御言葉の光によって照らしてください。
あなたの御言葉は真理の光です。この道以外に私の幸せはありません。


(3) 御言葉は命であり、光であり、力である。

 主イエスは御言葉について次のように言われました。
命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。
私があなた方に話した言葉は霊であり、命である。        ヨハネ 6章

主イエスは神の言葉は神の霊であり、神からの命である、と言われました。
ですから次のようにも主は言われるのです。
私の話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている。私に繋がっていなさい。
私もあなた方に繋がっている。                 ヨハネ15章

 私たちが一つの御言葉の前に立ち、それに聞き、その意味が私たちの心を照らしてくれるなら、御言葉によって私たちの闇は照らされ、全ての汚れた思いが清められるのです。神の言葉は私たちの闇を照らす啓示の力であり、私たちの清める神の霊の力です。
 主イエスは更に言われました。
あなたが私につながっており、私の言葉がいつもあなた方の内にあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・父が私を愛されたように、私もあなた方を愛して来た。私の愛に留まりなさい。           ヨハネ 15 章
私たちの主は、御言葉が私たちを清めると言い、また、私たちの内に主の御言葉があるなら、私たちは望むものは何でもかなえられると、言われるのです。なぜだから分かりますか。
神の言葉が私たちの中にあるなら、私たちは清くなっており、祈る自由を獲得しているのです。
また、私たちは神の御心にかなった願いを祈るようになるからです。
このような御言葉の前で、私たちは「言(ことば)」に対する従来の理解を全く捨てなければなりません。神の御言葉は人間の言葉とは違うのです。それは、霊であり、命であり、光であり、力なのです。人間の知性がこれらの意味をとらえることが出来ないのは当然です。
ただ主なる神御自身が私たちを照らすとき、キリスト者は御言葉に真の意味を知るのです。知ったとき、私たちの存在そのものが照らされます。私たちは全身全霊で御言葉を理解します。すると私たちは真理の御言葉に捧げられた者、聞き従う者となるのです。これは瞬間的な出来事です。次第になるのではありません。瞬間的に照らされ、理解し、聞き従えるようにされるのです。
こうして御言葉が私たちの闇を照らすように、折に触れて祈ることが信仰生活の生命線となるのです。


(4) 御言葉が信仰を生む。

 生まれながらの人間の中には、御言葉を理解する能力がありません。人がどれほど高い学歴を持っているか、何の意味もありません。
同じように、生まれながらの人間の中には、信仰もなく、祈りもないと、私は言い続けてきました。生まれながらの人間のことを聖書は「肉」と呼んでいますが、「肉の思い」は神の律法に従い得ない「肉の思いは神に敵対している」とまで、神の言葉は言い切っているのです。それは真実です。では、人の信仰はどこから来るのか。
「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」のです。
ところで聞いたことのない方をどうして信じられよう。また宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことが出来よう。「良い知らせを伝える者の足は何と美しいことか」と書いてある通りです。・・実に信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
                         ローマ10章

信仰は御言葉を聞くことによって始まり、養われ、深くなっていくのです。
キリスト者になって、なお、幼子のような信仰を養っていないなら、その人は御言葉を読み、聞くことに怠惰なのです。または、多くの御言葉を読んでいるのですが、自分の知性に頼って読んでいるので、何一つ御言葉に照らされていないのです。
御言葉の理解がなければ、人が問題に直面すると、進むべき道が分かりません。
その問題の前に、神が助けとなって下さるという信仰もありません。
信仰がなければ、私たちは決して祈ることが出来ません。
信仰に基づく祈りがなければ、キリスト者は主なる神から何一ついただけません。
大きな問題の前で、私たちは闇に閉ざされるだけです。何のためにキリスト者になったのか分かりません。
御言葉に照らされることが、どれほど大切であるか、ますます理解できたと信じます。
キリスト者の必須は、御言葉の意味を求めて、祈ることです。


(5) 祈りの土台

生まれながらの人間には祈りの力がないと言いましたが、主なる神は人間のそんな弱さをご存じです。そして祈ることにおいても、聖霊様の助けを与えて下さいます。
同様に霊も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊みずからが言葉に表せないうめきをもってとり成して下さるからです。
人の心を見抜く方は霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために、とりなして下さるからです。       ローマ8章

私たちの果たすべき責任はいつも言うように決断です。
祈れる気分の時だけでなく、祈れない気分の時でも、主なる神の前に立とう、そして願いと祈りを捧げようと決断することです。これだけはどうしても人間の果たすべき分です。
神は御言葉を理解させてくださり、主なる神に対する信仰を建て上げてくださり、祈る清さを与えて下さり、何を祈ればいいか啓示してくださり、祈る力を与えて下さいます。
こう言うわけで、キリスト者に残されていることは決断するだけなのです。
御言葉を読もうと決断し、御言葉の意味を開いてくださいと祈ろうと決断する。
問題を神の前に持ち込もうと決断し、神の助けを信じようと決断するのです。
私たちは自分の気分に依存してはなりません。左右されてはなりません。人間の気分ほど変わりやすく、当てにならないものはないのです。朝、笑っていても、昼、泣くのです。昼泣いていても、夜、喜んでいるのです。
私たちは変わることのない神の言葉に聞き従わねば、勝利のクリスチャン・ライフを送ることは出来ません。
心を注いで主に信頼し、決して自分の悟りに頼るな。 あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道を平らにして下さる。            箴言3
 私たちの神は私たちの弱さを知って、このように啓示される方です。
 神は心を注いで祈れ、と言われます。 神は私を信頼せよ、と言われます。
 自分の悟りに頼るな、と言われます。
 人間の悟りというのは、人の判断です。思いです。多くの場合は、気分です。
 人間は目がよく見えません。とても近眼なのです。その目で、見て、物事を判断するのです。間違いが多いのです。主なる神は永遠なる方です。時間に束縛されません。ですから、神の眼は過去も現在も未来も一枚のキャンパスの上に並べられているかのようです。神の言葉はこの全能と全知から出ているのです。
 ですから、神は言われるのです。「心を注いで主に信頼し、自分の悟りに頼るな」と。
 また私たちを強く愛し、幸せを願って、誓われるのです。
 私たちの行く道どこにおいても神の存在を認めるように。
 どこにおいても、です。一切の条件が付いていません。どんな問題の上においても、です。
 そうすれば、私があなたの道を平らにすると。ハレルヤ!
 私たちの神は啓示の神です。このように御自身の心と力を啓示してくださるのです。
 主よ、このように語られる神が他にあるでしょうか。
私たちはあなたこそたたえ、礼拝します。





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